第9話 雨止みを待たず
また次の日も、向井さんは学校に来なかった。
梅雨もまだ、止みそうにない。
今日は、傘を持ってきていた。
だけど、なんだか帰る気にはなれず、僕はそっと空き教室を覗いてみることにした。
扉から顔を出す。と、ガタッと音を立てて椅子から立ち上がり、大内さんが振り返った。
「――――!」
それは、まるで人混みの中で迷子になった子供が、親の面影を見つけた時のように不安と期待の入り混じった表情だった。
だけど、それもすぐに窓の向こうの空模様のように曇ってしまう。
「なんだ、あんたか……」
教室には、大内さんただ1人だけが残っていた。
雨止みを待っているわけでもないのに、窓の外を退屈そうに眺めながら。
「あれ、他の人は?」
「……残ろうとしてくれたけど、吹奏楽部の連中が来ないんじゃ意味ないってすぐに帰ったわ」
「なら、なんで残って……」
「やりたいこともあったし、誰かが気が変わって戻ってくるかもしれない。それに、早く吹奏楽部の連中の説得もしなくちゃならないし」
そう語る大内さんの机の上には、タイトルのないノートが1冊。おおよそ、勉強でもして暇を潰していたのだろう。
「あんたこそ、何しに来たのよ」
「僕は、その……」
「あー……。良いわ、もう分かったから。恩を売りにきたのね。また私が吹奏楽部の奴らと揉めようもんなら、止めてやろうと。でも、無駄よ。私を懐柔して、綾菜に近こうだなんて」
「そんなことない!」
強く否定してもなお疑いの目を向けてくる大内さんに、僕は辟易としてしまう。
そして、その弾みに、僕の中で大内さんに対してずっと積み重なっていた重しが浮かび上がってきた。
僕の頭の中に初めて大内さんと絡んだあの廊下での一幕が想起される。
――――“無視しても良いんだよ? こういうのとつるむタイプじゃないでしょ?“
もちろん、向井さんが僕と無理して話していないとは言わない。だけど……。
「――――そうやって、向井さんのことも決めつけてるの?」
僕の問いかけに、大内さんの雰囲気が一変する。
「……あんたに、綾菜の何が分かんのよ」
その声は、酷く低く歪んでいた。
顔を見なくても、憤慨しているのが分かるほどに。
「決めつけじゃない。そう、学んだの。綾菜のことは、私が1番分かってる。だから、あんたは気にしなくていい。綾菜を傷つけないためにもね」
傷つける。確かに、そうかもしれない。
――――“当日は参加できないかもだし、なるべく迷惑がかからないようにしたいから……“
あの時だって、体育祭の種目のことを聞いてしまったから。
「……っ、けど、僕には君が向井さんのことを縛っているように……」
ただ、それとは別に、僕には少し大内さんがお節介すぎるような気もしていた。
「守ってるの。どうせ、あんただってあの子の傷みには深く触れようとしないで、気にするそぶりだけ見せる男と変わんない。下心で近づいて、耳触りの良い言葉でズケズケと地雷を踏み抜いていく。綾菜の笑顔の下に、どれだけの傷があるかも知らない」
「そんなこと……!」
「どれだけ否定しても、相手を思いやれているかどうかなんて、自分じゃ分からない。綾菜は1人でいる方が傷つかないの。少なくとも、最小限の友達でいい。そして、それはあんたじゃなく私でいい」
1人。
確かにダンスの話をした時、向井さんもそう言っていた。
――――“1人でやるのも、それはそれで気楽だよ。自分1人がマジになればどこまでも行けるし、成果も責任も全部自分のものだから“
夕焼けの遊歩道。
飛び石を飛ぶ、向井さんの背中が蘇ってくる。
「だから、綾菜にこれ以上、変こと言ったり聞いたりして惨めな思いさせないで」
きっと、僕よりずっと長く向井さんといる大内さんのほうが分かっていることだってたくさんあるんだろう。
だけど、それでも1つ間違っていることがある。
――――“いつか、大きな舞台でみんなと踊りたいなー“
それは、向井さんが一度も1人でいたいなんて言わなかったことだ。
「……なんだよ、それ。僕も大内さんも、向井さんのことを完全に理解出来る訳ないだろ」
そう気づいた時、僕は大内さんの言葉を否定せずにはいられなかった。
「でも、あんたよりは知ってるわよ! 素の綾菜も! 傷ついてきた綾菜も!」
「さっき、相手を思いやれているかは自分じゃ分からない、って言ったよね……? ――――だったら、大内さんはどうなんだよ。君の言葉が、信頼している友達の言葉が、向井さんを諦めさせる原因の1つになってないって言えるのかよ……」
それから、僕は大内さんに近づくと、力強く肩を掴んだ。
心の奥から湧き上がってくる感情が、自然と僕にそうさせていた。
――――”綾菜は1人でいる方が傷つかないの。少なくとも、最小限の友達でいい”
違う。
向井さんはもっといろんな人と関わりたいんだ。
だって、僕は知っている。
初めて向井さんと言葉を交わした日に受け取った《何かお話ししよー》と書かれた紙を。
そして、遊歩道の帰り道。
――――“集団ダンスになれば、運動出来る子も出来ない子も、表現の下で1つになる。スポーツとはまた違った面白さもあるんだ“
そう言って、目を輝かせる向井さんを。
――――”綾菜にこれ以上、変こと言ったり聞いたりして惨めな思いさせないで”
違う。
綾菜さんは体質のせいで惨めな思いなんてしてない。
だって、僕は知っている。
授業中に声が出ないことを良いことに思い切り笑ったり、梅干しを食べたり、そうやってその体質すら楽しもうとする姿を。
(……もちろん、他人との違いで傷つくこともあるだろう。嫌な思いをすることだって)
でも、それでも――――。
「……っ、あんたに何が分かるのよ!」
「大内さんが弱さを知っているなら、僕は向井さんの強さを知ってる。向井さんはお世話が必要なペットでも、中身が覗けるロボットでもないんだ! 向井さんに必要なのは『保護』じゃない! 『寄り添い』なんだよ! 向井さんの話を聞いて、一緒に悩んで、必要な時に隣にいる友達なんだ! 僕には出来ないけど、大内さんにはそれが出来るんだよ!!」
そして、僕はこれでもかというくらいの強い目つきで大内さんに訴えかける。
どうにか、この想いよ届け、と。
息がいつもより浅く、肩に力が入っている。
身体はもう、僕のコントロールを外れていた。
そして、そんな僕から最後に出たのは、縋るような声だった。
「頼むから、大内さんだけは向井さんを可哀想な人みたいに扱わないでよ……! だって、君は向井さんの1番の友達なんだろ……!!」
臆病な僕がここまで反抗したのには、今までの大内さんの態度への不平不満だとか、単にムキになったのだとか、いろいろな積み重ねがあったのかもしれない。
が、詰まるところ、僕はこれが言いたかったのだ。
たとえ僕がどれだけ臆病だとしても、僕の中にいる向井さんを否定させるわけにはいかなかった。
1歩踏み込む怖さだの、向井さんに迷惑がかかるかもだのと頭でのたうち回る暇もないくらい。
「……綾菜を、可哀想な人みたいに?」
しかし、僕はその大内さんの呟きでハッとさせられると、すぐさま勢いで掴んでしまった肩から手を離した。
「ご、ごめん……!」
燃え上がった脳が、冷や汗と共に急速に冷えていくのを感じる。
思ったよりも柔らかくひ弱で華奢なその感触が、さらに僕の罪悪感を増長させる。
大内さんは、怒肩のまま顔を伏せて、僕の目の前で立ち尽くしていた。僕も、そうすれば良いのか分からなくって呆然としてしまう。
(――――や、やってしまった! 大きな声を出して、女の子に迫って……。僕は、なんてことを……!)
しかし、大内さんは僕が何かを紡ぐ前に、机のノートを鞄の中に雑にしまう。と、何も言わず足早に立ち去ろうとした。
「待って!」
僕はこのまま行かせてはいけないと思い、咄嗟に大内さんの手を掴む。と、その弾みで、チャックが空いたままの大内さんのカバンからノートがこぼれ落ちた。
《上手く見えるダンスのコツ! ①ポーズでしっかりと止まる》
《曲はスローで行く? でも、アップテンポの方が雰囲気に合ってるかも》
《振り付け:テーマから? 振りから?》
《分かりやすく伝えるには→例えを分かりやすくする?》
そこに書かれていたのは、ダンスの要点をまとめるためにどうすべきか、どんな曲や振り付けをチョイスすべきかと思案した事跡だった。
すると、見つめていたノートの上にポツポツと灰の粒が広がっていく。それは、大内さんの涙だった。
「……っ、知ってるもん……!」
「え……?」
「知ってるもん、綾菜が凄いことくらい! ダンスが誰よりも好きで、レッスン室が自由に使える時はほとんどいるし。落ち込んでいる子とか上手く出来ない子がいたら、すぐに駆け寄って声をかけたり出来るまで一緒にやったりするし。自分は本番参加出来ないのに、グループダンスの代役で入ってくれたりアドバイスしてくれたりするし。とにかく明るくて、でも無理した明るさじゃなくて、それでいて周りを笑顔に出来るところとか。本当は泣き虫だけど、でも、ちゃんとまた立ち上がって歩き出せるところとか……!」
涙と共に押し寄せてくる大内さんの言葉の羅列の中で、僕は向井さんから告げられた廊下での言葉を思い出す。
――――“誤解しないでね”
僕は、どこかで大内さんという少女を敵だと思い込んでいた。
――――”それじゃあ、弾けない人がいるでしょ”
――――”この10人には楽器が出来ない人もいるのに”
――――”ダンスは身体さえあれば、誰にでも出来るの!”
だけど、その時になって僕はようやく向井さんの言葉を理解出来た。
今までの言葉を振り返れば、大内さんは別に全部自分の思い通りにしたいわけでも、他人を拒絶しているわけでもなかった。
ただ、誰かを見捨てられなくて、何かできる人に合わせるんじゃなく全員でできるものを模索したい。
そう、優しいだけなんだ。
しん、と、静寂が生まれる。
僕は大内さんから腕を離すと、足元のノートを拾い上げ、改めてそれを見る。
紙面には、何度も書いたり消したりした自問自答の跡が、女子特有の丸文字でところどころに散見される。そして、涙の染みた跡も。
「……凄いね。他人のためにここまで出来るなんて」
僕は、ぽつりと呟いた。
すると、その頃には大内さんも少し落ち着いたのか、手で涙を拭って、言葉を返してくれた。
「……別に、説得の材料を探してただけ。やり易いとか簡単そうって思わせれば、納得してくれるかもしれないし」
「でも、それも楽器が弾けない3人のためなんでしょ?」
もちろん、今回の応援合戦においては、勝ちにこだわっている部分もあるのかもしれない。
でも、大内さんはもし自分1人だけが楽器を弾けないだけなら、喜んで演奏を選び、そして、それ相応の努力をしただろう。
このノートが、それを物語っている。
「向井さんことも、そうなんだよね。きっと、大内さんが守ろうとするのは、向井さんの悲しみを最小限にしてあげたいと思っているからからで」
大内さんは、何も応えない。
だけど、さっきまでのきつい目つきとは違っていた。
「でもね、僕は同じように、向井さんには最大限楽しんでほしいと思ってるんだ。いろんな人やものに触れて。向井さんには笑っていてほしいから」
「……だけど、綾菜が傷つくかもしれない」
「だから、寄り添うんだよ。傷ついた時は、話を聞いて半分に。楽しみは、一緒に楽しんで2倍にって、よく言うでしょ?」
僕はそう言ってパタンとノートを閉じ、大内さんに頭を下げる。
「大内さん、ごめん。誤解してた。僕、大内さんのこのノートが報われてほしい。みんなに誤解したままでいてほしくない。だから……」
大内さんは、人一倍優しい。だけど、不器用だからぶつかっちゃったり、口下手で上手くいかなかったりしてしまうだけなんだ。だったら……。
「――――僕と一緒に考えてみない? 応援合戦のことも、向井さんのことも。もし、僕に下心があると思ったなら、その時はぶん殴ってもいいから」
僕は、顔を上げる。
大内さんは少し黙った後、僕の提案にこくりと頷いた。
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