第六話 終断
扉の外の、気配が、消えていた。
見張りの、二人。さっきまで、怯えながら、そこに立っていた二人だ。それが——いない。
地鳴り。悲鳴。家の潰れる音。それが近づくにつれ、外の気配は薄くなり、そして、ふつりと消えた。逃げたのだ。囚人の番など、放り出して。
ジモンは、後ろ手の縄を、ほどいた。
縄は、とうに抜けられた。ただ、抜ける理由がなかっただけだ。だが——今は、ある。
立ち上がり、納屋の扉を内側から押す。閂は、外れたままだった。見張りが、逃げる時にかけ忘れたのだろう。音もなく、扉が開いた。
外は、赤かった。
燃える家。崩れた屋根。立ちのぼる煙。その向こうで、黒い巨体が、動いている。だが、先刻とは、違った。逃げ惑う村人を、追ってはいない。崩れた家にも、目を、くれない。
ただ、一点だけを——倒れた、一人の男だけを、狙っていた。
「ジモン」
声が、した。
振り返ると、ナギが立っていた。手に、錆びた短刀。それで、納屋の閂を断つつもりだったのか。だが、扉は、もう開いている。
ナギは、その様子を見て、ふっと息を吐いた。
「……縄なんぞ、最初から、効いてなかったか」
「ナギ」
「……すまん」
ナギは、短刀を、下ろした。ジモンの目を、見て、言った。今度は、逸らさなかった。
「竜の戦士に、逆らえなかったというのは、言い訳だ。ミラに、散々詰られたよ。爺ちゃんは、見て見ぬふりをした、とな」
「気にすんな」ジモンは、後ろ手の縄を、自分でほどきながら、軽く言った。「下っ端は、上に忖度するもんだ。どこの世界でも、な」
ナギは、ふっと、息を吐いた。それから、首を、振る。
「お前が何者かは、知らん。竜の戦士が、なぜお前を繋いだのかも。だが——」
燃える村を、映した目が、細くなった。
「お前は、違う。あの森にいた余所者どもとは、違う。」
ナギは、低く、続けた。
「わしらは——この村でしか生きられない。だから、余所者の、お前を、見捨てようとした」
短刀を握る手に、力が、こもる。
「……わしも、余所者の、くせにな」
ジモンは、何も、言えなかった。
いつか、薪を割るナギに、森で見たことを囁いた、あの夜。あれが今、ここで、自分の縄を解いていた。
「逃げろ」ナギは言った。「東へ。森を抜けりゃ、追っては来れん。お前なら、できるはずだ。……ここに義理立てする、いわれはない」
逃げる。
できる。今の体なら、容易い。誰にも、追いつけない。
ジモンは、燃える村を、見た。
斜面の下で、ミラが、腰を抜かした女を引きずって、逃げている。まだ、逃げ切れていない者がいる。その向こうで、ナギの家が、半分、潰れていた。粥を三杯、食わせてくれた家だ。
「悪いな、ナギ」
ジモンは、一歩、前へ、出た。
「ここの、飯は、うまかったんだ」
ナギが、何か、言う前に。
「皆を、避難させてくれ」ジモンは、燃える村の奥を見据えた。「あれの足を止める。その間に」
それだけ、言って、走り出した。
「——ジモン!」
ナギの、声が、背中に、当たった。だが、ジモンは、止まらなかった。
『退避を、強く推奨する。』
頭の中に、ムニンの、声。
「わかってる」ジモンは、走りながら、答えた。「村人が逃げるまで、ちょっと、惹きつけるだけだ」
ムニンは、答えなかった。
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広場は、地獄だった。
黒い巨体が、倒れた竜の戦士を見下ろしている。腕を、振り上げていた。
とどめだ。
考えるより先に、ジモンの手が動いた。足元の、瓦礫。握りこぶしほどの、石の欠片。それを拾い、指で弾く。
見えない速さで、それが、飛んだ。
巨体の、頭部——横一文字の、赤い線の、ただ中を、撃つ。
甲高い、音が、跳ねた。
巨体の、動きが、止まった。
横一文字の線が、ぐるりと向きを変える。振り上げた腕は、宙で止まったまま。赤い光が、ジモンを捉え——揺れた。
ためらうように。まるで、目の前のものを、どう扱えばいいのか、わからない、とでも、いうように。
ジモンには、その意味がわからなかった。ただ、竜の戦士から、的が逸れた。それで、十分だった。
「こっちだ!」
叫んで、横へ跳ぶ。巨体の注意を、自分に縫いつける。
だが——丸腰だった。
この体で、いくら動けても、素手では、あの装甲は砕けない。何か。何か、武器になるものは。
ジモンの、目が、戦場を、走った。
そして、止まった。
広場の、瓦礫の、隙間。そこに、一本の、剣が、突き刺さっていた。
大ぶりの、両刃の、剣だった。ジモンの、背丈ほどもある。柄は、革と、黒い金属で、幾重にも、巻かれ、刀身は、鈍く、青みを、帯びた鋼。
ただの、剣では、なかった。
刀身の、根元から切っ先まで、びっしりと紋様が刻まれている。蔓草のような、文字のような、見たことのない連なり。それが——燃える家の火を照り返して、ではなく。刀身の奥で、それ自身が、かすかに脈打つように光っていた。
竜の戦士が、背負っていた、あの剣だ。黒い巨体に弾き飛ばされ、主の手から、遠く離れて、地に突き立っている。
ジモンは、地を、蹴った。
無拍子。一足で、瓦礫を越え、剣の前に。柄に、手を伸ばす。
その時。
掠れた声が、した。ファフニールだった。
「やめろ……それは、お前如きが、扱える、剣では——」
ジモンの手が、柄を、握った。
——ぴり、と、何かが、奔った。
掌から、腕へ。拒むような、何か。剣が、ジモンを弾こうとした。資格を問うように。
だが、それは、すぐに消えた。問いかけが、空を切ったように。問われた答えが、ジモンには、最初からなかった。鍵のかからない扉のように。
剣が、手に、馴染んだ。
ぞっとするほど、自然に。
ジモンは、剣を、引き抜いた。
その瞬間、刀身の、紋様が、淡く、灯った。応えるように。
ファフニールの、言葉が、止まった。金色の眼が、見開かれる。
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黒い巨体が、動いた。
剣を、警戒したか。腕が、薙ぎ払う。家三つ分の、巨体の一撃。
避けられない——はずの、軌道。
だが、ジモンには、見えていた。腕が来るより、先に。「そこに来る」という、それが。
体が、勝手に沈む。紙一重で、腕が頭上を過ぎた。風圧で、髪が煽られる。
そのまま、懐へ。
立っていたかと思うと、次の瞬間、ジモンは、巨体の足元にいた。剣が、奔る。
刀身が、黒い装甲を、断った。
今度は、抵抗がまるで違った。豆腐を裂くように。関節の青い光が、傷を塞ごうとして——塞げない。剣が、それを許さない。
「……効く」ジモンは、呟いた。
奇妙な心地だった。体が勝手に動く。剣が手に馴染む。何もかも、初めてのはずなのに。何もかも、最初から知っていたような。
——これは、俺なのか。
恐怖が、背筋を、舐めた。だが、止まれなかった。止まれば、後ろの、村が、潰される。
ジモンは、舞った。
斬る。躱す。また、斬る。予備動作のない斬撃が、巨体を刻んでいく。腕。脚。胴。青い光が、追いつかない。
黒い巨体が、初めて——後退った。
瓦礫の陰で、ファフニールは、瞬きも忘れて、それを見ていた。
巨体を刻む、その男の背からは、殺気も、熱気も、感じられない。息一つ、上がっていない。ただの——作業だった。
千年、振るってきた剣だ。あの剣の太刀筋なら、知り尽くしている。だが——あの男の剣は、違った。見たことが、ない。型が、ない。なのに、一太刀ごとに、最も無駄がなかった。
「……ありえん」ファフニールの、唇が、震えた。「あの剣は……神に、認められた者にしか、扱えぬ、はずだ……」
巨体が、膝を、ついた。
あと、一押し。胸の装甲を、こじ開け、コアを、晒せば。終わる。
ジモンは、剣を、構え、踏み込んだ。
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その時だった。
黒い巨体が——変わった。
軋み。装甲が、内側からせり上がる。継ぎ目という継ぎ目から、青白い光が噴き出した。剥がれた装甲の奥で、回路のような溝が、自ら組み変わっていく。横一文字の赤い線が裂け、二重に、三重に、増えていく。膝をついていた巨体が、ゆっくりと立ち上がる。先刻より、ひと回り、大きく。
空気が、軋んだ。
「——いかん」
ファフニールの、声が、掠れた。
「時間を、かけすぎだ……! 上位形態に、変化するぞ——!」
声は、轟音に、掻き消された。
ジモンには、何が、起きたのか、わからなかった。ただ、目の前の、敵が、別物に、なったことだけは、わかった。
巨体の、腕が、振られる。
見える。「来る」のは、わかる。だが——速い。先刻の、比では、ない。
体が、沈む。間に、合わない。
腕が、ジモンを、捉えた。
衝撃。
体が、宙を舞った。家の土壁に叩きつけられ、それを突き破って止まる。土と漆喰の砕ける音が、鼓膜を、殴った。
息が、止まった。
口の中に、血の味。肋が、軋む。立とうとして、膝が、笑った。
——効いた。
初めて、だった。村に来てから、何を受けても、どこかで高をくくっていた。痛いが、平気だ、と。だが、今のは、違う。これは、効く。次を受ければ——死ぬ。
剣を、杖に、ジモンは、立った。
黒い巨体が、こちらへ向き直る。三重の赤い線が、ジモンを見据えた。今度は——ためらわなかった。
「……まいったな」ジモンは、血を、吐いた。「ここまで、来て」
腕が、振り上がる。
避けられない。今度こそ。体が、動かない。
ファフニールが、瓦礫の中で、もがいた。立とうとして、果たせない。剣も、ない。声も、届かない。
「おのれ……動け。動かぬか、この、体は——!」
倒れた、千年の戦士に、できることは、歯を、食いしばって、見ていることだけだった。
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ジモンは、迫りくる、黒い影を、見上げた。
死ぬ。また。
一度、死んだ。今度も、か。
嫌だ、と、思った。
まだ、何もわかっていない。自分が何者なのかも。なぜ、ここに来たのかも。何ひとつ。こんなところで。
——止めたい。
それは、剣を、握る、手に。体の、奥に。声にも、ならない、ただの、願いだった。
止めたい。この、化け物を。守りたい。後ろの、村を。
だから——応えてくれ。
剣が、応えた。
刀身に、白い紋様が、奔った。
ジモンの知らない、文字だった。見たことも、ない。なのに、刀身から滲み出すように、それは生まれ、空中へとほどけ、展開していった。失われた、何かの言葉。誰にも読めない。ジモン自身にも。
光が、溢れた。
剣からでは、なかった。
ジモンの、体から。掌から、腕から、胸の奥から。剣と共鳴するように。まるで——剣の、足りなかった半分が、今、ここに揃った、とでもいうように。
ジモンには、何が、起きているのか、わからなかった。
ただ、ひとつだけ、わかった。
これは、剣の、力では、ない。
——俺、だ。
ぞっとした。自分の、体の、奥から、こんなものが、出てくるのか。だが、その恐怖を、押しのけて、もっと、強い思いが、あった。
止める。
ジモンは、剣を、振り上げた。
『遺骸終断——ネメシス・オーバーライト——』
誰の、声か、わからなかった。自分の、口から、出たのか。剣が、言ったのか。
一閃。
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その、同じ、瞬間。
戦場の、隅の、物陰で。
小さな、影が、動いていた。
ムニンだった。仮面の男の、足元。男が手にした、淡く光る装置。そこから漏れる、ひとすじの信号に——ムニンは、ずっと止まっていた。観察して、いた。研究対象が立ち向かう間、ただ、見て。
だが、ジモンの体が、土壁に、叩きつけられた、あの時。
ムニンの、黒い目の、奥で。何かが、切り替わった。
『——不許可』
ムニンの、声は、誰にも、届かなかった。
繊維の羽が、逆立つ。男の装置から立ちのぼる、稚拙な信号の束。手探りで組まれた、命令。それを、ムニンは——読んだ。同じ源を持つ者として。人の手では、決して辿れぬ速さで。
そして、ほどいた。
書き換えられた、命令が。一行ずつ、解かれ、消えていく。
仮面の、奥で。
男の、息が、止まった。
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刀身の、一閃が、黒い巨体を、薙いだ。
音は、しなかった。
砕けも、しなかった。
ただ——巨体の全身を巡っていた、青白い光が。三重の赤い線が。まるで、夜空の星が、ひとつ、ふっと消えるように。
静かに、途絶えた。
家三つ分の、黒い巨体が。ゆっくりと、傾ぎ。地響きを立てて、崩れ落ちた。
最後に、横一文字の線が、淡く、瞬いて——消えた。
赤くも、青くも、なく。ただの、黒い、線に、戻って。
静寂が、降りた。
燃える家の、爆ぜる音だけが、後に、残った。
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ジモンは、剣を、提げたまま、立っていた。
刀身の白い紋様は、もう消えている。空中の文字も、ほどけて散った。手の中の剣は、ただの重い鉄に戻っていた。
ジモンは、自分の、手を、見た。
何を、したのか。わからなかった。
剣を、振った。それは、覚えている。だが、あの光は。あの文字は。体から溢れた、あれは——何だったのか。
膝から、力が、抜けた。その場に、座り込む。今になって、全身の、痛みが、戻ってきた。
『……ジモン』
頭の中に、ムニンの、声。いつもの、平坦さが、わずかに、揺れていた。
「……ムニン」ジモンは、掠れた声で、答えた。「俺は、今……何を、した」
ムニンは、答えなかった。
長い、沈黙だった。
それから、ぽつりと、言った。
『生存確認。大丈夫か。』
それは、ムニンが初めて、ジモンに向けた——労りのような、何かだった。
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瓦礫の中。
ファフニールは、その、一部始終を、見ていた。
砕けぬ巨体。星のように消えた光。失われた文字の列。そして、それを引き出した、一人の男。
千年、生きてきた。Sランクと呼ばれ、神託を受け、無数の戦場を踏んできた。だが——あんなものは、見たことがなかった。
最初は、剣を、疑った。あの剣に、あんな力が、隠されていたのか、と。
だが、違う。
「……引き出したのは、剣ではない」ファフニールは、呟いた。畏れの滲んだ声で。「あの、男だ」
〈竜眼〉は、あの男を映さなかった。剣は、あの男を選んだ。SS級の守護獣を、あの男が鎮めた。
神々が、知らぬもの。まだ、生まれていない者か——神々より、古いもの。
ふと浮かんだ、その考えを。ファフニールは、今度は打ち消せなかった。
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座り込んだ、まま。
ジモンの、胸の奥で。あの棘が、ちりっと疼いた。
反射的に、ジモンは、顔を、上げた。
煙の、向こう。
白い仮面が、ちらと、こちらを振り返った——気がした。
値踏みする、ような。何かを、確かめ、持ち帰る、ような。
それから、影は、煙に、溶けるように、消えた。
ジモンは、立ち上がろうとして、よろめいた。追えなかった。今の体では、一歩も。
誰だ。何を、見ていた。
問う相手も、追う力も、なかった。
ただ、見送ることしか、できなかった。
何かが、終わった。
そして、何かが——始まって、しまった。
そんな、気が、した。




