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第9話:王国の動揺、そして歪んだ焦燥

アールスハイド王国王都、豪奢な貴族街に位置する軍務省。

 その最上階にある会議室は、かつてないほどの緊迫感に包まれていた。テーブルの上には、黒ずんだ魔導通信機と、たった今届いたばかりの戦況報告書が置かれている。


「……あり得ん。あり得んぞ!」


国王の側近である宰相が、握りしめた報告書を突き飛ばすように机へ投げつけた。その手は震えている。

 そこには、かつての難攻不落の要塞『双頭の獅子砦』が、わずか半日で陥落したという衝撃的な事実が記されていた。しかも、それを奪取したのは敵国の帝国軍。その中核を担ったのは、昨夜亡命したばかりの、あの『黒鴉部隊』だというのだ。


「エレナ・ローゼンバルド……あの女、一体どれほどの力を隠し持っていたのだ……!」

「いえ、それよりも問題は、彼女たちが持ち出した『機密』です」


傍らで冷や汗を流していた軍務省幹部が、おずおずと口を挟む。

「彼女たちは砦の防護魔法回路の構造を熟知していました。さらに、我が軍の魔導通信網の暗号鍵さえも書き換えられており……現在、北方方面軍の通信は完全に傍受されている可能性があります!」


会議室に沈黙が流れた。

 最強の矛であり盾であった部隊が、敵に回った。それだけではない。彼らは王国の防衛システムの『裏口』を握った状態で、帝国へ渡ってしまったのだ。


「バドバル……! 貴様、なぜエレナを逃がした! 軍法会議にかけると言っておきながら、なぜ彼女を帝国へ行かせたのだ!」

 宰相が怒号を飛ばす。

 司令部でエレナたちに撃退され、気絶していたところを保護されたバドバル伯爵は、包帯を巻いた頭を下げ、顔面を土色に染めていた。


「も、申し訳ございません……。まさか、あの女が司令部に直接乗り込んでくるなどと……。しかも、配下の兵士たちまであのような反逆を……!」

「言い訳など聞きたくない! 奴らは『黒鴉部隊』だぞ。戦場のどの部隊よりも戦果を挙げてきた、実質的な我が国の戦力中枢だ! それを、貴様の私怨で敵に差し出したのだぞ!」


宰相の怒りはもっともだった。

 王国にとって黒鴉部隊は、汚らしい平民の集まりであると同時に、喉から手が出るほど欲しい『優秀な道具』でもあった。それが今や、最も憎むべき帝国という『刃』となって王国を切り裂こうとしている。


「……どうする。このままでは北方全線が崩壊するぞ」

 一人の将軍が、絶望的な表情で呟いた。

「帝国軍は『双頭の獅子砦』を拠点に、補給線を確保した。今、彼らは我が国の主要な防衛ラインを迂回し、王都へ直結する平原を南下してきている。黒鴉部隊を先頭に立てられれば、我が軍の守備隊など、半日も持たぬ……!」


王国の権力者たちは、ようやく理解した。

 自分たちが『女』だからと侮り、冷遇し、追い出した存在こそが、この国の命運を握っていたことに。

 そして、その存在が牙を剥いた今、王国に残されたのは、ただ滅びへのカウントダウンだけであることに。


「……何としてでも、彼女を連れ戻せ」

 宰相は、血走った目で命じた。

「あるいは、抹殺せよ。エレナ・ローゼンバルドの首に、我が国の持つ限りの報奨金をかけろ。暗殺ギルドを雇ってもいい。あの女を生かしておいては、王国そのものが消滅する!」



数日後。

 帝国領内、かつて『双頭の獅子砦』と呼ばれていた場所は、現在『黒鴉の要塞』と名を変え、着々と戦力の再構築が進められていた。


要塞の最上階で、エレナは地図を広げ、次の進軍計画を練っていた。

 緋色の瞳はかつてないほど冷静に、王国の領土を分析している。


「隊長、また暗殺者です」

 アルベルトが、冷たい表情で報告に来た。

「今度は、王都から派遣された熟練の『影狩り』だそうです。要塞の入り口で、見張りの兵士が拘束しました」


「……また、ですか」

 エレナはペンを置き、溜息をついた。

「私を殺せば王国が安泰になると本気で思っているのかしら。彼らにとって、私はそれほどまでに恐ろしい存在のようね」


「当然ですよ。あの要塞を落とし、戦線を崩壊させたんですから。奴らは今、恐怖のあまり狂乱しています」

 アルベルトは冷酷な笑みを浮かべた。

「どうしますか? いつものように、見せしめとして……」


「いいえ、今はその必要はないわ」

 エレナは首を振った。

「王国の王も、貴族たちも、私を殺すことで解決しようとしている。その必死な姿こそが、彼らの敗北を象徴しているのよ。……それよりもアルベルト、帝都からの使者が到着したわ。レオンハルト少将が呼んでいる」


帝都からの使者。

 それは、エレナたちが帝国内で正式な評価を受けるための、最初の重要なセレモニーとなるはずだった。

 帝国内の保守派将軍たちが、果たして自分たちを認め、王国との決戦の軍を預けてくれるのか。それが、エレナにとっての次の関門である。


「エレナ殿、準備はいいですか?」

 扉の外から、レオンハルトの声がする。

「ええ。準備は万端よ、レオンハルト少将」


エレナは外套を整え、鏡の前で凛とした立ち姿を確認した。

 彼女の緋色の瞳に、迷いはない。

 王国が送り込んでくる刺客も、帝国内の懐疑的な貴族たちも、すべて自分の力でねじ伏せてみせる。そう決意した彼女の背中には、かつての冷遇されていた『日陰者』の姿はもうなかった。


そこには、絶望を統べ、蹂躙を指揮する『戦姫』の姿だけがあった。

 エレナはゆっくりと扉を開き、新たな運命の舞台へと足を踏み出した。


「さあ、帝国での初陣を飾りましょう。……私の力を見せつければ、向こうの貴族も掌を返すはずよ」


彼女が扉を開いた先には、帝国の威信を背負った高位の将軍たちが、疑心暗鬼の視線を向けて待ち構えていた。

 エレナの戦いは、戦場だけでなく、権謀術数の渦巻く宮廷の中でも続いていく。しかし、彼女は知っている。力こそが全てを解決する唯一の鍵であることを。


黒鴉部隊の伝説は、帝国という巨大な牙を得て、さらにその牙を研ぎ澄ましていく。

 そして、王国の滅亡の鐘が、今まさに鳴り響こうとしていた。

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