第十四章 死体より先に置かれた名前
すべての灯が消えたあと、十二灯館は静かになった。
静か、というより、息を潜めていた。
犯人役、確定。
玄関広間のモニターには、まだその文字が残っている。
赤い画面。
白い文字。
真壁彰の名前。
それは証拠ではなかった。
判決でもない。
事実でもない。
ただ、誰かが用意した表示だった。
だが、人間は疲れ切ると、表示されたものを信じたくなる。
真壁は、それを知っていた。
名前がある。
文章がある。
画面に出ている。
声が流れている。
映像がある。
鍵がある。
それだけで、人は考えることをやめられる。
この人が犯人だ。
この人が悪い。
この人を見ていればいい。
そう決められたら、どれほど楽だろう。
今、この玄関広間にいる者たちは、全員がその楽さに引きずられかけていた。
朽木怜二は、真壁の方を見ていた。
目に疑いがある。
怒りもある。
だが、その下にもっと濃いものがあった。
恐怖だ。
彼は、真壁が犯人であってほしいのだ。
そうすれば、終わるから。
真壁を縛ればいい。
真壁から鍵を奪えばいい。
真壁を見張ればいい。
犯人役、確定。
画面がそう言っている。
ならば、従えばいい。
そうすれば、次の灯はもうない。
もう誰も死なない。
そう思いたい顔だった。
氷室圭吾も、似た顔をしていた。
痛みに顔を歪め、煙で傷んだ喉を押さえながら、それでも真壁を見る目に縋るような弱さがあった。
鳴海栞は、違った。
彼女は真壁を見ていない。
モニターを見ていた。
赤い画面ではなく、その文字の並びを見ている。
まるで、自分の書いた文章を校正するように。
二階堂壮也は、その鳴海を見ていた。
声を殺された男が、今度は誰かの沈黙を読んでいる。
九条雅紀は目を閉じていた。
薬物のせいで視界が乱れ、開けているより閉じている方がまだましなのだろう。
だが、耳だけは起きている。
指先も、膝の上でわずかに動いていた。
死体に触れられない代わりに、空気の揺れを読もうとしているようだった。
鳳恭介は、床を見たい衝動を堪えていた。
建物を読む男が、建物を読まないようにしている。
それは苦痛だろう。
神楽坂小夜子は、二階堂の口元を見ていた。
声を奪われた彼女は、もう音だけでは誰も信じない。
けれど、その目には、さっきまでよりもわずかな意志があった。
見る。
確認する。
頷く。
彼女に残された戦い方だった。
真壁は、両手を上げたまま言った。
「ここから、順番を変えます」
二階堂がすぐに補った。
「真壁が今、口で言っています。録音ではありません。全員、口元を確認してください」
朽木が苛立ったように言った。
「いちいち、それを続けるんですか」
「続けます」
二階堂は答えた。
「面倒なら、犯人の声に従ってください」
朽木は黙った。
二階堂の言い方は冷たかった。
だが、必要だった。
もう丁寧に怯えを包む余裕はない。
怯えた者が勝手に動けば、次の罠になる。
真壁は続けた。
「犯人は、俺を犯人役にしました。鍵を俺のポケットに入れた。第十二保管室は死体の下だと表示した。俺に死体を動かさせ、保管室を開けさせたい」
鳳が静かに言った。
「その動作が、犯人役の完成になります」
「そうです」
真壁は頷いた。
「だから、俺は触らない。死体にも、鍵にも、床にも触らない」
「では、どうやって調べるんです」
朽木が問う。
「見ます」
真壁は答えた。
「動かす前に見る。触る前に見る。名前を置く前に見る」
九条が目を閉じたまま、低く言った。
「基本だな」
「お前が言いそうなことを言った」
「使用料」
「あとで払う」
二階堂が小さく息を吐いた。
ほんの一瞬だけ、緊張が薄くなる。
その一瞬を、真壁は逃さなかった。
人間の空気が戻る瞬間。
犯人の用意した見立てではない、ここにいる者たち自身の呼吸。
それを積み重ねなければ、この館には勝てない。
*
「まず、西園寺さんです」
真壁は、柱陰の死体を見た。
第一の死体。
胸元を赤黒く染めた西園寺雅治は、最初に館の中へ置かれた名前だった。
いや、正確には違う。
名前が先だった。
――西園寺さんは?
誰かがそう言った。
その声をきっかけに、全員が西園寺を探した。
死体を見る前に、西園寺雅治という名前を探した。
「この事件で最初に置かれたのは、死体じゃない。名前です」
真壁は言った。
二階堂が頷く。
「“西園寺さんは?”という声」
「誰の声だったか、今も断定できていない」
「反響、録音、加工。全部あり得る」
鳳が続けた。
「玄関広間の鏡と柱の位置で、声の方向もずれます。音源の位置は、聞こえた方向とは限らない」
「つまり」
真壁は言った。
「犯人は、最初から“誰が言ったか”ではなく、“誰の名前が言われたか”に全員の注意を向けた」
朽木が眉を寄せる。
「それが何だと言うんです」
「そこが、この事件の最初のトリックです」
真壁は答えた。
「死体を見つける前に、名前を見つけさせた」
小夜子が、喉を押さえたまま小さく震えた。
彼女は声を奪われた。
だからこそ、その意味が誰よりも刺さったのかもしれない。
声が名前を置く。
名前が人間を縛る。
その恐ろしさを、彼女は身体で知ってしまっている。
「西園寺さんの死体は、玄関広間の中央に見えた」
真壁は続けた。
「だが実際には、中央ではない。柱陰に近い控えスペースだ」
鳳が顔を上げる。
「鏡が、中央に見せていました」
「鳳さん。触らずに、今見える範囲で説明できますか」
「できます」
鳳は、痛む肩を押さえながら、慎重に姿勢を変えた。
「死体のある場所は、実際には玄関広間の中心軸から外れています。ですが大鏡に映ると、柱の影と床模様の中心線が重なり、広間中央に倒れているように見える。さらに照明が血の赤を拾うので、鏡の中の方が死体らしく見える」
二階堂が言った。
「つまり、“玄関広間の中央に死体がある”という記憶が作られる」
「はい」
鳳は頷いた。
「実際の位置ではなく、発見場面の印象を二十年前の記録に合わせている」
九条が低く言った。
「死体の記録じゃない」
真壁が続きを引き取る。
「発見場面の記録だ」
玄関広間の空気が、わずかに動いた。
これまで散らばっていた言葉が、一本の線になり始めた。
「二十年前の公式記録は、死体がどこで死んだかではなく、どこでどう見つかったかを残している可能性がある」
真壁は言った。
「今回の犯人は、それをなぞっている。死体を殺害現場に置いたのではなく、発見場面に置いた」
鳴海の目が揺れた。
二階堂はその反応を見た。
だが何も言わない。
まだ置かない。
「次に葛城さん」
真壁は食堂の方を見た。
死体はここから見えない。
だが、あの食堂の空気はまだ全員の皮膚に残っている。
白いクロス。
グラス。
席札。
水。
葛城の喉を掻く手。
滲んだ名前。
「葛城さんは、水を飲んで死んだように見えた」
二階堂が頷く。
「でも九条さんは、早すぎると言った」
九条が目を閉じたまま続ける。
「口腔か咽頭に直接触れた可能性。水に溶けた毒なら、あの反応は不自然。もちろん毒物次第だけど、あの場では水より、手元の接触物を疑うべきだった」
「席札」
真壁が言った。
「葛城さんは、席札を触った」
二階堂が苦く笑う。
「俺が触るなと言ったのに、触った」
「犯人は、それを読んでいた」
「葛城さんの性格もね」
二階堂の声に、疲れた苦味があった。
「あの人は、指示されると反発する。自分が管理される側に回るのを嫌う。だから席札を触り、水を飲む。犯人は毒を水に入れたんじゃない。葛城さんが自分から毒に触る順番を作った」
「行動を置いた」
九条が言った。
「死体じゃなくて」
「そう」
真壁は頷いた。
「西園寺さんは、見つける順番を置かれた。葛城さんは、毒に触る順番を置かれた」
鳳が静かに続ける。
「そして食堂の椅子の配置も、行動を誘導していました。どの席が自然に選ばれるか。どこに座ると、どの物に触れるか。建物と家具が、心理誘導と組み合わされていた」
朽木が額に手を当てた。
「そんなことを、犯人は全部計算していたというんですか」
二階堂が答える。
「全部じゃない。たぶん、選択肢を絞っていたんです」
「選択肢?」
「葛城さんが席札に触る。触らなくても、グラスの縁に触る。グラスを飲まなくても、ナプキンか塩入れに触る。いくつかの道を用意して、どれを通っても同じ場所へ行くようにした」
鳳が頷いた。
「建築でも同じです。人の流れは一本で制御するのではなく、複数の誘導で同じ場所へ寄せる」
「では、犯人は建築の専門家ですか」
朽木が鳳を見る。
鳳は静かに答えた。
「建築だけではありません」
その声には、もう怯えが少なかった。
自分の名前を置かれ、建物に落とされかけ、それでも彼は戻ってきた。
「建築だけなら、言葉の切り取りはできません。文章だけなら、床や反射は使えません。医学だけなら、席や鏡は使えません」
「犯人は、全部を一人で?」
氷室が掠れた声で言った。
鳳は首を横に振る。
「全部を専門家のように知っている必要はありません。館そのものに、もともと仕掛けがあった。資料があった。図面があった。説明文があった。犯人は、それらを組み合わせた」
二階堂が鳴海を見た。
「組み合わせられる場所にいた人間がいる」
鳴海は唇を結んだ。
真壁はすぐに言った。
「まだ名前を置かない」
二階堂は頷いた。
「置かない」
鳴海は小さく息を吐いた。
それが安堵なのか、恐怖なのか、真壁にはまだわからなかった。
*
「第三灯。烏丸さん」
真壁は階段下を見る。
烏丸鏡花は、まだそこにいる。
呼吸はある。
九条が何度も確認した。
今は意識が落ちている。
だが、生きている。
「烏丸さんは“少女”として置かれた」
真壁は言った。
小夜子が目を伏せる。
「落下ではなく、落下らしく見せる滑落。階段の絨毯、手すりのワイヤー、身体の止まった位置。全部が、死なせるためというより、見立てるためだった」
九条が補足する。
「怪我は重い。でも階段から激しく転落した傷の散り方じゃない。途中から滑らされてる。身体を“階段下の少女”として見せるため」
鳴海が小さく言った。
「少女は、階段下ではありません」
全員が彼女を見た。
鳴海は顔を上げなかった。
「公式記録では、湖上回廊です」
「公式記録では?」
真壁が聞き返す。
鳴海は唇を噛んだ。
「……人によって、話が違いました」
それは、瑠璃子が言ったことと同じだった。
少女の話だけ、いつも場所が変わる。
階段で見たと言う人もいた。
温室の前を走っていたと言う人もいた。
湖へ向かったと言う人もいた。
最後には、湖上回廊で見つかったことになった。
「なった、ですね」
二階堂が言った。
「見つかった、じゃなくて」
鳴海は答えない。
だが、その沈黙はさっきまでの沈黙と違った。
ただ隠す沈黙ではない。
言う順番を迷っている沈黙だった。
「第四灯。蓮見さん」
真壁は続けた。
「蓮見さんは、書庫で死んだ。紙に埋もれるように」
二階堂が言う。
「資料を調べていた人が、資料に埋もれて死ぬ。わかりやすい見立て」
「わかりやすぎる」
九条が低く言った。
「紙で窒息したんじゃない。空気を奪われた。あるいは、吸わされた。死んだあと、紙を置かれた」
鳳が続ける。
「書庫は閉じ込める部屋ではなく、換気と湿度管理の部屋です。空気の流れを利用できる。温室と対になっています」
「書庫と温室」
二階堂が呟く。
「一方は死ぬ量。一方は死なない量」
鳴海の肩が震えた。
真壁は見た。
そこは重要だ。
だが、まだ決定ではない。
「蓮見さんの手元には、第七名の紙片があった」
真壁は言った。
「第七名、記録ナシ。少女、氏名確認不能」
氷室が苦しげに目を閉じた。
鳴海は黙っている。
小夜子は声のないまま、涙を浮かべた。
鳳が静かに言った。
「G七の棚番号もありました」
「第七保管室。そして第十二保管室」
二階堂が鍵を見る。
朽木の手の中にある、真鍮札のついた鍵。
――第十二保管室。
「第七と第十二」
二階堂は言った。
「この二つは対になってる」
「第七名と第十二灯」
真壁が言う。
「名前を奪われた者と、犯人役にされた者」
九条が目を閉じたまま呟いた。
「名前の置き換え」
その言葉に、鳴海が反応した。
今度は、誰の目にもわかるほど。
「鳴海さん」
真壁は静かに言った。
「二十年前、名前の置き換えがあったんですね」
鳴海は、すぐには答えなかった。
玄関広間には、十二灯がすべて消えた後の闇が沈んでいる。
モニターの赤だけが、彼女の顔を照らしていた。
「私は……」
鳴海はようやく口を開いた。
「全部を知っているわけではありません」
二階堂がすかさず言った。
「今の表現を記録します。“全部を知っているわけではない”。つまり、一部は知っている」
鳴海は二階堂を見た。
「そういう言い方を」
「します」
二階堂は言った。
「あなたを責めるためじゃない。犯人の文章に負けないために」
鳴海は目を伏せた。
「……第七名という記録は、ありました」
広間の空気が止まった。
「死者は六名ではなかった?」
真壁が問う。
鳴海は首を横に振る。
「死者の数は、六名です」
「では第七名とは」
「死体の数ではなく、名前の数です」
二階堂が息を呑んだ。
九条が目を閉じたまま言った。
「死体は六つ。名前は七つ」
鳴海は頷いた。
「二十年前、身元確認の過程で、ひとつの名前が消されました。ひとつの死体に、別の名前が置かれた」
小夜子が両手で口元を覆った。
声は出ない。
だが、その目は叫んでいた。
誰の名前が。
誰の死体に。
誰が。
「なぜ」
朽木が掠れた声で訊いた。
「なぜそんなことを」
鳴海は答えなかった。
代わりに、氷室が震えた声で言った。
「家名です」
全員が氷室を見る。
氷室は咳き込みながら、言葉を絞り出した。
「当時、この館の保存事業が進んでいました。出資者、行政、遺族、報道……醜聞を避けたい者が多かった。未成年者の身元、相続、血縁、婚外子の噂……そういったものが、混ざっていたと聞いています」
「聞いているだけですか」
真壁が訊く。
氷室は顔を歪めた。
「私は、直接関わっていません。ですが、先代から……この館には“名前に触れるな”と言われてきました」
名前に触れるな。
小夜子が喉を押さえた。
鳴海も目を閉じた。
「第七名の少女の名前を、あなたは知っている」
真壁は鳴海に言った。
鳴海は震えながら頷いた。
「知っています」
「それを今ここで言えますか」
鳴海は、すぐには答えなかった。
その沈黙の間に、モニターが点滅した。
全員が身構える。
赤い画面に、白い文字が浮かぶ。
――名前を呼べば、最後の扉が開く。
小夜子が震えた。
二階堂がすぐに言った。
「呼ばない」
真壁も言った。
「今は呼ばない」
鳴海が顔を上げる。
「でも」
「犯人が呼べと言っている名前は呼ばない」
真壁は言った。
「名前を呼ぶ順番は、こちらが決める」
鳴海の目が揺れた。
その顔に、初めてはっきりと涙が浮かんだ。
悲しみなのか。
怒りなのか。
安堵なのか。
まだわからない。
*
「第五灯に戻ります」
真壁は言った。
「鳴海さん」
鳴海は身体を強張らせた。
「あなたは温室で倒れていた。九条は“死なないように倒れている”と言った」
九条が目を閉じたまま、短く補足する。
「量が違う。位置が整いすぎてる。発見される前提」
鳳も続ける。
「温室は、見つけてもらう場所です。湿度、空気、匂いを調整できる。外から灯が見える。奥まっているようで、複数の動線がある。隠すより、演出するのに向いている」
二階堂が言った。
「そして、鳴海さんは資料担当。展示、モニター、説明文、図面、名簿に触れる位置にいた」
朽木が鋭く言う。
「つまり、鳴海さんが犯人だと?」
「まだです」
二階堂は即座に返した。
「ただし、犯人が一番安全な場所にいた可能性は高い」
「安全な場所?」
「被害者リストの中です」
広間が静かになる。
二階堂は続けた。
「殺されかけた人間は疑われにくい。しかも鳴海さんは死んでいない。温室で倒れたあと、復帰できる。資料担当として情報も出せる。被害者として同情も得られる」
「それを、私が自分で?」
鳴海の声が震えた。
二階堂は彼女を見た。
「その可能性があります」
「違います」
「では、別の可能性も置きます」
「何ですか」
「犯人が、あなたをそう見せた」
鳴海は黙った。
二階堂は言葉を続ける。
「どちらかはまだ決めません。ただ、鳴海さんが第五灯で死ななかったことには意味がある」
真壁は頷いた。
「第六灯。瑠璃子さん」
小夜子が顔を上げる。
「死体はない」
真壁は言った。
「湖面に影。黒い布。靴。否定文。“これは御子柴瑠璃子ではない”。全部、名前を揺らすためのものだった」
鳳が言う。
「湖上回廊は、実像と反射が重なります。小夜子さんと瑠璃子さんは、暗がりと反射では入れ替わって見える条件があった。髪の流れも、反射で逆になる」
小夜子の目が揺れた。
二階堂が彼女に向かって、ゆっくり口を動かす。
「あなたは、瑠璃子さんではありません」
小夜子は涙を流しながら頷いた。
それは、証言ではない。
回復だった。
「瑠璃子さんは、消えた」
真壁は言った。
「死んだと見せるためか。自分で消えたのか。誰かに消えさせられたのか。まだ決めない」
「でも」
鳴海が言った。
「瑠璃子さんは、湖には近づきません」
「水が怖いから」
真壁が言うと、鳴海は頷いた。
「二十年前から」
「なぜ、あなたがそれを知っている」
鳴海は言葉を失った。
小夜子が、声のないまま何かを書こうと手を動かした。
二階堂がすぐに気づき、近くの展示パンフレットの余白とペンを渡す。
「書けますか」
小夜子は頷いた。
手が震えている。
それでも、彼女は書いた。
――瑠璃子さんは、湖を見ていた。
――怖いのに、見ていた。
――あの子の名前を思い出すためだと言っていた。
二階堂がそれを読み上げた。
鳴海が小さく息を呑む。
「鳴海さん」
真壁は言った。
「あなたと瑠璃子さんは、同じ名前を知っていた」
鳴海は答えない。
「その名前が、第七名の少女の名前ですね」
鳴海は、泣きそうな顔で頷いた。
*
館内モニターがまた赤く点いた。
今度は音声ではなかった。
文字だけ。
――名前を戻すなら、鍵を使え。
――第十二保管室を開け。
――真壁彰が開けろ。
真壁は画面を見た。
犯人は焦っている。
そう確信した。
こちらが並べ直すたびに、犯人は手順を急がせてくる。
名前を呼べ。
鍵を使え。
保管室を開けろ。
真壁が開けろ。
命令が露骨になっている。
「焦ってるね」
二階堂が言った。
真壁は頷いた。
「俺たちが順番を戻しているからだ」
「次は?」
「第十二保管室を見る。ただし、死体は動かさない」
鳳が顔を上げた。
「床下を見る方法があります」
「言ってください」
「西園寺さんの死体の下に保管室があるなら、床板には必ず継ぎ目があります。古い保管庫は、蓋板の周囲にわずかな段差が出る。血がその隙間に流れ込んでいるかどうかを見れば、死体が置かれた時点と血の広がりの順序がわかる」
九条が言った。
「血が隙間に入っていなければ、血が固まり始めたあとで死体を置いたか、隙間を避けて置いた。入っていれば、死体が置かれたあとに血が流れた」
「見るだけでわかるか」
「ライトがあれば」
二階堂がスマホのライトを出す。
すぐに自分で止めた。
「俺が近づくと、また誘導と言われるかな」
真壁は考えた。
「小夜子さん」
小夜子が顔を上げる。
「ライトを持てますか。触るのはスマホだけです。死体には近づきすぎない。二階堂が隣で口元を見せて指示する。鳳さんが見る。九条は聞く。俺は動かない」
小夜子は震えた。
死体に近づく。
声の出ない彼女にとって、それは残酷な指示だった。
二階堂がすぐに言う。
「嫌なら、しなくていいです」
小夜子は首を横に振った。
それから、パンフレットの余白に書いた。
――見ます。
二階堂はその文字を読み上げた。
「小夜子さんは、見ます」
小夜子は、両手でスマホを持った。
彼女の手は震えていた。
だが、逃げなかった。
真壁は静かに言った。
「ありがとうございます」
小夜子は小さく頷いた。
二階堂が彼女の横に立つ。
「俺の口を見てください。ゆっくり。そこから三歩。止まる」
小夜子は頷く。
一歩。
二歩。
三歩。
止まる。
西園寺の死体が近い。
胸元の血。
開いた目。
冷えた手。
小夜子の呼吸が乱れる。
二階堂が言った。
「見なくていい。床だけ照らして」
彼女はライトを下げる。
光が、床を舐めた。
赤黒い血溜まりの端。
絨毯。
床板の継ぎ目。
鳳が目を細めた。
「見えます」
「言ってください」
真壁が言う。
「死体の右肩下、床板の継ぎ目があります。幅は狭い。保管庫の蓋の縁かもしれません」
「血は」
九条が問う。
「隙間に入っていません」
鳳は言った。
広間が静かになる。
「血溜まりは継ぎ目の手前で止まっている。自然に流れたなら、少しは入り込むはずです」
九条が低く言った。
「死体を置く前に、何かで塞いだか。あるいは、血が流れたあとに死体を移動して継ぎ目の上に置いた」
「つまり」
二階堂が言う。
「西園寺さんは、ここで刺されて血を流したんじゃない」
「少なくとも、保管庫を隠す位置に後から置かれた可能性が高い」
鳳が答えた。
真壁は頷いた。
「第一の死体は、最後の扉を隠すために置かれた」
氷室が呻いた。
「そんな……」
「そして、犯人は最後に俺にその死体を動かさせたかった」
真壁は言った。
「俺が現場を荒らし、第十二保管室を開け、犯人役が完成する」
モニターが点滅する。
赤い文字が乱れる。
その反応は、もう答えに近かった。
「さらに」
鳳が言った。
「継ぎ目の埃の状態を見る限り、この保管庫は最近開けられています」
「どれくらい最近」
「少なくとも、長年閉じられたままではない。埃が切れている」
「誰かが事前に開けた」
「はい」
二階堂が鳴海を見る。
鳴海は何も言わない。
言えない。
「鳴海さん」
真壁は言った。
「第十二保管室を知っていましたか」
鳴海は首を振った。
「第十二という名前は、知りませんでした」
「第七は?」
「知っていました」
「第七保管室には何がある」
「少女の身元に関する資料です」
「第十二保管室には?」
鳴海は答えない。
「知らない?」
「……知りません」
二階堂が言った。
「今の“知りません”は、本当に知らない方に聞こえます」
真壁は二階堂を見る。
「根拠は」
「間が短い。防御じゃなくて反射。目線も上に行ってない。嘘を組み立てる感じではなかった」
鳴海が、複雑な顔で二階堂を見た。
「それ、助けているんですか。疑っているんですか」
二階堂は答えた。
「両方です」
鳴海は、小さく笑った。
泣く直前のような笑いだった。
*
「第十二保管室は、犯人が作った名前かもしれない」
鳳が言った。
真壁は彼を見る。
「どういう意味です」
「本来あるのは第七保管室だけ。第十二保管室という名称は、今回の十二灯に合わせて作られた可能性があります」
「死体の下の保管庫が、本当に第十二保管室とは限らない」
「はい。もともとは別の用途の床下収納かもしれません。犯人が“第十二保管室”という札を鍵につけた」
二階堂が低く言った。
「名前を置いた」
「そうです」
鳳は頷く。
「場所にも名前を置いた」
真壁は息を吐いた。
人だけではない。
場所にも名前を置く。
玄関広間。
食堂。
階段下。
書庫。
温室。
湖上回廊。
第七保管室。
第十二保管室。
この事件では、場所の名前もまた、見立ての一部だった。
「では、第十二保管室という名は信用しない」
真壁は言った。
「死体の下にあるのは、ただの床下保管庫。そう呼びます」
二階堂が頷く。
「第十二保管室という犯人の命名を使わない」
「そうだ」
モニターが再びちらつく。
赤い文字が、短く乱れる。
小夜子がそれを見て、パンフレットに震える字を書いた。
――怒ってる?
二階堂が読み上げる。
「小夜子さんが、“怒ってる?”と」
真壁はモニターを見る。
「怒っているかはわかりません」
二階堂が少しだけ笑った。
「でも、嫌がってはいる」
「そうだな」
小夜子の目に、ほんの少しだけ光が戻る。
自分の観察が役に立った。
その感覚が、彼女を少しだけこちら側へ引き戻した。
「ここから先は」
真壁は言った。
「犯人の名前を出す準備に入ります」
鳴海の表情が変わった。
朽木が身を硬くする。
氷室が浅く息をした。
「今すぐ告発はしません」
真壁は続ける。
「まだ一つ足りない」
「何が」
二階堂が問う。
「鳴海さんの第五灯が、偽装被害かどうかを確定するもの」
鳴海は目を伏せる。
九条が言った。
「量」
「そうだ」
真壁は頷く。
「温室で使われた薬剤の量。死なない量だったことを、どう確認するか」
「現物が必要」
「鳳さん」
鳳が顔を上げる。
「温室の噴霧装置。残量は確認できるか」
「できます。ただし、温室へ行く必要があります」
全員が黙った。
また移動。
ひとかたまりでいたい。
だが、調べるには移動しなければならない。
犯人は、まだその攻防を終わらせていない。
真壁は考えた。
全員で行けば、死体と床下保管庫が手薄になる。
少人数で行けば、分断される。
「行きません」
真壁は言った。
鳳が驚いた顔をする。
「では、どうやって」
「鳴海さんに聞きます」
鳴海が顔を上げた。
「私に?」
「はい」
真壁は彼女を見た。
「温室で使われたものが何か、あなたは知っていますか」
「知りません」
「本当に?」
鳴海は唇を噛んだ。
「知りません」
二階堂がじっと見ている。
今度の沈黙は、長かった。
「二階堂」
真壁が呼ぶ。
「嘘に聞こえる」
二階堂は言った。
鳴海の顔が歪む。
「理由は」
「“知りません”の前に、否定する対象を選んでる。薬剤の名前を知らないのか、量を知らないのか、装置を知らないのか。その整理に時間がかかった」
真壁は鳴海を見た。
「では質問を変えます」
鳴海は震えていた。
「あなたは、温室で自分が死なないことを知っていましたか」
沈黙。
長い沈黙だった。
玄関広間の赤い光の中で、鳴海栞はゆっくり目を閉じた。
「……知りませんでした」
二階堂が言う。
「今のは本当寄り」
「寄り?」
「完全には言えない。でも、さっきよりは自然」
真壁は頷いた。
「では、もう一つ」
鳴海は目を開ける。
「温室に行けば、誰かがあなたを見つけることは知っていましたか」
鳴海の顔が止まった。
それが答えだった。
真壁は静かに言った。
「知っていたんですね」
鳴海の目から、涙が落ちた。
「……はい」
広間に、誰かの息を呑む音が響いた。
「誰に言われた」
真壁が問う。
鳴海は首を振る。
「言われたわけではありません」
「では、自分で?」
「私は……」
鳴海は震える声で言った。
「第五灯で倒れることになっていました」
小夜子が目を見開く。
朽木が叫びかける。
二階堂が片手を上げて制した。
「最後まで聞く」
鳴海は続けた。
「死ぬとは聞いていませんでした。少し具合が悪くなるだけだと。そうすれば、私は……疑われないから、と」
「誰に」
真壁の声が低くなる。
鳴海は答えない。
「鳴海さん」
二階堂が言った。
「ここで名前を出すと、その人を犯人として置くことになります。だから慎重に。でも、言わなければ次に進めない」
鳴海は涙を拭わなかった。
声が震えている。
「御子柴瑠璃子さんです」
小夜子が、息を呑んだ。
声は出ない。
だが、身体全体が叫んでいた。
瑠璃子さんが?
鳴海は小夜子を見ない。
「瑠璃子さんは、言いました。第七名の名前を戻すためには、十二灯を再現する必要があると。でも、人を殺すとは思っていませんでした。私は、展示資料を使って、過去の嘘を暴くための演出だと……」
「西園寺さんが死んだあとも?」
真壁が問う。
鳴海は顔を歪めた。
「止めようとしました」
「どうやって」
「温室で……倒れた後に、全て話すつもりでした。でも、薬が強すぎて……」
「誰が薬を用意した」
「瑠璃子さんです」
「モニターは」
「最初の文面は、私が作りました」
広間が凍る。
二階堂の目が鋭くなる。
「最初の文面、とは」
「展示用の演出文です。二十年前の記録を読み解くための、朗読文のようなもの。灯の歌も、原案は私が……」
氷室が呻いた。
「あなたが……」
「人を殺すためじゃありません!」
鳴海の声が初めて大きくなった。
「本当に、違います。私は、名前を戻したかっただけです。記録から消された少女の名前を……でも、途中から、文面が変わっていた。私が書いていない文章が入っていた。死者の名前が表示された。私は……」
「被害者に入ることで逃げた」
二階堂が言った。
鳴海は言葉を失った。
「逃げたんですね」
二階堂の声は、責めるというより、確認だった。
「第五灯で倒れれば、自分は“狙われた側”になれる。話すつもりだった、という言い訳もできる。でも実際には、話さなかった」
鳴海は泣いていた。
「怖かったんです」
「でしょうね」
二階堂は言った。
「この館では、全員怖い」
その声は冷たくなかった。
だからこそ、痛かった。
真壁は鳴海から視線を外し、小夜子を見た。
小夜子は震えながら、パンフレットに文字を書いた。
――瑠璃子さんは犯人ですか。
二階堂が読み上げた。
真壁は答えなかった。
「まだです」
小夜子は泣きそうに顔を歪める。
「まだ、御子柴瑠璃子さんが主犯とは置きません」
鳴海が顔を上げる。
「どうして」
「あなたが今、瑠璃子さんの名前を置いたからです」
鳴海の目が揺れる。
「私は本当のことを」
「本当かもしれない」
真壁は言った。
「でも、犯人はずっと、誰かに名前を置かせてきた。最後にあなたが瑠璃子さんの名前を置くことまで、犯人の順番かもしれない」
鳴海は言葉を失った。
二階堂が低く言う。
「瑠璃子さんは消えている。死体はない。反論もできない。犯人にするには、都合が良すぎる」
九条が目を閉じたまま呟いた。
「死体のない犯人」
鳳が続ける。
「館から出る動線も、まだ確認できていません」
真壁は頷いた。
「告発する相手を、ここで間違えない」
二階堂が言う。
「章って言わないんだ」
「今は言わない」
「そこは真面目なんだ」
「うるさい」
そのやり取りに、小夜子がほんの少しだけ目を細めた。
笑えない。
声も出ない。
けれど、空気がわずかに戻る。
そのとき、モニターがまた点いた。
今度の文字は、短かった。
――名前を戻せ。
続いて。
――御子柴瑠璃子を、呼べ。
小夜子が凍りついた。
鳴海も。
二階堂が、はっきりと言った。
「呼ばない」
真壁も言った。
「まだ呼ばない」
九条が続ける。
「死体がない」
鳳が言う。
「位置がない」
小夜子はパンフレットに書いた。
――でも、生きているなら助けたい。
二階堂が読み上げる。
広間が沈黙した。
それは、犯人の罠とは違う言葉だった。
見立てではない。
疑いでもない。
純粋な願いだった。
瑠璃子が犯人かもしれない。
協力者かもしれない。
消えた被害者かもしれない。
それでも、生きているなら助けたい。
真壁は小夜子を見た。
「助けます」
小夜子の目が揺れる。
「ただし、犯人の呼び方では呼びません」
二階堂が頷く。
「御子柴瑠璃子という名前を、犯人の命令で使わない」
「そうだ」
真壁は言った。
「俺たちの順番で探す」
外は暗い。
十二の灯はすべて消えている。
湖面には、もう灯の反射もほとんど残っていない。
黒い水が、館の窓に静かに貼りついているだけだった。
真壁は、玄関広間の円を見た。
死体。
怪我人。
声を失った者。
言葉を殺された者。
読めなくされた者。
建物に疑われた者。
鍵を持たされた者。
資料を隠した者。
名前を奪われた者。
全員が傷ついている。
だが、全員がまだ見ている。
「二階堂」
「何」
「ここから先の手順を組む」
「了解」
「鳳さん」
「はい」
「床下保管庫は、まだ開けない。構造だけ見る方法を考えてください」
「わかりました」
「九条」
「聞いてる」
「西園寺さんの死体を動かす条件を決めてくれ」
「記録が先。写真。位置。血。手。服。床。全部」
「わかった」
「鳴海さん」
鳴海が顔を上げる。
「あなたには、書いてもらいます」
「何を」
「あなたが作った原案の文面。犯人に書き換えられた文面。どこが違うか」
鳴海は震えながら頷いた。
「小夜子さん」
小夜子が顔を上げる。
「あなたは、瑠璃子さんが言ったことを書いてください。湖のこと。名前のこと。水が怖いこと。全部」
小夜子は泣きながら頷いた。
「氷室さん」
「はい……」
「第七保管室と別保管の話。先代から聞いたことを、思い出せる範囲で」
氷室は苦しげに頷いた。
「朽木さん」
朽木は、まだ鍵を持ったままだった。
「あなたは、その鍵を持ったまま、誰にも渡さないでください。置かない。隠さない。全員に見える位置で」
「私が?」
「疑っている人間が持っていた方がいい」
朽木は、疲れたように笑った。
「私は便利に使われていますね」
「生きているからです」
真壁は言った。
朽木は黙った。
そして、鍵を胸の高さに持ち直した。
それは、小さな協力だった。
犯人の順番ではない。
こちらの順番に、彼が初めて乗った。
モニターがまたちらつく。
だが、もう誰もすぐには動かなかった。
真壁は赤い画面を見上げる。
犯人役、確定。
その文字はまだ残っている。
けれど、意味は薄れ始めていた。
確定していない。
名前は、まだ剥がせる。
「この事件は」
真壁は言った。
「殺しの順番を見ても解けない」
二階堂が顔を上げる。
九条が目を閉じたまま、わずかに頷く。
鳳が静かに息を吸う。
真壁は続けた。
「見つけさせた順番を見ろ」
玄関広間の赤い光が、わずかに揺れた。
まるで、その言葉を聞いた館そのものが、初めて黙ったようだった。
「西園寺さんは、最初に殺されたから第一灯になったんじゃない。最初に見つけさせる必要があったから、第一灯にされた」
真壁は、柱陰の死体を見た。
「なぜか」
誰も答えない。
「最後の床下保管庫を隠すためです」
沈黙。
「第一の死体は、最後の扉の蓋だった」
二階堂が低く言った。
「最初と最後が繋がった」
「ああ」
真壁は頷いた。
「だから犯人は、最後に俺へ死体を動かさせたかった。順番は最初から決まっていたんじゃない。最初の死体が、最後の罠だった」
鳴海が震える声で言った。
「では、瑠璃子さんは……」
「まだ置かない」
真壁は言った。
「でも、次で見えます」
「何が」
「誰が、最初から“読ませる側”にいたのか」
その言葉に、鳴海の顔が青ざめた。
二階堂は彼女を見た。
鳳も。
九条も、目を閉じたままわずかに顔を向けた。
真壁は、まだ名前を言わなかった。
言える。
ほとんど、言える。
けれど、まだだ。
死体より先に名前を置かない。
それは犯人に対する反抗であり、真壁自身の最後の防波堤だった。
「次に名前を置くときは」
真壁は言った。
「犯人の順番じゃない。俺たちの順番で置きます」
十二灯館の灯は、すべて消えている。
だが、赤いモニターの光だけがまだ残っている。
それは灯ではない。
犯人が残した説明だった。
真壁は、その説明を初めて真正面から見た。
そして、静かに言った。
「説明が先走ると、人は死ぬ」
二階堂が頷く。
「だから、説明を引き戻す」
九条が低く言った。
「死体のところまで」
鳳が続ける。
「建物の実際の位置まで」
小夜子が、震える字で書いた。
――名前のところまで。
二階堂が、それを読み上げた。
「名前のところまで」
真壁は頷いた。
この夜で初めて、彼らの言葉が同じ方向を向いた。
犯人が置いた名前を、剥がすために。
消された名前を、戻すために。
そして、まだ闇のどこかにいる御子柴瑠璃子を、犯人でも死者でも役でもなく、本人として見つけるために。
真壁は両手を下ろさなかった。
まだ、何にも触れない。
だが、目はもう逃げなかった。
十二灯館は、ようやく沈黙した。
その沈黙の奥で、名前だけが、まだ呼ばれずに待っていた。




