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第8話:凍てつく獅子

「な、何が起きている! 報告しろ!」

 双頭の獅子砦、その最奥に位置する司令室。

 守備隊長であるディルムット子爵は、ガタガタと音を立てて震える机に両手をつき、血走った目で絶叫していた。


彼がどれほど怒鳴り散らそうとも、部下たちからのまともな報告は返ってこない。

 それもそのはずだった。砦の安全を保障していたはずの三重の防護魔法は、何者かの干渉によって完全に逆流。内部の防衛機構が暴走し、通路の至るところから鋭利な氷の槍が突き出して、配置についていた守備兵たちを串刺しにしていたからだ。


「司令部からの通信も繋がりません! 魔導回路そのものが凍結している模様です!」

「馬鹿な……! この砦は王国の誇る絶対不落の要塞だぞ!? それが、こんな、何の前触れもなく——」

 

 ドゴォン!


司令室の分厚い鉄扉が、爆風とともに吹き飛んだ。

 破壊の衝撃波が室内を駆け抜け、ディルムットと数名の衛兵たちが床へ転がる。

 立ちこめる硝煙と冷気の向こうから、音もなく姿を現したのは、黒い外套をまとった兵士たち——そして、その中心に立つ一人の女性だった。


濡羽色の長い髪を夜風に揺らし、手にした細剣の刃を冷たく光らせる。

 その緋色の瞳に見据えられた瞬間、ディルムットの全身に、心臓を直接氷で掴まれたかのような恐怖が走った。


「お、お前は……エレナ・ローゼンバルド!?」

 ディルムットの声が裏返る。

「なぜ貴様がここにいる! 貴様は北方方面軍の司令部で——」

「……お久しぶりですね、ディルムット子爵」


エレナは表情一つ変えず、静かな歩みで彼へと近づいていく。

 その足元からは、パキパキと薄い氷が張り付いていく音が響く。

「私は昨日付で、アールスハイド王国を退役いたしました。……いいえ、正確に言うならば、捨てた、というべきでしょうか」

「な、何を言って……! ま、まさか貴様、裏切ったのか!? 帝国へ寝返ったというのか!」


「裏切ったのは、どちらでしょうね」

 エレナの背後から、アルベルトが冷徹な足取りで進み出た。

「俺たちを私怨と嫉妬で冤罪にかけ、使い捨てようとしたのは王国のほうだ。ディルムット子爵、あんたもその片棒を担いでいた一人だろう。黒鴉部隊の補給を差し止め、ボルドス伯爵に便宜を図っていたな?」

「ひっ、それは……!」


ディルムットの顔から、一気に血の気が引いた。

 彼は前線の状況を知りながら、貴族同士の派閥争いのためにエレナたちを意図的に孤立させ、物資の滞りを黙認していた。その『報い』が、今まさに自分自身の目の前に刃となって突きつけられているのだと、彼はようやく理解した。


「ま、待て! 早まるな! 私を殺せば、王国はお前たちを絶対に許さないぞ! 今なら、今なら私から上に掛け合って、貴様らの罪を不問に処してやる! 地位も、名誉も、望むがままに——」

「……醜いですね」


エレナは短く呟くと、細剣を小さく一閃させた。

 ディルムットの言葉は途切れた。彼の足元から、急速に這い上がった氷が、その体を膝まで完全に凍りつかせていた。

「あ、足が……動かない! ひぎぃっ、冷たい、助けてくれ!」


「地位も名誉も、我が部隊の命と尊厳に比べれば、塵芥にも等しいもの。それすら理解できないから、あなたたちは私にすべてを奪われるのです」

 エレナはディルムットを見下ろし、冷酷な微笑を浮かべた。


「この砦は、これよりガルディア帝国のものとなります。王都のきみによく伝えるといいわ。……氷の女将軍が、これからあなたたちを、一人残らず絶望の淵へ引きずり落とすと」


エレナが指を鳴らす。

 その音を合図に、アルベルトたちがディルムットを拘束し、砦の制圧完了を告げる伝令へと走った。

 かつて帝国軍を幾度となく跳ね返してきた『双頭の獅子砦』は、エレナたちが足を踏み入れてから、わずか半日も経たずに、完全に沈黙したのだった。



翌朝。

 砦の最上部、かつて王国の獅子の紋章旗が掲げられていた場所に、ガルディア帝国の『漆黒の双頭鷲』の旗が、朝風を受けて堂々と翻っていた。


「……見事、としか言いようがありませんね」

 砦を訪れたレオンハルト少将は、傷一つない城壁と、完璧に機能を取り戻した防衛施設を見渡しながら、感嘆の息を漏らした。

 彼の背後には、昨夜まで彼女たちの実力に懐疑的だった帝国の幕僚たちが、青ざめた顔で立ち尽くしている。


「約束通り、三日目の夜が明ける前に、この砦に帝国の旗を掲げてご覧に入れました」

 エレナはレオンハルトに向き直り、静かに微笑んだ。

 その姿には、激戦を終えたばかりとは思えないほどの気品と、揺るぎない自信が満ち溢れていた。


「ええ、確かに受け取りました、エレナ殿」

 レオンハルトは彼女の手を取り、心からの敬意を込めて握手を交わした。

「我が国が長年落とせなかった要塞を、わずか一晩で、しかも最小限の損害で手中に収めるとは。帝都の上層部も、これであなたたちを認めざるを得ないでしょう。……ようこそガルディア帝国へ、黒鴉部隊。あなたたちの新しい戦場は、ここから始まります」


「ええ。存分に働かせていただきますわ」


エレナの緋色の瞳が、はるか南、かつての祖国の方向へと向けられる。

 そこには、自分たちを蔑み、利用し、そして捨てた、愚かな王国がある。

 彼女の本当の復讐は、まだ始まったばかりだった。

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