第5話 距離
2人で歩く曲がりくねった緩い坂道は、思ったよりも早く進んでいく。
と、僕らはその根元で分岐路に突き当たった。
目の前のT字路は、真っ直ぐと右に分かれている。
真っ直ぐ進めば住宅街へ、右の道は大きな通りに続いている。
大きな通りからは、騒がしさが漏れ聞こえていた。
地図は住宅街のほうを示していた。
しかし、向井さんは言った。
「ねえ、こっちからでも帰れるかな。どうせなら、楽しそうなほうから帰ろうよ」
向井さんが示したのは、大通りに続く道だった。僕は手元の地図に目を落とす。
(まあ、そっちに行っても道はあるか……)
この時、僕は真っ直ぐ家に帰ることを諦めた。
だから、それに素直に答える。
「帰れるよ。道は、どうとでも繋がってるから」
「なら、こっち行こ!」
気づけば、道標は向井さんになっていた。
僕は家族にメッセージアプリで断りを入れると、それからはあまりに遠回りになったり、来た道に戻ってしまって堂々巡りにならないようにだけ注意して、はぐれてしまわないよう早足でその後に続く。
向井さんはそんな道中でも、道端の紫陽花に目を奪われたり、道沿いの小川に住むメダカと一緒に散歩したりと忙しかった。
それから5分も経たないうちに、僕らは大通りに出る。
無人駅に大きな本屋、辺境の美術館。
この町は、特に何があるわけでもない遊び心のない風景。
強いていえば、大きな駐車場をドーンと構えたファミリーレストランや喫茶店が、通りかかった車を捕まえようとポツポツと点在してはいるものの、その奥には大きな山々が広がっていた。
至る所にカフェ、美容室、雑貨屋、コンビニ、チェーン店、家電量販店、インドカレー屋がある東京と比べると、田舎の中ではまだマシな方とはいえ、とても都会とはいえなかった。
「なんか、ちゃんと2人なのって初めてだね」
ぼんやりとその背中を眺めていると、向井さんが振り返って言った。
「ねえ、クラスでは誰と仲が良いの?」
「……うーん、赤城くんとかかな」
「休みの日には遊ぶの?」
「最近は赤城くんが誘ってくれるから、たまに? でも、赤城くん部活あるからあんまり遊ぶタイミングないんだ」
「他に、この辺に友達いないの?」
「うん。僕、東京からここに来たから」
僕の性格上、それだけが原因ではなのだけれど。
「おおっ、東京! あ、確かに自己紹介で聞いた気がするよ〜」
しかし、向井さんはそんなことは気にせず、前髪をいじいじと直しながら話を続ける。
「有名人とか、見たことあるの?」
そして、出た。
東京出身者が聞かれる質問の第1位。
そう都合良く街中に有名人はいない。
(――――いたとしても、顔を隠してるし。正直人混みの中で輝いているわけでもないから、お笑い芸人みたいに「ほぼそのままじゃん!」みたいな見た目じゃないと分からないのよ)
それに、僕はアクティブなほうではないから、特に東京の流行や街並みについて詳しいわけでもない。
渋谷、新宿、原宿、秋葉、池袋、新大久保なんて目的がなくちゃ行かない街だし、尚更だ。
でも、それをありのままに話すとがっかりされる。
だから、東京と聞いて目を輝かせていた人も、入学して1週間が経たないうちに僕の元からいなくなっていた。
「……ロケとかは、たまに。新橋とか、あと東京の外れの方とかで何度か見たことあるけど、街中で遭遇とかはないなぁ。みんな変装してるし……。みんながみんな、気づかれるような格好で歩いてたら、毎日騒ぎになっちゃうし」
僕は向井さんのがっかりする顔が見たくなくて、目を逸らしながら答える。
「確かに。そう考えると、バレない方がすごいか……!」
しかし、向井さんは僕の懸念とは裏腹に、素直に納得すると、再び歩き出した。
それから僕らはたわいもない会話を繰り返しつつ、大通りが川をまたぐ大きな道路橋に差し掛かると、今度は川沿いの一車線道路に進路を変えた。
もう、高校からはずっと遠くまでやって来ていた。
「ねえ、嫌いな食べ物とかある?」
向井さんが聞いた。
なんかお見合いみたいだなと思いつつ、僕は答える。
「うーん……。生クリームとか?」
「え!? まじ!?」
「うん。カスタードとかは大丈夫なんだけど、生クリームとかホワイトチョコとかはなんか苦手で……」
「えー! じゃあ、私と真逆だ!」
「向井さんの嫌いなものは?」
「苦いもの全般。よくねぇ、小学生みたいだねって言われるんだ〜」
「へえ、じゃあ辛いものも?」
「んー、それは好き! 辛すぎるのは無理だけど、適度に辛いのは……」
向井さんはそこで言葉を止めて、代わりに親指を立てる。
「じゃあ、休みの日とかに食べに行くの?」
「うん。たまにね。あの、私、動物園とか行くの好きだから、そのついでに。まあ、辛いものだけじゃないけど」
僕はそこで、以前に向井さんの描いたウサギや猫のことを思い出した。
「動物、好きなの?」
「うん! 好き!」
「きっかけとか、あるの?」
「うーん……。上手く説明できないんだけど、なんか不思議じゃない? 人じゃないのに動いてるのが、こう同じ生物っていう大きな括りなんだけど、異質な感じがして。だから、知りたくなるし、ずっと見てたくなるんだと思うんだよね。たぶん。形もデフォルメ感あって可愛いし、鳴き声も行動も全然違うしー……」
「ふむ」
何だか、動物の話を始めた途端、向井さんの顔のトーンが何段階か明るくなった気がする。
きっと、本当に動物が好きなんだろう。
「あ、ごめん。私ばっか話して」
すると、黙っていた僕が気になったのか、向井さんはハッとして会話の主導権をこちらに渡そうとしてくる。
黙っていたのは、聞き入っていただけなのに。
「いや、向井さんの話、楽しいから。もっと聞きたいな」
「……本当に? 初めて言われた。でも、よく考えたら、いつもは騒いでばっかだから、こんなに誰かに自分のことちゃんと話したの初めてかも」
夕焼けに照らされて長くなった僕らの影が、遊歩道のアーチをくぐる。
僕らはまた、川沿いの道から進路を変えた。
もう僕は、スマホを見ていなかった。
「話の流れでポロッと言っても、すぐに忘れられちゃうしさー」
「まあ、でもそんなもんなんじゃない? まだ入学して1ヶ月くらいなんだし、これからもっと仲良くなれると思うよ。それこそ、部活とか……」
その言葉で、向井さんの足が止まる。
そして、向井さんは振り返った。
「部活はやらないんだ。ほら、この体質のせいで、本番は迷惑かけちゃうかもしれないでしょ?」
僕はそれを聞いて、ようやく自分の失言に気がついた。
2人の頭上で遊歩道を覆う大きな木々が風で騒めく。
青葉が影を落とし、木漏れ日が向井さんの顔の上にマスカレードのマスクを作った。
青葉をすり抜けて差し込む光右目だけが晒される。
その瞳は、自然の緑を吸い込んでいつもに増して綺麗に輝いていた。
けれど、一方で陰った部分から覗く向井さんは、思った以上に冷たく透明で、光を目一杯吸い込んだ瞳とはまた違い、ずっと見続けてしまうような独特の美しさを持っていた。
色の変わる水溶液。
普段の向井さんがオレンジ色なら、いま僕が見た向井さんは何色なんだろうか。
きっと、暖色ではない。
不謹慎だけど、でも、今の一瞬、ようやく「クラスメイト」ではなく「1対1の人間」として向井さんと目があったような気がした。
いつも「学校の向井さん」という1つの光の当たり方しか見てこなかった向井さんが、その光の角度を変えてここにいる。
しかし、それからすぐ2度目の風のそよぎがさわさわと悪戯に葉を動かして、日陰の向井さんを隠してしまう。
すると、日向に戻った向井さんは一転して明るい声色で、
「でも、身体を動かすのは好きだよ! だから、ダンススクールとか通ってるんだー。融通もきくし」
と、あの静寂が存在しなかったかのように話を続けた。
「……ダンス? 向井さん踊れるんだ」
「ばりばり踊るよー! ヒップホップ、ロック、ジャズとか。最近は、ハウスって種類のダンスにも興味あるんだー」
ダンス、踊れるのか。
しかし、思い出してみれば、確かに向井さんは階段を下る時もこの帰り道も、ところどころで身軽な動きを見せていた。
「確かに、向井さんって運動神経良さそうだもんね」
「まあ、ダンス出来るからって運動神経が良いとは限らないんだけどねぇ……。実際、教室にダンス以外ポンコツの子いるし……」
向井さんが頬を掻く。
「え、意外。あれって、運動神経良い人がやるものだと思ってた」
「でも、だから面白んだよ。集団ダンスになれば、運動出来る子も出来ない子も、表現の下で1つになる。スポーツとはまた違った面白さもあるんだ」
向井さんは楽しそうに語りながら、わざと飛び石のある池の道を選んでぴょんぴょんと飛んでいく。
僕はそれを脛ほどの高さの杭で区切られた岸から見つめていた。
「いつか、大きな舞台でみんなと踊りたいなー」
向井さんは、僕から顔を逸らしたままうなじをポリポリと雑に掻く。
その声色は明るいのに寂しくて、何気ないのに何かを隠しているようだった。
みんなで踊る。
それが練習でなく大きな舞台となるのならば、向井さんの体質がどう響くかは容易に想像できる。
それも、本気であればあるほど。
さっきまで少し邪な気持ちで「僕も踊る向井さんを見てみたい」と言おうとしていた僕は、もう簡単にその言葉を口にはできなかった。
「踊るのが好きな向井さん」には、もう「みんなで踊ることが好きな向井さん」という修飾語がついてしまった。
すると、何も話せないでいる僕のほうを振り返って向井さんが言った。
「でも、1人でやるのも、それはそれで気楽だよ。自分1人がマジになればどこまでも行けるし、成果も責任も全部自分のものだから」
向井さんは明るく振る舞いながら、言い訳のように言葉を紡ぐ。
その言葉を聞いて、向井さんは自分が好きなものにすら憧れと現実のジレンマを抱いているのか、と感じていた。
――――“ただでさえ、さっき助けてもらったんだし。もう迷惑かけるわけには“
僕が強引に案内を引き受けようとした時も、向井さんはそんなことを言っていた。
きっと、向井さんはずっと出来うる限り周りに迷惑をかけないように独りで自分自身と向き合ってきたのだろう。
――――“ねえ、こっちからでも帰れるかな。どうせなら、楽しそうなほうから帰ろうよ“
もしかしたら、分岐路で聞いたこの言葉は、少しでも僕が退屈に思わないように気を遣った結果出てきたものなのかもしれない。
道中だって会話だって、なるべく明るく振る舞っていたのかもしれない。
それこそが、向井さんに必要な生き方だったのだとしたら。
こんなのは全部、僕の想像で仮定でしかない。
けれど、そう思う僕の人差し指は、無意識に親指の側面をカリカリと掻いていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
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