第15話 体育祭、本番
体育祭当日。
校庭にはトラックをぐるっと囲うようにクラスごとに椅子が並べられている。
イベント日特有の独特な緊張感と高揚感に満ちる中、皆、頭に鉢巻をしたジャージ姿でまばらに広がり、開会式まで誰かと話したり準備運動をしたりと自由に過ごしていた。
そんな中、僕はぽつんと椅子に座って開会の時を待っていた。
だが、1人というわけでもなかった。
「あの、向井さん……?」
僕は顔を振り返らせて、背中に向かって声をかける。
視線の先には、椅子のないところにしゃがんで、背もたれの隙間からはみ出た僕のジャージの裾をいじいじとする向井さんがいた。
ソワソワソワソワソワ……。シワシワシワシワシワ……。
「その、そろそろ……」
昨日取り込んだばかりのはずの僕のジャージの裾には、すでにいくつもシワが作られていた。
シワはもう、背中の中段を超えてきてしまそうだ。
「……むう」
しかし、何度か声をかけても向井さんは生返事。
その手元は止まらず、僕は動けないでいた。
今日の向井さんはその態度だけでなく、黒髪に水色のインナーカラーをしたポニーテールもいつもとちょっと違って、ウェーブがかっていた。
さらに、おでこにはクラスカラーの青いハチマキも結ばれていた。
(どうしようかな……)
すると、そんな僕らの元に、砂利混じりに2つの足音が聞こえてくる。
「あらぁ、本当にナーバスになってんねぇ」
「……久しぶりだけど、やっぱり緊張しいなところは変わってないわね」
その正体は、大内さんとリッチーだった。
リッチーは大内さんを置いて、まるで月にいるかのように重力を感じさせないフワフワとした足取りで向井さんに近づいてくる。
「あっやなぁ〜」
そして、次の瞬間、リッチーのそのおっとりとした表情は強烈に歪ませられた。
「むへっ!? むへむへむへむへむへ……」
向井さんの両手が罠を仕掛けていたかのように勢いよく、僕の裾からリッチーの頬へと飛び移る。
と、向井さんの両手はリッチーの頬をガシッと挟み、すごい勢いでぐるぐると回し始めた。
僕はその光景を尻目に椅子の間から抜け出すと、大内さんに尋ねた。
「久しぶり、って言ってたけど、前にもこうだったことあるの?」
「本来、綾菜ってすごく緊張しいだから。……それに、今日はきっと【プラス思考】が欠けてるわね」
「欠けてるって、体質ってこと?」
「ええ。前にも1回あったのよ。その時は『落ち込みやすいだけ』程度だったけど、今回は綾菜自身の緊張体質とも相まって、自分の振り付けが大勢の前に出るだけでもまずいくらい張り詰めちゃってるわね」
大内さんはそう説明すると、それから声を顰めて、今度は向こうが僕に尋ねてきた。
「……で、どうすんのよ、あの作戦。私は、今の状態の綾菜なら反対よ。失敗する未来しか見えない」
しかし、その問いかけの答えを、僕は持ち合わせていなかった。だって……。
「そう、かもね。それでも、それは向井さんが決めることだから」
そう大内さんに言い残すと、僕は向井さんの前に立つ。
そして、告げた。
「――――向井さん。今日、みんなと一緒にダンスに参加してみない?」
向井さんの瞳孔が、驚きと困惑で白目を消し去ってしましそうなほど大きくなる。
それが向井さんにとって予期せぬ一言だったということは、傍目からも理解できた。
「参、加……? 私が? でも、私は応援合戦のメンバーじゃ……」
「予備登録してたのよ。綾菜が振り付けに参加するってなった後、こいつに頼まれてね。みんなにも話してある。私のパートをシンメで踊るだけだから、みんなに大きな変更はないって」
すると、僕の後ろから大内さんがやって来て、ため息混じりに補足する。
あまり気は進んでいなさそうだった。
「でも、急にそんな……!」
「急っても、1度踊ったことあるものをアレンジしただけだし、私たちのパートはほとんどそのままなんだから踊れるでしょ。それに振り付けたのはあなたよ、綾菜」
「……っ、でも」
逃げ道を潰されて、向井さんが苦悶の表情を見せる。
だけど、僕たちは別に向井さんを追い詰めたいわけじゃあない。
その想いを伝えるために向井さんと目線を合わせるように僕はしゃがむ。
あのダンスの練習の日、置いてけぼりになりそうだった男子生徒に、向井さんがそうしたように。
「本当に嫌なら、参加しなくてもいいよ。――――だけど、誰かを気遣ったり遠慮しているなら、今はやめて。いつでも明るくて、誰からも愛されて、誰にも迷惑かけなくて、弱さに寄り添えて、そんな『向井さんらしさ』が向井さん自身を押し込めてしまってるなら、今だけはそれを外してわがままに。――――『らしくない』本当の姿を僕に教えて」
「私の、本当の……」
向井さんはそう呟くと、顔を上げる。そして、泣きそうな目で、
「私は……!」
しかし、そう言いかけた時だった。
僕の背を押すように風が吹いて、向井さんの顔が陰る。
その風は、向井さんの言葉を押し返すように吹き抜けると、向井さんのつけていた青いハチマキを足元に落とした。
「私は……」
向井さんの黒目が一瞬、怯えたように収縮する。
――――“大丈夫だよ”
――――“仕方ないよ“
――――“気にしてないよ“
向井さんの心が、どんな声やどんなトラウマによって絶望に引き留められたのかは分からない。
だけど、その弱弱しい瞳を見れば、心を縛る鎖の前にもう言葉が意味を持たないことだけは分かった。
――――だから、僕は向井さんのハチマキを拾った。
そして、向井さんの後ろに回り込むと、
「向井さんが1人じゃ不安なら、僕の思いも込めるね」
と、それを蝶々結びにして、きゅっと結んだ。
「ほら、僕の力がこもってるから、いつもよりも固く結ばれた感じがするでしょ?」
すると、それを見ていたリッチーがトテトテと向井さんの前までやって来て、
「なら、うちもぉ〜」
と、向井さんの左手を握った。
「うちはねぇ、どっちを選んでもいいと思ってるよぉ〜。出ないなら出ないで、一緒に亜未を応援できるしぃ、出たら出たで2人とも応援するしぃ」
それに続いて、大内さんもやって来ると、向井さんの左手を握った。
「……私も。私は綾菜が傷つくのが嫌。だから、後悔しない方を選んで。それで、もし一緒に踊ることを選んでくれたのだとしたら嬉しいわ」
2人の微笑みを、向井さんは確かに受け取る。
2人の指先から伝わる温かさも。
「私、は……」
再び向井さんの言葉を風が攫おうとする。
しかし、もうハチマキは解けない。
雨の日の雑草のように力強く根を張って、上を向いている。
「私は、怖い。失敗も。――――けど……。……だけど、踊り、たい。私、踊りたい」
俯き顔のまま呟くと、向井さんはそれからもう一度空に向かって宣言するように顔を上げる。
「……迷惑かけちゃうかもしれないけど、でも、きっと、今しか手に入らないから。今、逃したらきっともうダメになっちゃうから。――――だから、今、挑戦したいの」
その答えを聞くと、2人は向井さんの腕をグッと引っ張り上げて、向井さんを自分の足で立たせた。
「そうと決まれば、さっさと合わせるわよ!」
嬉しそうに大内さんが言う。
その笑顔を見ると、向井さんも今までの憂鬱を振り払うようにニッと笑って、梅雨明けを告げる風の中を駆けていった。
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