第8話 向井さんがやって来ない
次の日、向井さんは学校に来なかった。
どうやら、登校が難しい症状が発生してしまったらしい。
たしかもっとずっと前にも1度あったけど、その時とは違う気持ちで、僕は主のいない隣の席を見つめる。
心なしか、クラスの雰囲気は暗かった。
大内さんも、向井さんからリッチーと呼ばれていた女子生徒も、向井さんがいない2人きりの時は特段はしゃぐということもなく、会話をするところを何度か見かける程度だった。
さらに、窓の外には少し早めの梅雨がやって来ていたから、それもこのどんよりとした空気をアシストしているのかもしれない。
きっと、放課後になれば、室内練習になったことを嘆く赤城くんの声が聞こえてくるだろう。
窓は、室内外の温度差から薄く白く濁り、天然のノートが生まれる。
授業中、僕は無意識のうちに描いていた向井さんの生み出したヤンキー猫の絵が、再び窓を覆う白いモヤの中に消えていくのをぼんやりと眺めていた。
それから面白い授業はあっという間に、つまらない授業はこれでもかというくらいゆっくりと進み、やがてホームルームの時間になる。
「じゃあ、最後に保護者の方に体育祭の参加の有無を確認するプリント配るから、来週の月曜日までに持ってこいよー。ハンコ必要だから、それも忘れんな」
すると、連絡事項に付け加えるように先生が聞いた。
「あ、それと向井の家に誰かプリント届けに行ってくれないか?」
「はい!」
待ってましたと言わんばかりに、大内さんの手が挙がる。
それが彼女の口から出た今日イチの声だったように思えた。
――――そう、あの瞬間までは。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
それは、僕が折り畳み傘を忘れ、どうしようかと昇降口で雨雲を見上げながら佇んでいた時のことだった。
(……うーむ、濡れるの覚悟で行くか。雨止みを待つか。朝よりは弱まってるし、もう少しマシになりそうなんだよなぁ)
僕は思案の末、くるっと踵を返して、扉の前から校内を1周見渡す。
そして、
(そういえば、この高校に入ってから、まだ1回も校舎を歩き回ったことないな……)
ということで、僕は弱まるかもわからない雨足を待つ間。
せっかくだからと学校探索をすることにした。
僕の高校の全体像について説明しておくと、まず校舎自体はコの字の形をしていた。
コの字、その形でいう左側の辺の無い部分に門が設置されており、昇降口はその正面の窪んだ辺の部分にあった。
つまり、僕らが登校する際は必然的に、校舎全体に囲われるような形で昇降口に入っていくことになる。
次に、僕が今いる昇降口。
昇降口の正面中央には、大きな階段があった。
吹き抜けになっており、2・3階の廊下と会話もできる。
だからこそ、朝は1番騒がしいエリアかもしれない。
そして、その階段の脇からは、長い廊下とピロティが見えた。
それは、コの字の校舎の奥に建てられた剥き出しのプールやトレーニングルーム・柔道場などが敷設された2階建ての体育館へと続いており、僕らは体育の授業などはこの階段の脇を通って向かう必要があった。
僕はひとまず、そんなピロティへと歩を進めてみた。
体育館の中からは、反響したかけ声が響いてきて、赤城くんの所属するテニス部も室内練をしているようだった。
(……しかし、こうして1人ぽつんと立っていると、不思議な気持ちになるな)
みんなはやるべきことがあるのに、自分にはない。
それを苦だとは思わないが、なんだか置いてきぼりになっている気がして、やっぱりなんだか不思議な感情になる。
やりたいことがあるってのは、やっぱり素敵なことなんだろう。
ナーバスな気持ちが沸いてきたのは、ピロティのとたん屋根を雨粒が駄々をこねる子供のように騒がしく叩くからだろうか。
次に向かったのは、1階の端のほうに位置する図書館だった。
中は、想像より広かったが、小・中学校とさほど大差はなかった。
雨止みを待っているのか誰かを待っているのか、それとも本が好きなのか、席はそこそこ埋まっている。
(……ここは、お邪魔かな。人も多いし)
そう思って、僕はすぐに扉をそっと閉じた。
「行くところがなくなってしまったな……」
つい、そんな言葉が口から出てしまう。
窓の外の雨は弱まっているとはいえ、まだカバンの中の物を濡らさずに駅まで辿り着けそうにはない。
しかし、そうして曇天から降る水滴が窓に叩きつけられる音が、廊下の静寂に満ちた時だった。
「――――あんたたち、やる気あんの!?」
そんな雨音のカーテンを割いて聞こえて来たのは、トラブルが起きたであろうことを予感させる女の怒声だった。
「応援合戦は花形なのよ! 1番目立つの!」
僕が空き教室のほうを見に行くと、空き教室の中には10名の生徒がいた。
そして、大内さんと6人の生徒が対立していた。
立ち上がっていたのは、みんなクラスメイトで吹奏楽部のメンバーだった。
廊下まで響いていたのは、一際熱のこもっている大内さんの声だったのだろう。
そんな1対6の対立を、他3名は席について傍観していた。
ただじっと、嵐が過ぎ去るのを待つように押し黙って。
「目立つから、嫌なんだよ。ダンスなんて」
「私たちは、演奏になるから楽だと思って立候補したの」
大内さんとは対照的な、愚痴を吐くように冷たく暗い声が6人の中から溢れる。
すると、大内さんはムッとした表情を見せた。
「そんな無難じゃ勝てないじゃない。勝つならダンス。大丈夫! 私が勝たせるから!」
すると、6人の中の1人の女子生徒が痺れを切らしたのか、1歩前に出て、張り上げ慣れていない震えた掠れ声で反撃に出た。
「――――なら1人で踊ってなよ! 私たちは大内さんみたいに目立ちたいわけでも、優勝したいわけでもないの!! 我儘で迷惑かけないで!」
「どっちが我儘よ! そっちこそ、この10人には楽器が出来ない人もいるのに、自分たちが吹奏楽部で楽器できるから演奏にしたいってだけでしょ! ダンスは身体さえあれば、誰にでも出来るの!」
「大内さんみたいな出来る人には分からないでしょうけど、ダンスだって誰にも出来るわけじゃないの!!」
会話は平行線。
それもそうだ。
彼女らは互いに主張しかしていない。
これは話し合いではなく、相手を受け入れようとはしていないただの喧嘩だ。
すると、その時、大内さんが前に出る。
そして、その不毛さを象徴するかのように、相手の女子生徒の胸ぐらに掴み掛かった。
「あんた否定ばっかね! なら、代案出しなさいよ!」
「だから、私たちは演奏が……!」
「それじゃあ、弾けない人がいるでしょって言って――……」
しかし、そこで1人の人物が、その行き過ぎた言い合いを止めた。
「ちょ、ちょちょちょっ、あぶあぶ、あっ、あぶな、危ないって……!」
それは、何を隠そう僕だった。
僕は、気づけば腕を捩じ込むようにして、2人の間に割って入っていた。
しかし、咄嗟の行動だったから、「危ないだろ!」とか「止めろ!」と強く主張することが出来なかった僕の警笛は、両者に睨まれると尻すぼみになっていく。
そして、部外者である僕の急な登場で、教室は困惑の空気で固まっていた。
「なんで、あんたがここに……!?」
「廊下まで、その、言い争いの声が聞こえてたから……。で、覗いてみたら、掴みかかってるし……」
すると、そこで大内さんはようやく自分の凶暴性に気がついたのか、数秒の静寂の後、大内さんは女子生徒の胸ぐらから手を離し、女子生徒も邪険な態度で制服を正して、数歩下がった。
「……私たち、行きますね。遅れてるけど、部活あるので。今日はもう、話し合いできる感じじゃなさそうですから」
何か悪いことをした訳でもないのに、僕は敵認定されたような目つきで女子生徒に睨まれる。と、揉めていた6人の後に続いて、傍観していた3人の生徒も気まずそうにぞろぞろと出ていってしまった。
大内さんを含め応援合戦組の10人がいたその教室には、いつの間にか僕と大内さんだけになっていた。
そして、その大内さんもこちらに背を向け、帰りの支度を始めている。
「なんか、ごめん。みんな、帰っちゃったね……」
雨音以外に、返事はない。
僕は自身の放った言葉が、教室を満たす薄暗い鼠色の影に飲み込まれてしまって届いていないのかと、少し気まずい思いになる。
しかし、それから次に何を話そうか模索していると、不意に大内さんが口を開いた。
「……謝らなくていい。あのままだったら私、あいつを殴ってたかもしれない。危うく、優等生としての評価が台無しになるところだった。だから、それに関しては助かったわ」
勝ち気で目立ちたがり屋、自己主張も強く、折れない。
そんなイメージが大内さんにはあったから、まさか感謝されるとは思っておらず、その意外さに僕は動揺してしまう。
「そ、それにしても、随分と揉めていたみたいだね」
そして、気が動転した僕の口からは、どうにか間を埋めようとデリカシーのない質問が飛び出してしまった。
「別に。ただ、出来ない人間がいる演奏より、フォーメンションとかで誤魔化せる踊りのほうが勝てる確率が高いと思っただけ。ダンスなら勝たせる自信もあるわ。それに、10人全員で作り上げなきゃ意味がないじゃない」
「だからって、何でもかんでも勝手に決めすぎなんじゃ……。もっと向こうの話を聞いても……」
「答えは決まってる。あいつらは楽したいだけなのよ。だから、自分たちが出来る演奏ばかり主張してくる。周りのことも考えないで」
その大内さんの強い瞳が、僕には少し怖かった。
「……でも、必ず説得してみせる」
それから、大内さんは「それじゃ」とだけ言って鞄を掴むと、教室を後にする。
僕の耳には、雨の音がやけに強く残っていた。
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