蝉の鳴き声
父の出稼ぎ先の東京の芝に着くと、そこは生まれ育っていた地と異なり、賑わいにあふれ、妙子が初めて見るものばかりであった。
車がすれ違うたびに、妙子の目には東京の空気が音を立てて押し寄せてくるように感じられ、背丈の高いビルなどの建物にも驚かされた。
果たしてここでしばらくの間とはいえ、上手く生活していけるのかと思うと不安になった。
そして、何より妙子にとっては道行く人々の表情が、あまりに冷たく淡々と感じられた。
妙子ら家族は父親が働く会社の近くに住み、そのアパートは決して広くはなく四畳半であって、窓からは道路と道路の狭い間に小川が流れているのを見ては、沢田と行った美しかった川とは色合いが異なり、少しばかり濁っているようにも感じられた。
アパートからはいくつもの大きな建物が立ち並び、煙突が見え、煙で空は灰色の湯気のように映し出され、沢田と過ごした青空の隙間から見えるひかりとは異なって見えた。
一方でトラックを見送った沢田はなんだか何もかも自分の中から消え去ってしまうような気がして、立ちすくんだままだった。
気が付くと小さな山の向こうに、夕日が寂しい色を放ちながら紅色にゆっくりと染まりゆく光景が目に映り、妙子の優しい笑顔が重なって見えた。
しばらく眺めては、数キロの小道を歩き出すと、両脇に立つ樹木と野花が深く染まって見え、涼しそうな風が初夏とは思えないほど心地よく感じられ、どこか遠い記憶に心がそっと触れた気がした。
赤く染まった樹木や野花も、次第に沢田の寂しさを象徴するように、夕日が少しずつ夕闇に沈んでいくようで、空には欠けた月が山の上から覗き始めた。
まるで欠けた部分は妙子が失われていくように思われ、沢田は思わず立ち止まり、雲の合間からにじむように浮かぶ月を言葉もなく見上げていた。
夜は何事もなかったようにふけていった。
妙子が引っ越して数日が経過した。
学校に行くも、帰宅は常に一人きりであったので、余計、彼女の存在の大きさを感じた。
沢田は約束していた手紙を書くことにした。
妙子さんへ
妙子さん元気かな
僕は元気じゃないかもしれないな
さびしいよ、今は学校の帰りもひとりなんだ
だって妙子さんがいないからね
手紙って始めてかいたんだ
書きかたがわからなくてさ
かんじもしらなくて
国語辞典で漢字を調べながら書いたんだ
僕ってばかだよね
よく名門校へ入れたよ
数学と理科は得意だけど国語はさっぱりだよ
お母さんがなんども学校に頭をさげてくれて
お母さんが苦労してくれたのだなと思うと、なみだがでるんだよ
それで入れたんだと思う
でも何より妙子さんがすきだよ
やさしい笑顔の妙子さんが好きだよ
今度かえってきたらね
プレゼントしたいものがあるんだ
楽しみにしててね
早く帰ってきてね
じゃあね
手紙が妙子のアパートへ届くと、母親は沢田という男が誰なのかわからずに、妙子に渡そうとした。
「妙子、沢田さんという方から手紙が届いているわよ」
「本当? お母さん、いいから、いいから、早く手紙を見せて」
「あら、あなた誰かいい人でも出来たの?」
「違うわよ。それより手紙を早くちょうだい」
燕の子が餌を求めるかのように両手を広げて催促した。
それは寂しい思いをしていた妙子にとって、トンネルの中の暗闇から抜け出して、明るい陽射しが広がるように思えた。
走って部屋に戻り手紙を読むと、幼く間違った漢字などが見受けられ、いつもの沢田の印象とは異なり、微笑ましく思えて急いで返事を書いた。
沢田幸三様
蝉の鳴き声が東京でも響き、夏を感じることができます。
まるで、会いたい、会いたいというように聞こえるのです。
お元気にされていらっしゃいますか?
私は元気にしております。
空を見上げると、いつも沢田さんの姿を見ることができるのです。
沢田さんが元気がないのなら、私も元気がなくなりますよ。
日に焼けた明るい笑顔が、私の中から消えることはありません。
私が住んでいる町は自然がとてもきれいで、空気も澄んでいます。
だから、心配しないでくださいね。
もう少ししたら会えます。それまでくじけずに頑張ってください。
私へのプレゼントは何より、沢田さんの笑顔です。
沢田さんの優しい笑顔です。
早く帰りたいという気持ちでいっぱいです。
それから、どうしようかな? やっぱり書きます。
豊子と仲良くしないでね。
仲良くしたら、もう交際してあげないからね。
それでは、暑くなりましたから、お体を大事にして、
また、元気な姿を見せてください。
前村妙子
沢田は白く小さな可愛らしい封筒に入っている妙子の手紙を読んだ。
中には一輪の白い花が、まるで沢田に語り掛けるように、そっと入っていた。
送られてきた花に自らの鼻をつけては、香りを嗅いで女性らしさを感じた。
花を送るということは思いつきもしなかったので、驚きながらも嬉しくてたまらなかった。
返事を書くかどうか迷ったが、妙子の手紙を読んでは、自分の手紙の幼稚さに気づいて、恥ずかしくて書けなかった。
妙子は沢田から手紙が送られてこないことを寂しく思い、豊子と仲良くしているのではと心配になってきた。
二人とも繊細な色合いを映し出し、生まれてまもない幼子のように輝いていた。




