第4話 君色水溶液
僕が初めてその違和感を目にしたのは、実験室に向かっている時だった。
廊下の奥のほうで1人。
僕は、辺りをキョロキョロと見回す向井さんを人混みの中に見かけた。
(……友達でも、探しているのかな)
向井さんが人ごみの中に消えていく。
きっと、用を足しに行った友達でも待っているのだろう。
僕は赤城くんに呼ばれると、再び実験室に向かって歩き出した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「なあ、これであってると思うか?」
実験室の一角。
僕は赤城くんとほか2名の班員と共に、炭酸ナトリウムの2段階中和実験をしていた。
「うん。とりあえず3つのビーカーに入った炭酸ナトリウム水溶液は、全部をフェノールフタレイン液でピンク色にしたから大丈夫だと思うよ」
僕らの目の前には、ピュレットというゆっくり内容物を滴下する細長いスポイトのようなものに入った希塩酸があり、その下にはピンク色になった濃度不明の炭酸ナトリウム水溶液10ミリが並んでいた。
「よし、じゃあ落とし始めるぞ」
これは、希塩酸を少しずつ落としていって、液体の色の変化からどこで中和が起きるのかを3回調べて平均値を出し、濃度を求めようという目的のものだった。
要するに、水溶液の色がいろんな色に変わっていくよっていう実験なんだけど、入学以来の初めての実験だからか赤城くんは気合が入っているようだった。
(……赤城くん、実験好きなのかな)
赤城くんは、子供が欲しいおもちゃを眺めるように、じっと希硫酸の落ちていく様を見つめている。
「でもさ、滴下って、こんな遅くていいのか?」
「うん。なんか、意外と早く透明になっちゃうみたいだから」
もしもし亀よ亀さんよのリズムよりもゆっくりと希塩酸がピュレットを通じて、ピンク色の炭酸ナトリウム水溶液に一滴ずつ落ちていく。
が、それでも一向に色の変わらない炭酸ナトリウムを見て、赤城くんは少し不安そうだった。
――――そんな時だった。
0から始まった目盛りがちょうど4ミリに差し掛かったところで、ピンク色だった炭酸ナトリウム水溶液が薄くなり始める。
僕は、赤城くんに「少し遅くしたほうがいいかも」と言って滴下を遅くさせ、最後のほうは1滴ずつ手動で滴下することになった。
4・56ミリに差し掛かったところで、液体は完全に透明になる。
すると、今度はメチルオレンジという液体を入れて、炭酸ナトリウム水溶液を黄色に染める。
そして、僕らは滴下を再開した。
「おおっ!? 濃くなってきたぞ!」
その黄色が次はオレンジに変わり、赤城くんがはしゃぐ。
このまま希硫酸を入れ続ければ、いずれ赤色になるらしい。
――――が、僕らの実験はここで終了した。僕らの目的はあくまで中和点の計測だったから。
授業の最後には、先生がビーカー5つを横1列に並べて色の変化を見せてくれた。
ピンク・透明・黄色・オレンジ・赤に並ぶ炭酸ナトリウム水溶液を見て、女子の中からは「SNS上げよ」とか「ピンクが1番可愛くね」なんて声が上がる。
しかし、そんな中、僕は赤城くんの隣でそれを眺めながらも、ぼんやりと別のことを考えていた。
(落とされた液体によって色を変える、か……。まるで、日によって身体が変わる向井さんみたいだな)
すると、頭の中に5つのビーカーが浮かび上がる。
と、それからビーカーらは忍者の変化の術のようにボフンッと煙を上げ、それぞれの色に合った向井さんに変化した。
(赤い向井さんはきっとガーリーな服装なんだろうな)
そう考えた瞬間、イチゴの描かれた赤いセーターにロングスカートを纏った赤の向井さんが、1歩前に出てポーズを決める。
目には眼帯をしているが、それもとってもキュートだった。
(……む、逆にオレンジの向井さんはいつも以上に元気なのだろうか)
すると、今度はオレンジのオーバーサイズのシャツにジーンズ素材のショートパンツを合わせた向井さんが、こちらに向かって手を振る。
オレンジの向井さんは、欠けている左腕側の裾をだらりとたらしながらも、向井さんはいつも以上の弾ける笑顔が素敵だった。
(しかし、そのどれもが暖色系ってのも、向井さんみたいだ)
現実に戻ってくると、もうそこには誰もいなかった。
「……はっ!」
僕はビーカーを片付けている先生に不審な目で見られながら実験の記録用紙を提出し、いそいそと教室を後にした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その日の放課後、僕の班は教室の掃除当番だった。
この学校では教室だけが当番制で回ってくる。
そして、その掃除を確認する先生がなかなか捕まらなかったせいで終了が少し遅れ、僕は夕焼けが敷かれた廊下を歩いていた。
「じゃ、また明日! ――――やべっ! 遅れる!」
赤城くんは掃除が終わるなりそう言うと、教室を飛び出ていった。
他の班員も、部活なり女子同士で帰るなりして、僕の帰り道は独りぼっちだった。
まあ、そうでなくても、いつも独りなのだけど。
(あーあ、なんで電車で通う必要のある高校にしちゃったかな……)
僕は心の中で盲導にもならない後悔をしながら、そこそこの駆け足で昇降口に向かっていた。
僕にとっての癒しの場所は自分の部屋だけだったから、早く家路に着いてのんびりしてしまいたかった。
――――が、しかし、僕はその道中で出会ってしまう。
昇降口で、上級生から話しかけられる向井さんと。――――しかも、嫌そうな表情付きの。
(へえ、さすが向井さん。上級生とも仲良いんだ。可愛いもんな)
僕は、上履きを靴に履き替える。
が、下駄箱に上履きを入れ、パタンと閉じて一呼吸置くと、
(……って、んなわけあるかぁあああああああいっ!)
と、鼻息を荒くして向井さんのほうに向かって歩き、向井さんの目に映るよう上級生の後ろをわざとらしくうろうろした。
そして、向井さんにテレパシーを送る。
(――――僕には、何してんだよと凄む勇気はありません! だけど、もし助けが必要なら、この精一杯差し出した手を掴んでください! 必要ないならないで、僕はさっさと家に帰りたいんです!)
そう心の中で情けなく訴えながら右往左往していると、上級生が流石にその足音と圧に気がついたのか、振り返って「な、な、な、なんだこいつ……」と困惑した表情を見せる。
すると、ようやく向井さんも気がつき、黒と水色の混ざったポニーテールを弾ませて先輩の横を忍者のようにすり抜け、それから僕の腕を取った。
「あ! 友達来ちゃったんで行きますね! すいません!」
向井さんは先輩にそう告げると、横に並ばれた拍子に漂ってきた石鹸の良い匂いに意識をとられていた僕を、困惑する声ごとその場から連れ出した。
「いやー、助かったよ! ごめんね! いきなり」
しばらく歩いて、どこからも先輩が見えなくなった帰り道。
向井さんが、あたりをキョロキョロとした後にそう言った。
「方向感覚?」
「そ! それで帰り方が分からなくなってうろうろしてたら、あの先輩に捕まっちゃってさ〜。亜未は部活でいなくて、リッチーも委員会だから一緒に帰れなくて」
亜未とリッチーというのは、両方とも向井さんのクラスメイトで友達だった。
今朝の登校するなりスズメより高いキンキンとした声で会話していたクラスメイトとはまた別の、でも向井さんとよく一緒にいる人たちだ。
(ふーん、不便だなぁ……。方向感覚とかも無くなっちゃうんだ。ま、でも家に帰るだけならなんとか……。……ん? 向井さんの、家……)
そこで、僕は尋ねる。
「……ところで、こっちで合ってるの? 僕、向井さんの家知らないんだけど」
「あ」
見慣れない風景の広がる住宅街の真ん中、2人が立ち止まる。
「しまった! 亜未たちと帰る感覚で、分かっているものと……」
向井さんじゃなかったら、ぶん殴っていたかもしれない。
(いや、先輩から逃げるために必死だったと思うべきか。いやいや、だったら姿が見えなくなった時に言ってくれよ。なんでここまで来ちゃったのよ……。ただでさえ、帰りが遅くなっているのに……。もはや、僕の家はどこ…… どこにあるの……)
僕は声にならないまでも、遠くなってしまった家路に想いを馳せて少し陰鬱になる。
すると、そんな僕を察してか、向井さんが僕の顔を覗き込んできた。
「ごめんね? 迷惑かけちゃって」
しかし、山の天気と男子高校生の心はうつろいやすいもので、その顔を見ると、次の瞬間には僕の心はジェットコースターのようにあらぬ方向に加速していた。
(――――ずっっっる! そうやって謝られたら、許さないわけにはいかないだろ!!)
長いまつげの下。きゅるきゅるの目に見つめられると、僕は思わず顔を逸らす。
そして、乱高下する心を鎮めるため後ずさると、それからスマートフォンを取り出し、向井さんの困り眉を安心させるように言った。
「……大丈夫だよ。僕が調べるから。えっと、住所分かる?」
たぶん、取り繕えてはいなかった。
そして、向井さんは僕の申し出に、申し訳なさそうな表情をして顔を伏せる。しかし、
「い、いいよ! ただでさえ、さっき助けてもらったんだし。もう迷惑かけるわけには、1人で帰れるから……」
と、向井さんは断った。
それは、僕にとって意外な答えだった。
向井さんならむしろ、その人懐っこさを利用して、甘えてきそうなものなのに。
だけど、そうは言われてもこのまま見送ってしまって、夜になっても帰ってきていないなんて騒ぎになったら、僕はきっと家でのんびりすることすら出来なくなってしまう。
だから、僕は少しだけ踏み込んでみることにした。
「じゃあ、試しに家の近くの建物を教えて。問題なさそうだったら僕も帰るから」
すると、僕の言葉に押し切られたのか、向井さんは小さな声で呟き始める。
「目立つ建物……、目立つ建物……。あ! えっとね、新山第3小学校の近く!」
僕は、向井さんに言われた場所を地図アプリに入力した。
(これは……。逆に凄いな……)
結果は奇しくも、いや、やはりというべきか、現在地から正反対を示す。
僕らは通っている基山高校の門を出てから、間違った道を綺麗に辿っていた。
「どう?」
「……見事に反対だね。送ってくよ。ついてきて」
僕はそう言って向井さんの前を行く。
向井さんは「待って!」と言った後、数秒黙って僕の背中を見送り、それから「……ありがと」と僕の横に並んだ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
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