花すすき 菊の盃
山間の紅葉に心を奪われながら、馬をのろのろと進める。
先ほどから手前を進む牛車が大きく揺れ、中から甲高いお咎めと、言い訳をする主の情けない声が聞こえていた。主と姉上の、いつもの痴話喧嘩である。
やれやれと溜息を吐いていると、隣に直道が馬を並べる。
ふと、道端の小高くなった丘に白い野菊が群生しているのが目に入る。
直道は馬を止めると、身を軽く踊らせて丘へ上がり、一番色良く咲いた野菊を一枝、手折ってきた。
「……これで、お止まりになればよいが」
直道から野菊を受け取り、小さく頷き返す。
その指先が触れ合った一瞬、僅かに人恋しさを感じた。気付かない振りをしていると、直道が咳払いをして、呟く。
「なんとも美しい菊だ。今一度丘へ上がってくる。……今宵は久々に花を手折って愛でようか」
「ならぬ。……今宵は静かに休みたい」
無粋だ。扇を広げて突っぱねてやった。
ぱんと広げた扇に直道は一歩後退り、あからさまに眉尻を下げ、大きな肩をがっくりと落としている。実に分かりやすい男だ。
「では菊を浮かべた酒を届ける。菊酒を飲み交わすくらいは、許してくれぬか」
……少しは考えたようだな。
「菊酒か……趣があるな。悪くない。……主の菊に歌でも添えるか。露ながら 折りてかざさむ 菊の花……」
唯輔はすまし顔のまま誦じて牛車へ寄り、喧嘩の真っ最中の御簾の隙間から、その菊を献上したのだった。
◇
「踏み歩くのが惜しいな……」
見渡す限り、紅葉が視界を埋め尽くしている。足元さえも落ち葉が彩り、艶やかな織物を広げたようであった。
宴に添える紅葉の枝を探し歩いているうちに、やがてすすき野原が広がる水辺に出た。
すすきの穂が露を纏い、柔らかな風に揺れている。手招く穂花の赤き色合いに心惹かれ、ふと口ずさむ。
「花薄 また露深し ほに出でて ながめじと思ふ 秋のさかりを」
(穂を出したすすきの花が白露に濡れそぼっている。見まい、思い出すまいと心を宥めているのに、秋は深まっていく)
かつて人恋しさの募る秋の夜に、唯輔と酌み交わした日を思い出す。
ほろ酔いの唯輔の色香の凄まじいこと、気がつけば抱き寄せ、唇だけでは飽き足らず……飢えた獣のように身体中を貪り尽くした。
白い肌に浮かんだ玉のような汗に、草露のように美しい涙に、堪らず吸い付き……もっと見たいと強いて泣かせたいとさえ願った。夢中で……気がつけば気まずい朝を迎えていた。
「直道」
そう、このような……少し頬が上気して美しい肌の……
「直道」
本人か。会いたいあまりの幻かと思うた。
「呼びに来てくれたのか……すまぬ。すすきに見惚れていた」
「先ほどの歌……秋を詠む良い歌だ。眺めじと思えど秋は盛んでな……」
唯輔がこちらを見て艶やかに微笑む。
思わず手を伸ばしかけて、躊躇う。
(誘うか。いや……ならぬ。一年前の二の舞になりたくはない。ようやくあの桜を経て、こうして隣で穏やかに歌を交わせるようになったのだ。ここでまた欲に任せて手酷く抱けば、今度こそ見放されてしまう)
「宴の支度も整う頃合いだな」
胸の奥で渦巻く熱を、冷たい秋風に晒しながら踵を返す。
唯輔が少し意外そうな顔で見つめてきたが、やがて優美に頷く。
「……そうだな。主がお待ちだ」
◇
盥に一つ、菊を浮かべる。
闇夜を照らす月のようで、なんとも風情がある。
静かに酒を酌み交わしながらしばらく眺めていると、直道が袂から幾つもの菊を盥に放り込んだ。
「綿はないが、こうして手巾を被せておく。明朝には露を含むことだろう……」
なかなかに趣がある。
「……では、そろそろ」
そう呟いて、直道が盃をぐいっと仰いだ。
本当に帰るつもりか。
顔を見上げると、直道の唇に先ほどまで盃に浮かべていた花びらが付いていた。
凛々しい顔立ちに似合わず、思わず笑みが溢れる。
「付いているぞ」
そっと指で摘み取る。
いとも容易く口を寄せた花びらに嫉妬し、自嘲する。
摘んだ花びらをしばし見つめ……口に含んだ。
直道は呆けていたかと思うと、ごくりと唾を飲み込む。
その様をもっと見たくて、私の盃に浮かんだ花びらを摘む。
「ほに出でておるぞ」
直道の口元に指先を寄せると、直道は味わうように指ごと熱く咥え込んだ。
熱い口内と、吸い上げられる滑らかな舌の感触。指先でなく口を寄せたなら……と思わず自らの唇を開きかけた。
ほに出でているのは、私の方ではないか。……顔が熱い。
「今一度。今一度やってくれ……!」
直道のこの顔がもっと見たい。
猛々しい獣のような瞳で私を射抜いている。
興奮と身震いで指先をかすかに震わせながら、私は盃から次の花びらを摘み──自身の赤く濡れた舌の上に乗せて見せつけた。
◇
視界が真っ赤に染まるようであった。
理性を繋ぎ止めていた最後の糸がぶつりと切れ、気がつけば唯輔に噛み付くように口付け、その舌から花びらを強引に絡め取っていた。
息もさせぬ勢いで襲いかかってしまい、ハッと我に返る。
「……眺めぬのではなかったのか?」
唯輔が肩で息をしながら、くすりと妖しく笑う。
「かように美しき花を目の前に、出来ぬ相談だ」
がばっと覆い被さり、再び唇を塞いだ。
「すまぬ。想いが止まぬ。……だが」
骨が軋むほどに強く抱きすくめる。
「決して離れるな。お前の温もりがないのは……堪える。桜まで待つことは、もうできぬ」
背中にしなやかな腕が回る。唯輔の顔を見つめると、艶やかに微笑んでいた。
「眺めじと思えど、盛んな秋に満たされて……桜など見えぬ」
「ああ。埋め尽くしてやる。花に注がん。秋の盛りに目を逸らすな」
袂からこぼれ落ちた菊花が散らばる。一つ手に握り締め、白く美しい身体に散らした。
その花びらを一枚、また一枚と追うように、視線を、指を、舌を、絡ませる。秋の静寂に夜露が溶けていく。
第一話『桜狩り』の外伝として、半年前の出会い話をpixiv/ムーンライトノベルズに投稿しました。
作品名【『桜狩り』外伝・出会いの秋──和歌で解く二人の恋】もしくは作者名【きびだんご】で検索してください。




