第4話:牙を剥く鴉
「隊長、本当に……よろしいのですか」
駐屯地の一室。装備を整えたアルベルトの問いかけは、どこか震えていた。
だが、その声は恐怖によるものではない。あまりにも長く抑圧され続けてきた鬱屈が、主の決断によってついに解き放たれることへの、武者震いに近い興奮によるものだった。
エレナは無言で、漆黒の外套の留め金を指先で弄んだ。
カチリ、と硬質な音が鳴る。
彼女の緋色の瞳は、すでに迷いを完全に捨て去り、凍てつくような凪の輝きを宿していた。
「迷う必要がどこにあるの、アルベルト。彼らが仕掛けてきたのは、単なる人事の嫌がらせではない。あなたの命を奪い、私の手足を捥ぎ、黒鴉部隊を実質的に解体するための粛清よ。これを座して受け入れるのは、忠誠ではなくただの盲従、あるいは思考の放棄だわ」
エレナは部屋の窓から、闇に沈む駐屯地を見下ろした。
降り続く雨の中、黒い雨具を身にまとった黒鴉部隊の兵士たちが、誰一人として音を立てず、整然と隊列を組んで待機している。
アルベルトへの軍法会議招集命令が下ったことは、すでに部隊全員の知るところとなっていた。そして、誰もが理解していた。これが自分たちに対する、王国上層部からの明確な死刑宣告であるということを。
「みんなには話したわ。これは反逆であり、亡命を視野に入れた逃避行になる、と。ついて来られない者は今ここで武装を解き、一般兵として他部隊へ転属する手続きを取っても構わない、ともね」
「……誰一人、残ろうとはしませんでした」
アルベルトが誇らしげに、そして少しだけ悔しそうに拳を握る。
「俺たちの命を何度も救ってくれたのは、あの上層部の豚どもじゃない。ローゼンバルド隊長、あなただ。あなたが捨てる国なら、俺たちにとっても守る価値はない。全員、あなたと共に地獄へ行く覚悟はできています」
「地獄になど行かせないわ」
エレナは静かに微笑み、細剣の柄に手をかけた。
「私について来なさい。必ず、誰もが息を吹き返せる場所へ連れて行く」
*
午前二時。軍司令部がある防衛拠点の城塞。
バドバル・フォン・ボルドス伯爵は、暖炉の火に当たりながら、ご機嫌な様子で分厚いステーキを口に運んでいた。
「ふむ、美味いな。やはり肉は焼き加減が命だ。……ところで、例の件はどうなった?」
バドバルが傍らに控える副官に問いかける。
「はっ。黒鴉部隊のアルベルト・フォン・クロイツに対し、予定通り出頭命令を発出いたしました。そろそろ憲兵隊が彼を拘束し、こちらの地下牢へ連行する頃合いかと」
「結構、結構。あの生意気な小娘の右腕をへし折ってやれば、流石に絶望するだろう。泣き言を言って私の足元に縋り付いてくるかもしれんな。そうなれば、女指揮官としての地位を剥奪し、私の夜の慰みものにでもしてやるか。あの美しい顔が屈辱に歪むのを見るのは、実に楽しみだ」
バドバルは下卑た笑い声をあげ、ワインを飲み干した。
彼にとって、エレナの部隊がどれだけ前線で戦果を挙げていようと関係なかった。重要なのは、自分の支配下に置けない目障りな存在を排除し、自らの権威を示すことだけ。そのために、若き兵士の命を冤罪で奪うことなど、塵を払う程度の認識しかなかった。
その時、部屋の扉がノックもなしに、凄まじい勢いで蹴破られた。
「な、なんだ!? 無礼者め!」
バドバルが立ち上がり、怒鳴りつける。
だが、現れた人物の姿を見て、彼の言葉は喉の奥で引き攣った。
そこには、ずぶ濡れの黒い外套を翻し、抜き身の細剣を下げたエレナ・ローゼンバルドが立っていた。
彼女の背後には、同じく殺気を放つアルベルト、そして十数名の黒鴉部隊の精鋭たちが、血塗られた剣を手に並んでいる。
「エ、エレナ……!? 貴様、なぜここにいる! それにその武装は何だ! これは軍規違反——」
「バドバル・フォン・ボルドス将軍」
エレナの声は、氷点下の吹雪のように冷たく、執務室の空気を凍りつかせた。
彼女の緋色の瞳は、侮蔑と冷酷さに満ちており、バドバルを人間としてではなく、排除すべき障害物として見据えていた。
「我が部下のアルベルトに対する、帝国への内通容疑。あれの証拠を、今この場で見せていただきに参りました」
「なっ、証拠だと……!? そんなものは軍法会議の場で提示する! 貴様のような一介の隊長に、今見せる義務はない!」
「そう。証拠はないのね。最初から、でっち上げるつもりだったのだから」
エレナは一歩、また一歩とバドバルへ歩み寄る。
彼女の纏う魔力が、室内の空気をビリビリと震わせ、暖炉の火が怯えるように小さくなった。
「き、貴様、反逆する気か!? 私が誰だと思っている! ボルドス伯爵家の当主であり、この方面軍の統括——」
「知っているわ。そして、あなたがこれまでどれだけの兵士を犬死にさせ、どれだけの戦果を盗んできたかもね」
エレナはバドバルの目の前で立ち止まり、細剣の切っ先を彼の喉元へぴたりと突きつけた。
刃から放たれる微かな赤い魔導の光が、バドバルの喉の皮膚をじりじりと焦がす。
「ひっ……!」
バドバルの顔から、先ほどまでの傲慢さは消え失せ、惨めな恐怖だけが張り付いた。
「た、助けてくれ! おい、誰か! 憲兵! 誰かいないのか!」
「無駄よ。あなたの部屋の前にいた護衛も、憲兵も、全員眠らせたわ。……少しばかり、永い眠りについた者もいるけれど」
エレナは美しい相貌に、ゾッとするような冷ややかな微笑を浮かべた。
「私たちは、あなたたちの身勝手なゲームに付き合うのをやめたの。この腐りきった王国のために流す血は、もう一滴も残っていない」
「な、何を言って……」
「お別れの挨拶に来ただけよ。ボルドス将軍。私たちはこれより、この国を捨てる。……そして、あなたたちがどれだけ無能で、誰に守られていたのかを、その身をもって知ることになるわ」
エレナは剣を引くと、バドバルの額に向けて、強烈な魔力を込めた掌打を放った。
「ぎゃっ!」
衝撃波によって壁まで吹き飛ばされたバドバルは、そのまま意識を失い、泥のように床へ崩れ落ちた。
「隊長、司令部の通信設備と、魔導通信の核を破壊しました。これで本国への連絡は、少なくとも半日は遅れます」
アルベルトが駆け寄り、報告する。
「よくやったわ、アルベルト。……行きましょう」
エレナは気絶したバドバルを一瞥もせず、背を向けた。
「黒鴉部隊、全軍に通達。これより国境を越え、帝国領へ向かう。……私たちの新しい戦場へ、進軍開始よ」
雨の夜。
王国最強と謳われた部隊は、祖国へ牙を剥き、漆黒の闇の中へと消え去っていった。
それは、アールスハイド王国が破滅へと向かう、最初の一歩であった。




