第5話:闇夜の逃避行
降りしきる雨は勢いを増し、漆黒の夜の帳をいっそう深く覆い隠していた。
王国軍北方司令部を後にしたエレナと黒鴉部隊の主力——総勢二百名余りは、一頭の馬も鳴かせず、ただ軍靴が泥を打つ微かな音だけを響かせて進軍していた。
「隊長、司令部から北西へ約三キロ。追撃の気配はありません。バドバルが意識を取り戻すか、あるいは朝の交代要員が異変に気づくまでは、完全にこちらの独壇場です」
斥候を務めていた小隊長の一人が、闇の中から音もなく現れてエレナの傍らへ並び、小声で告げた。
「油断はしないで。バドバルが無能でも、彼の周囲にいる参謀の中には、数時間の空白で私たちの意図を見抜く者がいるかもしれないわ。目指すのは国境の『嘆きの谷』よ」
エレナは濡羽色の髪から滴る雨水を嫌う風でもなく、鋭い緋色の瞳で前方の暗闇を睨みつけた。
嘆きの谷。そこはアールスハイド王国とガルディア帝国を隔てる巨大な断崖絶壁であり、普段は両国の監視塔が睨み合う最前線中の最前線である。
まともな軍隊であれば、わざわざそんな難所を通って国境を越えようとはしない。だからこそ、追手の裏をかくにはそこしかなかった。
「……隊長、本当に帝国へ行くのですね」
隣を歩くアルベルトが、覚悟を決めた面持ちで問いかける。
「ええ。今の私たちが生き残り、そして王国にその報いを受けさせるための選択肢は、それ以外にないわ。幸いにも、私たちはガルディア帝国の防衛網や拠点の配置を、誰よりも熟知している」
「皮肉なものですね。祖国を守るために必死で叩き込んだ敵国の情報が、今度は自分たちが生き延びるための道標になるなんて」
アルベルトの言葉には、確かな皮肉と、そして消せない哀愁が混ざっていた。
彼らはアールスハイド王国のために戦ってきた。その忠誠心は本物だったのだ。しかし、その忠誠を泥靴で踏みにじり、冤罪をでっち上げて破滅させようとしたのは、他ならぬ自分たちが守ろうとした王国の貴族たちだった。
「悲しむことはないわ、アルベルト。捨てたのは私たちではない。あの国が、自らの最強の盾と矛を自らへし折ったのよ。その代償がどれほど高くつくか、いずれ身をもって知ることになるわ」
エレナの口元に、冷徹な、しかしどこか蠱惑的な微笑が浮かぶ。
彼女の脳裏には、すでにこれからの道筋が描かれていた。
帝国へ渡ることは、単なる逃亡ではない。それは、王国に対する最も痛烈な反撃の第一手なのだ。
*
数時間後。夜明け前の薄明かりが、灰色の雨雲の隙間からかすかに差し込み始めた頃。
黒鴉部隊はついに、目的地である『嘆きの谷』へと到達した。
目の前に広がるのは、底が見えないほど深い渓谷。轟々と音を立てて流れる濁流の音が、はるか下方から響いてくる。そしてその向こう岸に見えるのは、ガルディア帝国の黒い警戒砦の影だった。
「隊長、見てください。王国の監視塔です」
アルベルトが指さす先、渓谷のこちら側に、等間隔で建てられた王国の監視塔があった。
通常であれば、そこから常に鋭い監視の目が光り、不審な動きがあれば即座に魔導通信で司令部へ通報される。
「……静かね。バドバルへの襲撃がまだ露見していない証拠よ。この隙に、一気に谷を越えるわよ」
「しかし隊長、この幅をどうやって渡るのですか? 橋はすべて落とされていますし、飛行魔導を使うにしても、二百人もの兵士を一度に運ぶだけの魔力量は……」
部下たちの間に、微かな不安が広がる。
だが、エレナの緋色の瞳に揺らぎはなかった。彼女は腰の細剣を引き抜き、その刃を濡れた地面へと突き立てた。
「私が、この谷に橋を架けます。全員、私の合図と同時に、息を止めて一気に渡りなさい」
エレナが魔力を解放すると、彼女の周囲の空気が一変した。
凄まじいまでの濃密な魔力が彼女の体から立ち上り、降りしきる雨さえもその圧力で弾き飛ばしていく。
彼女の漆黒の髪が、嵐のような魔力の風に激しくなびく。その美しくも恐ろしい姿は、まさに戦場を支配する災厄そのものだった。
「——《氷華の回廊》」
エレナが呟くと同時に、突き立てた細剣から、大地を凍りつかせる青白い光が放たれた。
その光は、嘆きの谷の絶壁を駆け下り、空間そのものを凍らせるかのようにして、対岸の帝国領へと一瞬で伸びていった。
パキパキと鋭い音を立てて、虚空に現れたのは、巨大で強固な『氷の橋』だった。
濁流の上空、数百メートルの高さに架けられた、美しくも禍々しい氷の回廊。
「な、なんて魔力量だ……! たった一人で、谷を跨ぐ氷の橋を作り出すなんて……!」
部下たちが感嘆の声を漏らす。
エレナの父が遺した魔導理論と、彼女自身の天賦の才が融合して生み出された、超高度な戦術魔導。これこそが、彼女が『氷の女将軍』と恐れられる所以の一つだった。
「見とれている暇はないわ。私の魔力をもってしても、この雨の中では十五分が限界よ。……急ぎなさい!」
「はっ! 全員、隊長に続け! 走れえええ!」
アルベルトの号令の下、黒鴉部隊の兵士たちが次々と氷の橋へと飛び乗っていく。
滑ることもなく、完璧な硬度を保った氷の上を、兵士たちは必死の形相で駆け抜けた。
エレナは最後尾に立ち、部下たちが一人、また一人と対岸の帝国領へ渡っていくのを静かに見守っていた。
その時。
背後から、けたたましい鐘の音が響き渡った。
「——侵入者! いや、脱走兵だ! 第8独立部隊が反逆したぞ!」
「司令部からの緊急伝達! エレナ・ローゼンバルドとその部下たちを拘束、あるいは射殺せよ!」
ついに、王国の監視塔が彼女たちの異変に気づいたのだ。
振り返ると、数十名の王国の警戒兵たちが、弓や魔導銃を構えて駆け寄ってくるのが見えた。
「隊長! 早くこちらへ!」
対岸に渡りきったアルベルトが、叫ぶように手を伸ばす。
「ふふ……遅すぎるのよ、無能な者たち」
エレナは王国の兵士たちに向けて、一瞥の蔑みを投げかけた。
そして、自らも氷の橋を軽やかに駆け抜ける。彼女が対岸に足を踏み入れた瞬間、背後でパキンという鋭い音が響いた。
「——消えなさい」
エレナが指を鳴らすと、彼女が渡ってきた氷の橋は、王国の兵士たちの目の前で、粉々の光の粒子となって渓谷の底へと崩れ落ちていった。
対岸で立ち尽くし、悔しげに喚き散らす王国の兵士たち。
その姿は、もはやエレナの瞳には映っていなかった。
「……さて」
エレナはゆっくりと振り返った。
そこには、突然現れた黒い軍勢を取り囲むようにして、武器を構えたガルディア帝国の守備隊が待ち構えていた。
帝国の兵士たちの目には、明らかな警戒と、そして「なぜあの黒い災厄がここにいるのか」という深い困惑が浮かんでいた。
エレナは細剣を鞘に収め、両手を軽く広げてみせた。
「私はエレナ・ローゼンバルド。アールスハイド王国を捨て、我が部隊とともに、ガルディア帝国への亡命を希望します。……あなたたちの司令官に、そう伝えなさい」
雨が止み、雲の切れ間から差し込んだ朝の光が、彼女の緋色の瞳を妖しく輝かせた。
氷の女将軍が、ついに新天地へとその第一歩を踏み出した瞬間だった。




