第七話 残り火
夜が、明けていく。
空の端が白み始めても、村は、まだ煙っていた。燃え尽きた家。倒れた柱。あちこちで、誰かが、誰かの名を呼んでいる。
ジモンは、広場に座り込んだまま、それを聞いていた。
崩れ落ちた黒い巨体が、すぐ傍にある。家三つ分の、亡骸。横一文字の線は、もう何の光も灯さない。ただの、冷えた鉄の山だ。
「ジモンさん!」
声が、した。
ミラだった。斜面の下から、転がるように駆けてくる。煤で、顔が汚れている。だが、無事だった。
「ジモンさん、生きて——」言いかけて、ミラは、ジモンの姿に息を呑んだ。「……血。すごい、血。動かないで、今、誰か——」
「平気だ」ジモンは言った。実際、痛みは引き始めていた。驚くほど、速く。だが、それを口にはしなかった。「それより、ナギは」
「無事。怪我した人を運んでる」ミラは、ジモンの傍に膝をついた。それから、崩れた巨体を見上げ、ジモンの手の剣を見た。「……それ、竜戦士様の。ジモンさんが、青目様を……止めたの?」
「この剣のおかげさ」ジモンは答えた。
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「その剣を」
低い声が、した。
瓦礫の中から、ファフニールが身を起こしていた。片膝をつき、崩れた壁に手をついて。鱗の覗く首筋に、血が伝っている。だが、金色の眼は、はっきりとジモンを見ていた。
ジモンは、立ち上がった。よろめきながら、ファフニールの前まで歩く。そして、剣を両手で差し出した。
「返す。あんたのだろう」
ファフニールは、すぐには、受け取らなかった。
「……お前は」と、言った。「それが何か、承知の上で、握ったのか」
「いや。こいつはすごい剣だな。助かった」ジモンは、答えた。「あっ。そうだ、勝手に借りたな。すまんかったな」慌てて付け加えた。
ファフニールの眼が、細くなる。嘘を探すように。だが、ジモンの顔には、嘘がなかった。本当に、わかっていない。それが——わかってしまった。
「……そうか」ファフニールは、剣を受け取った。「千年、この剣を振るってきた。だが、先ほど、お前が引き出したものを、私は知らぬ。あれは、私の知るこの剣では、なかった」
剣を、鞘に納める。その手が、わずかに止まった。
「応えたのは、私にではない。お前に、だ」低い声だった。「千年、振るってきた剣に、私の知らぬ力が、あった。それを引き出したのが——よりにもよって、お前とは」
畏れとも、好奇とも、つかなかった。
ファフニールは、ゆっくりと立ち上がった。ジモンを見下ろす。金色の竜眼が、ジモンの姿を、なぞる。だが、その輪郭は、どうしても、像を結ばない。霧を、掴むようだった。村人を捕らえろと命じた、あの時の眼とは、違っていた。
「縄は、もう打つまい」と、言った。「お前が何者かは、わからぬ。私の眼にも、映らぬ。だが——村を救ったのは、お前だ。それは、この眼で、見た」
「……ありがとよ」ジモンは、頭の後ろを掻いた。「正直、助かるよ。もう一度、縛られるのは、勘弁してほしかった」
ファフニールは、答えなかった。
ただ、その金色の眼の奥には、まだ、解けきらない何かが、残っていた。
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その時。
ジモンの胸の奥で、棘が、また疼いた。
視界の隅。崩れた塀の陰を、人影が一つ、走り抜けようとしている。旅装の、男。森で、ゴルドと会っていた、あの男たちの一人だ。
考えるより先に、体が動いた。
痛む足が、地を蹴る。男が振り返った時には、もう、ジモンはその背後にいた。腕を捻り上げ、地面に組み伏せる。
「——っ、放せ! 何だ、貴様——!」
男が、喚いた。だが、ジモンの、腕は、外れなかった。
「悪いが」ジモンは、男を押さえたまま、言った。「あんた、見覚えがある」
男の顔が、強張った。
ジモンは、男を引きずって、ファフニールの前まで運んだ。
「こいつらだ。以前、森で、何かこそこそやっているのを、見た」
ファフニールは、組み伏せられた男を見下ろした。その腰の、装具。隠した刃物の、形。古びた白っぽい面の欠片が、懐から覗いている。それらを一瞥して——金色の眼が、すっと冷えた。
「……ブルズアイか」
男の肩が、跳ねた。図星、だった。
「あんたの、知り合いか?」ジモンは、聞いた。
「神に、仇なす、者たちだ」ファフニールは、短く、答えた。
男は、何も、語らなかった。
組み伏せられても、口を固く結んだまま。名も、仲間のことも、漏らさない。そう、躾けられた者の目だった。
捨てられても、なお黙る。ジモンには、それがかえって、不気味に思えた。
「なあ」ジモンは、ファフニールに、聞いた。崩れた黒い巨体を、見上げながら。「青目様を暴れさせたのも——あいつらか」
「間違いなかろう」ファフニールは、答えた。「奴らブルズアイは、我が神に対抗するために、古い遺物を掘り起こして、邪なことに利用しているようだ。」
ジモンは、黙って、黒い亡骸を見た。
「神の御業を盗み、世の理を、ひっくり返そうとする者たち」ファフニールの声に、苦いものが混じった。「神託を受けた、私にとっては——相容れぬ敵だ」
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ゴルドは、村の外れで見つかった。
工作員たちと一緒に、逃げようとして、置いていかれたのだ。震えながら、藪に隠れているところを、村の男たちに引きずり出された。
すべてが、露見した。聖域への、手引き。余所者への、内通。金で、村を危うくしたこと。
村長は、言葉を失っていた。
口の上手いゴルドを、重んじ。守り神に疑いを漏らした、ナギ父娘を、遠ざけてきた。その判断の、すべてが——崩れた巨体の前で、無残に裏返っていた。
「お……俺は、何にも知らねえよ。ただ、ちょっと手伝えば、金をくれるって言うから……」ゴルドは、声を震わせた。
「馬鹿者が……」村長は、呻いた。
ナギは、何も、言わなかった。
ただ、怪我人に肩を貸し、黙々と働いていた。勝ち誇りも、しなかった。その背中を、村長は、ただ見ていることしか、できなかった。
ミラが、ジモンの隣に来た。
「……あたしたち、ずっと、余所者扱いだったの」ぽつりと言った。崩れた村を見ながら。「父さんが、青目様を変だって言うたびに。皆、いやな顔、して」
「そうか」
「でも、父さんは、正しかった」ミラは、ジモンを見上げた。煤だらけの顔で、少しだけ笑った。
ジモンは、何と言えばいいか、わからなかった。
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森を抜ける、男が一人。
白い仮面の男だった。
血の一滴も、浴びていない。足音も立てない。先史文明の仮面が、その気配をことごとく消している。竜の戦士の感覚すら欺いた、隠密の技だ。
ゾルムスは、足を止めず、思考だけを巡らせていた。
作戦は、失敗した。番人の奪取は、ならなかった。下位の駒は、捨ててきた。組織は、結果しか見ない。自分の評価は、落ちるだろう。
だが、それは、些事だ。
問題は——あの、男だった。
無数の戦場を、見てきた。強者も、化け物も。だが、あんなものは、初めてだった。番人を、止めた。それも、SS級の上位形態を。たった一人で。
しかも。
仮面の奥で、眼が細くなる。
あの男に、気配がなかった。マナの揺らぎも、恩寵の波長も。何も。気配を消す達人であるこの自分が——存在そのものを、捉えられなかった。消されていたのでは、ない。最初から、そこに何もないかのようだった。
「……神の、使徒か」
低く、呟いた。
それしか、説明がつかなかった。神々が、この辺境の企てを嗅ぎつけ、刺客を送り込んだ。番人を止め、自分たちを潰すために。特殊なスキルを持つ人間か——あるいは、人の姿をした使徒。
「失態だな。さて、こんな非常識なことをどう報告したものか…」
呟いて、男は薄く笑った。失敗した隊長の、世迷い言。そう片付けられるに、決まっている。あの男の底知れなさを、肌で知ったのは、この自分、ただ一人。
ならば、それで、いい。
「いずれ、また」
仮面の男は、森の闇へ溶けた。
神々の知らぬ、男の影が。この世でただ一つ、反神の徒の記憶にだけ——刻まれた。
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陽が、昇った。
煙の向こうから、白い光が差し込んで、崩れた村を照らした。失ったものは、多い。だが、村は残った。人も、半分以上は生きている。
ジモンは、それを見ていた。
勝った、のだろうか。よく、わからなかった。守り神を、壊した。村の、半分も。仮面の男は、逃した。何かが終わって、何かが始まった気がする。だが、その「何か」が何なのかは、相変わらず、わからないままだ。
わかったのは、ひとつ、だけ。
自分は、普通の人間ではない。剣を握れば、千年の戦士の知らぬ力が出る。体は、自分の意志より先に動く。あの光は——あれは、剣ではなく、自分の中から出た。
——俺は、何なんだ。
問いは、村に来たあの日より、ずっと大きく、ずっと重くなって、胸に残っていた。
肩に、ムニンが止まった。
『これから、どうする。』
ジモンは、少し、考えた。
「辺境都市、ラスリン」やがて、言った。「ここらで、一番の都市らしい。行ってみる。……何か、わかるかもしれん」
幾日か前の夜。寝床で、決めたことがあった。大きな街へ出て、力をつけ、世界を知り、自分が何者なのかを、確かめる。
その漠然とした決意に。今、初めて、行き先がついた。
ムニンは、何も、言わなかった。
ただ、繊維の羽が、朝日を受けて、金色に光った。
ジモンは、崩れた黒い巨体を、最後に一度、見上げた。
百年、村を守ってきた——と、誰もが信じてきた守り神。その正体も。なぜ、それが暴れたのかも。なぜ、自分がそれを止められたのかも。何ひとつ、本当のことは、村人に伝わらないまま、終わるのだろう。
伝わるのは、ただ、「守り神様が、お怒りになり、また、お鎮まりになった」という、それだけ。
崇める者には、崇める者の、物語がある。
ジモンは、そっと息を吐いた。
立ち直っていく村の、その朝の光の中で。
世界が、自分に隠していることの大きさだけが——静かに、輪郭を現し始めていた。




