第7話:刃を研ぐ鴉たち
ガルディア帝国領内、北方防衛拠点『鋼鉄の門』の地下に広がる演習場。
薄暗い空間には、鉄と汗、そして微かな油の匂いが漂っていた。そこにいたのは、アールスハイド王国から亡命してきた黒鴉部隊の兵士たちだ。彼らは休息を与えられたはずの丸一日を、ただ眠って過ごすような真似はしなかった。
「三十四、三十五……よし、次だ。装填速度がコンマ二秒遅い。もう一度!」
アルベルトの鋭い叱咤が響く。
兵士たちは支給されたばかりの帝国の新型魔導触媒や防具を身につけ、その特性を確かめるように何度も動作を繰り返していた。王国のものとは重心も魔力伝導率も異なる装備を、己の手足のように馴染ませるための猛特訓である。
「みんな、随分と気合が入っているわね」
演習場に続く階段から、静かな声が降ってきた。
振り返ると、そこには漆黒の外套を羽織ったエレナが立っていた。濡羽色の艶やかな髪は戦いへの備えとして再び低く一つに結ばれ、緋色の瞳が頼もしい部下たちの姿を優しく見つめている。
「隊長!」
アルベルトが駆け寄り、軍礼を取った。
「休息は十分に取らせました。ですが、誰もじっとしていられなかったようでして。……俺たちは亡命者です。敵国だった帝国に受け入れてもらうためには、次の戦いで圧倒的な結果を出すしかない。みんな、それを痛いほど理解しています」
「そうね。頼もしい限りだわ」
エレナは小さく頷き、アルベルトが手に持っていた帝国の標準仕様の魔導銃を受け取った。
指先から微かな魔力を通すと、銃身の溝が青く発光する。
「王国のものよりも、魔力の変換効率は一割ほど高いわね。その分、反動と術式の展開速度が速い。……これなら、私の計画している『あの戦術』が、より確実に、より苛烈に実行できるわ」
「隊長の戦術、ですか。まさか……」
「ええ。レオンハルト少将から提示された『双頭の獅子砦』の攻略。あの難攻不落の要塞を、私たちはたった二百人で、しかも内部から完全に崩壊させる」
エレナの言葉に、周囲で耳を傾けていた兵士たちの目がギラリと輝いた。
双頭の獅子砦。アールスハイド王国が誇る、巨大な岩山をくり抜いて造られた天然の要塞である。
正面からの強襲は自殺行為であり、帝国軍が過去に幾度も挑んで跳ね返されてきた場所。しかし、かつて王国の最前線で戦っていたエレナたちにとっては、その要塞の『構造上の欠陥』も、兵士たちの配置の癖も、すべて手のひらの上にある情報に過ぎなかった。
「アルベルト、第一小隊には特に浸透戦術の訓練を叩き込んで。第二、第三小隊は、私が構築した新しい複合術式の同期を急いで。……明日、私たちが帝国に牙を剥く最初の夜になるわ」
「了解!」
兵士たちの地を這うような、しかし確かな闘志を宿した声が演習場に響き渡った。
*
その翌日の夜。
帝国軍の作戦司令室では、レオンハルト少将と彼の幕僚たちが、緊迫した面持ちで巨大な魔導投影図を見つめていた。
画面に映し出されているのは、国境の険しい峰々に佇む『双頭の獅子砦』。そして、その麓の闇に紛れて移動する、二百の黒い影だった。
「……信じられんな。本当にあの少人数で、正面の監視網をすべて掻い潜っていくとは」
副官のエルンストが、感嘆と恐怖が入り混じった声を漏らす。
「彼女たちの隠密魔導は、我が帝国の隠密部隊のそれを遥かに凌駕している。雨と霧という気象条件を完璧に味方につけているな」
レオンハルトは、腕を組んだまま青い瞳を輝かせていた。
通常、魔導を用いた大規模な行軍は、魔力の残滓が周囲に霧散するため、敵の感知魔導に引っかかる。
しかし、エレナが率いる黒鴉部隊は違った。エレナが放つ広範囲の『魔力減衰結界』によって、部下たちの放つ微かな魔力反応は完全に相殺され、砦の探知網を完全に無力化していたのだ。
「だがレオンハルト閣下、隠密性だけで砦は落ちません」
年配の将軍の一人が眉をひそめて言った。
「あの砦の城門は、王国の誇る防護魔法が三重に展開されている。内部へ侵入するための跳ね橋を下ろすには、城壁の上の操作室を制圧せねばならんが、そこへ辿り着くにはどうしても正面から突撃するしかないはずだ。そこを叩かれれば、いくら黒鴉部隊とて全滅は免れん」
「ええ、普通ならそうですね」
レオンハルトは不敵に微笑んだ。
「ですが、彼女は『普通』の指揮官ではありませんよ。……さあ、見せてもらいましょう。氷の女将軍の、真の蹂躙というものを」
*
同時刻。双頭の獅子砦の直下。
生い茂る濡れた草むらの中に、エレナは音もなく身を潜めていた。
見上げるほどの高さにある城壁。そこには、かつての同胞である王国兵たちが、退屈そうに槍を抱えて巡回している姿が見える。
「……哀れね。何も知らずに、そこに立っているなんて」
エレナは細く美しい指で細剣の柄をなぞった。
背後に控えるアルベルトと兵士たちに、目線だけで合図を送る。
作戦は極めてシンプル。だが、エレナにしか実行できない、極悪にして確実な戦術だった。
「アルベルト。合図と同時に、予定通りに」
「はっ」
エレナはそっと前に出ると、両手を地面につけた。
彼女の緋色の瞳が、夜の闇の中で怪しく明滅する。
(この砦は、かつて父が設計に関わった防衛理論の模倣。……ならば、その術式の循環を逆流させることなど、私にとっては呼吸よりも容易いこと)
エレナの体内から、冷徹な魔力が地を這うようにして、砦の岩肌へと染み込んでいく。
それは、砦の防護魔法の基盤となっている『魔導回路』へと直接干渉し、その接続を書き換える行為だった。
王国側がどれほど強力な防護壁を展開していようと、それを動かすエネルギーの源流そのものを乗っ取られてしまえば、ただの自滅の罠へと早変わりする。
数秒後。
砦の地下深くから、ゴゴゴ、という不気味な地鳴りが響き始めた。
「な、なんだ!? 地震か!?」
城壁の上の王国兵たちが慌てふためく。
だが、それが彼らにとっての最後の言葉となった。
「——咲き誇りなさい。《氷華の槍衾》」
エレナの冷徹な呟きと共に。
砦の城壁、そして内部の床から、突如として巨大な氷の槍が無数に突き出た。
それは防護魔法の魔力そのものが結晶化し、内部から守備兵たちを貫いたのだ。
「ぎゃあああっ!?」
「な、何が起きてる!? 敵襲、敵襲だああ!」
絶叫と混乱が砦を支配する。
砦を保護するはずの魔法が、逆に守るべき兵士たちを襲うという最悪の悪夢。
「さあ、蹂躙を始めましょう。……黒鴉部隊、突撃!」
エレナが細剣を抜き放ち、地を蹴る。
凍りつき、崩壊した城門の隙間から、漆黒の死神たちが音もなく滑り込んでいった。
それは亡命者としての最初の戦いであり、王国への、最初にして容赦のない復讐の狼煙であった。




