第9話 私が選ぶ約束
昼食の支度を終えてから、私はもう一度、卓を見た。
野菜のスープと、鶏肉の冷製。
薄く切ったパンを籠に入れ、窓際の黄色い花を少しだけ卓へ分けた。
足りないだろうか。
もう一皿、何か用意したほうがよいかもしれない。
台所へ戻りかけて、私は足を止めた。
今日は私も座って食べたい。
料理を運ぶために、何度も席を外したいわけではなかった。
そのとき、扉が叩かれた。
玄関へ向かい、鏡の前で一度だけ髪を確かめる。
用事で人を迎えるときより、ずっと落ち着かなかった。
「お招きくださって、ありがとうございます」
クレーメンス様は、小さな菓子の箱を持っていた。
「昼食の後にと思ったのですが、お好きかどうか分からなくて。檸檬の焼き菓子です」
「好きです」
すぐに答えると、彼の顔がほころんだ。
「よかった」
私も笑って、箱を受け取った。
好きなものを聞かれたら、好きだと答えればよい。
近頃、そんな簡単なことが、嬉しかった。
*
「この羽の色ですね」
食後のお茶を前に、クレーメンス様が手巾を広げた。
片隅に刺した鳥を、明るいほうへ傾けて見ている。
「青が強すぎるかもしれません」
「私は、あの日もこれくらい青く見えました」
彼は手巾をもう一度眺めた。
「覚えていらしたのですね。飛んだのは、一瞬だったのに」
「帰ってからも、何度か思い出しましたので」
答えて、頬が熱くなった。
思い出したのは鳥だけではないと、自分には分かっている。
「私に、いただいても?」
私は頷いた。
「そのつもりで、仕上げました」
クレーメンス様は丁寧に畳み、胸元へしまった。
私はその仕草を、つい目で追った。
「大切にします」
胸が、少し苦しいくらいに温かくなった。
贈り物を用意するのは慣れているはずなのに、次に何を話せばよいか分からなくなる。
彼も少しの間、黙っていた。
それから、卓の向こうで姿勢を正した。
「オルネラ様。これからも、こうしてお会いしたいと思っています」
「はい。私も」
「妹の相談に付き添うのでも、知人としてお茶をいただくのでもなく」
カップを持つ私の指に、力が入った。
「あなたを、お慕いしています」
彼は目をそらさなかった。
聞き間違える余地のない言葉だった。
それでも、すぐには返事ができない。
「……私も、お会いする日が楽しみでした」
どうにか言うと、彼が小さく息をついた。
「では、またお誘いしてもよいですか」
「はい。私からも」
彼が笑ったので、私も笑えた。
帰り際、玄関で見送ろうとすると、クレーメンス様が足を止めた。
「手を、お借りしても?」
差し出された手へ、自分の手を重ねた。
手袋越しに、そっと握られる。
「今日は、ありがとうございました」
ただそれだけの挨拶に、私はもう一度、来てくださって嬉しかったと伝えた。
*
それから、二か月ほどが過ぎた。
庭園を歩き、刺繍の展示へ行き、休日には昼食を一緒に取った。
天気が悪い日は、私の家で本を読んだ。彼の好きな旅の記録も借りたが、道の説明ばかりが続く巻には少し眠くなった。そう言うと、次は食事の記録が多い巻を持ってきてくれた。
同じものを同じくらい好きでなくても、話すことは増えていった。
彼の仕事の都合で、会う日を変えたこともある。
私が疲れて、早めに帰りたいと伝えたこともあった。
そのたびに次の約束ができた。
断った一度で、それまでの時間が消えてしまうわけではなかった。
彼が仕事で落ち込んだ日に、ただ話を聞いたこともある。途中で解決の手立てを探しかけると、彼は首を振った。
「明日、自分で話してきます。今日は、あなたに聞いてほしかっただけです」
私は隣へ座り直した。
翌日、彼が自分で片づけた話を聞いたときには、二人で少しよいお菓子を買った。支えたいと思う気持ちを、もう怖がらずに済んだ。
相談の仕事も、少しずつ増えていた。
一日にお会いする人数を決め、返書を整える日は別に取る。
予定を詰めすぎて困った経験を、ようやく仕事の仕方に反映できるようになった。
そんな午後、クレーメンス様が、小さな紙を広げた。
「私が借りている家の近くに、空いている部屋があります。通りに面していて、相談のお客様にも分かりやすいかと」
簡単な間取りが描いてあった。
応接に使える部屋と、書類を置ける小部屋。
「お仕事を家から分ければ、休みやすくなるのではと思いまして。貸せるかどうか、聞いてみたのです」
私は紙を見つめた。
親切で考えてくれたことは分かった。
通りはよく知っている。人も多く、便利な場所だ。
彼の家にも近い。
けれど、朝、この家を出て、別の場所で相談を受ける自分を思い浮かべると、頷けなかった。
「ありがとうございます。でも……借りるつもりはありません」
クレーメンス様が顔を上げた。
私は紙へ置いた指を引いた。
「いまは、この家で続けたいです。大きくするより、私一人でできる範囲を決めたいと思っています」
彼は間取りへ目を戻した。
少し黙ったので、胸が強張った。
せっかく調べてくださったのに。
一度くらい見に行けばよいのではないか。
そう言い足しかけたとき、彼が紙を畳んだ。
「先に、どうしたいかお聞きするべきでした」
私は彼を見た。
「まだ仕事場を探しているとも伺っていないのに、話を進めてしまいましたね。貸し手には、私からお断りします」
「よろしいのですか」
「はい。私が尋ねたことですから」
紙は彼の上着へ戻った。
それで、話は終わった。
お茶を勧める声も、こちらを見る表情も、冷たくはならなかった。
「この家は、お母様から受け継がれたのでしたね」
「はい。ただ、それだけではなくて」
私は窓際へ目を向けた。
緑色の椅子と、刺しかけの布を入れている裁縫籠が見える。
「ここで暮らす支度をして、やっと、自分の生活になった気がするのです」
彼は頷いて聞いていた。
「家の中で、相談の部屋と私の部屋を分けようと思っています。お客様には玄関側のお部屋へ入っていただいて、こちらは休む場所に」
「それなら、庭を眺める時間も残せますね」
私は笑った。
「そこは、残したいです」
*
お茶を飲み終えた後も、私はさっきの会話を考えていた。
嫌だと言った。
彼は聞いてくれた。
嬉しいのに、その先のことを考えると、まだ怖さがあった。
「クレーメンス様」
呼ぶと、彼が顔を向ける。
「もし、私たちが……この先、一緒に暮らすことになったとして」
自分で言い出したのに、頬が熱くなった。
けれど、今度こそ途中で引っ込めたくなかった。
「私は、また何でも引き受けてしまうかもしれません。嫌だと思っても、それくらいできるはずだと考えて」
彼はカップを置いた。
「いまは、私の家で、私の予定を決められます。でも、妻になったら、それを変えなくてはいけないと思ってしまいそうで」
私は膝の上で指を組んだ。
「あなたと過ごしたいです。それでも、結婚を考えると、少し怖いのです」
クレーメンス様は、すぐに大丈夫だとは言わなかった。
「私が、気づかずに頼みすぎることもあると思います。今日も、先回りしてしまいました」
そう言ってから、私を見た。
「ですから、暮らし方を決めるときに、曖昧にしたくありません。私の家族の用事を、あなたがすべて引き受けることにはしない。仕事を休む日も、あなたが決める」
「家のことは……」
「いま私が自分でしていることを、結婚したからといって全部やめるつもりはありません」
彼は、少し考える顔になった。
「料理は、あまり上手ではありませんが。朝食の支度と買い物くらいならできます」
「私も、毎日立派な食事を作れるわけではありません」
「では、忙しい日は買って帰りましょう」
あまりに普通の調子だったので、私は笑ってしまった。
食事が整わない日も、この人は私の向かいへ座るつもりなのだ。
「仕事で疲れた日に、私が静かにしていたら?」
「お茶を飲むか、先に休むか、聞きます」
「ただ、隣にいてほしいかもしれません」
クレーメンス様の表情が柔らかくなった。
「それは、ぜひ言ってください」
胸の奥に、温かなものが広がった。
私は、この人に何かをしてあげたい。
でも、何もできない日にも会いたい。
初めて、そう思えた。
クレーメンス様が、私の手元へ視線を落とした。
「隣へ行ってもよいですか」
頷くと、彼は椅子を移した。
近くなった肩に、少し緊張する。
彼が差し出した手を、今度は私から取った。
「私も、あなたと暮らしたいです」
彼は、私の手を包んだ。
「予定どおりにいかなかった話も、今日見た鳥の話も、一緒にできる家にしたい」
私は顔を上げた。
「オルネラ様。私と、結婚してください」
指先に、彼の温かさがあった。
「お返事は、急がなくてかまいません。今日の話だけで、すべての不安がなくなるとは思っていませんから」
私は首を横に振りかけ、止めた。
不安がないとは、まだ言えない。
けれど、そのために喜びまで隠す必要はなかった。
「嬉しいです」
先に、その気持ちを伝えた。
クレーメンス様が、ほっとしたように笑う。
私は握った手を離さず、彼の顔を見ていた。
「少しだけ、待ってください。ちゃんとお返事をしたいので」
彼が頷く。
私は一度、深く息を吸った。
私が、この人とどう生きたいか。
その答えを、自分の言葉で伝えたかった。




