第6話:黒い災厄の帰順
ガルディア帝国、北方国境防衛拠点『鋼鉄の門』。
アールスハイド王国の領土を眼下に見下ろすようにして築かれたその堅牢な要塞は、帝国の軍事力の象徴でもあった。
その最上階にある会談室で、若き知将レオンハルト・フォン・ヴィンザー少将は、窓越しに眼下の広場を見つめていた。
広場には、武装を解除されながらも、一糸乱れぬ規律を保って整列している二百名の兵士たちがいた。
漆黒の防刃外套を身にまとった彼らは、敵地に囚われている身でありながら、その瞳に一切の怯えを見せていない。むしろ、いつでも周囲の帝国兵を返り討ちにできると言わんばかりの、静かな闘志と自信を漲らせていた。
「……あれが、アールスハイド王国の誇る『黒鴉部隊』ですか。噂以上の錬度ですね、レオンハルト閣下」
傍らに控える副官のエルンストが、冷や汗を拭いながら呟いた。
「ああ。我が軍の最精鋭でも、あのような目に遭えば少なからず動揺するものだ。それをあの落ち着き……まさに本物の死神の群れだな。そして——」
レオンハルトは視線を広場の中央へと移した。
そこには、一人だけ椅子に腰掛け、静かに紅茶を口にしている女性がいた。
濡羽色の艶やかな髪。燃え盛る戦火を閉じ込めたような、鋭く美しい緋色の瞳。帝国軍の警戒兵たちに包囲されていながらも、まるで自国の王宮の庭園にいるかのような優雅な立ち振る舞いをしているその人物こそ、エレナ・ローゼンバルドだった。
「彼女が『氷の女将軍』か。戦場での冷徹な指揮ぶりからは想像もつかないほど、美しい女性だな」
レオンハルトは、興味深げに口角を上げた。
「閣下、からかわないでください。彼女は我が軍の兵士を何千人も葬ってきた仇敵ですよ。亡命を希望しているなど、王国の罠である可能性も十分に考えられます」
「罠か。もしそうなら、わざわざ全滅必至の『嘆きの谷』を一人で凍らせて渡るような真似はしないさ。あれは彼女にしかできない、最高に派手な退職届だよ」
レオンハルトは肩をすくめると、窓から離れて扉へと向かった。
「さて、我が国に転がり込んできた最高に美しい『災厄』を、じっくりと歓迎しに行こうか」
*
要塞の応接室。
重厚な扉が開き、レオンハルトが入室すると同時に、エレナはティーカップをテーブルに置き、静かに立ち上がった。
「お待たせいたしました、エレナ・ローゼンバルド殿。私はこの北方防衛線の司令官を務めている、レオンハルト・フォン・ヴィンザー少将です」
レオンハルトは穏やかな微笑を浮かべ、右手を差し出した。
エレナはその手をじっと見つめ、一瞬の躊躇の後、その白く細い手で握り返した。
「エレナ・ローゼンバルドです。突然の訪問にもかかわらず、部下たちに温かいスープと休息の場を提供していただいたこと、感謝いたします。ヴィンザー少将」
「いえ。我が軍を何度も恐怖のどん底に叩き落とした『黒鴉部隊』の指揮官が、まさか我が家を訪ねてくるとは夢にも思っていませんでしたから。……さて、単刀直入に伺いましょう。なぜ、王国最強と謳われたあなたが、部下を連れて我が国への亡命を希望されたのですか?」
レオンハルトの鋭い青い瞳が、エレナを射抜くように見つめる。
エレナは表情を変えず、ただ静かに、そして冷徹に事実を口にした。
「王国が、私たちを裏切ったからです」
「裏切った?」
「ええ。昨夜、我が部隊の副官であるアルベルトに対し、身に覚えのない『帝国への内通容疑』が掛けられました。軍法会議が開かれ、彼を処刑することで、私の指揮権を剥奪し、部隊を解体しようとする上層部の罠です」
エレナの緋色の瞳に、一瞬だけ、凍てつくような怒りの炎が宿った。
「私は、部下を無駄死にさせるために指揮官になったわけではありません。彼らの命を守るため、そして私たちの尊厳を守るために、私は王国を捨てました」
レオンハルトはエレナの言葉に、じっと耳を傾けていた。
彼の表情から笑みが消え、真剣な軍人としての顔になる。
「なるほど。アールスハイド王国の貴族たちが無能であることは知っていましたが、まさかこれほどまでの戦力を、私怨と嫉妬で手放すとは。信じがたい愚行ですね」
「彼らにとって、軍事的な合理性など二の次なのです。自分たちの地位を脅かす平民上がりの女指揮官の存在こそが、許しがたい悪だったのでしょう」
エレナは自嘲気味に微笑んだ。
「私は我が身を売り込みに来たわけではありません。しかし、もし帝国が私たちを受け入れてくださるのなら、私たちは帝国の『刃』となり、あの愚かな王国を完璧に蹂躙してみせましょう」
その言葉に含まれた圧倒的な殺気と自信に、レオンハルトの背筋にゾクリとした興奮が走った。
彼女の本気だ。
自分たちを虐げた王国に対する、氷のように冷たく、火のように激しい復讐の意志が、彼女の美しい相貌の奥に満ちている。
「……素晴らしい提案ですね。私個人としては、あなたのような傑出した才能を、喜んで帝国軍に迎え入れたいところです」
レオンハルトは再び、柔和な笑みを浮かべた。
「ですが、帝国は私一人のものではありません。帝都の上層部、そして保守的な貴族将軍たちが、元敵国の、しかも女性の指揮官をすんなりと受け入れるとは思えません。あなたたちの忠誠が本物かどうか、まずは試されることになるでしょう」
「どのような試練でも構いません」
エレナは一歩も引かず、緋色の瞳を輝かせた。
「実力で証明してみせます。我が黒鴉部隊が、帝国にとっていかに価値のある存在であるかを」
「頼もしいですね。では、さっそくですが、あなたたちの最初の任務を提案させていただきましょう」
レオンハルトは机の上に一枚の地図を広げた。
そこには、国境近くにある難攻不落の要塞——『双頭の獅子砦』の位置が記されていた。
「ここは我が軍の長年の懸案事項でした。王国の守りが固く、これまで何度も攻略を試みては失敗してきた場所です。……エレナ殿、この砦を、あなたたちの手で落としていただけますか?」
エレナはその地図を一瞥し、そして不敵な微笑を浮かべた。
「あの砦の構造も、守備兵の交代時間も、私はすべて暗記しています。……三日、猶予をいただけますか?」
「三日、ですか?」
「ええ。一日で部下たちの疲労を癒やし、一日で作戦を練り、そして三日目の夜には、あの砦に帝国の旗を掲げてご覧に入れましょう」
エレナの迷いのない宣言に、レオンハルトは思わず声を上げて笑った。
「素晴らしい! これほど頼もしい亡命者は初めてだ。……分かりました、黒鴉部隊の働き、期待して見守らせていただきます」
握手を交わす二人の指揮官。
新天地での、最初の戦いが、今まさに始まろうとしていた。
王国に捨てられた最強の鴉たちが、次は帝国のためにその鋭い爪を剥く。
その時、かつて自分たちを蔑んだ者たちがどのような顔をするか、エレナは今から楽しみにしていた。




