第8話 謝罪は、帰る理由になりません
『君と、もう一度やり直したい』
その下には、一度会って話したいと書かれていた。
いまの暮らしを邪魔するつもりはない。都合のよい場所と時刻を知らせてほしい、と。
妻だった頃なら、こちらの予定を尋ねられただけで、嬉しくなったかもしれない。
今は、どう返事をすれば話を終えられるか考えていた。
会わずに断ることもできる。
そのまま封筒へ戻しかけ、私は手を止めた。
離縁状を届け出た。屋敷も出た。頼まれた用事も断った。
それでも、あの人は戻ってくる私を待っている。
次の妻が見つからなかったからといって、前の妻へ戻れるわけではない。
今度こそ、それを私の言葉で伝えたかった。
私は、王都の茶店で会う日時を書いた。
話すのは一度だけ。一刻ほどで席を立つことも添えた。
屋敷へは行かない。
自分の家にも招かない。
返事を書き終えた後、机の上に残っていたクレーメンス様への手紙を手に取った。
鳥の刺繍を見ていただきたいと書いた、短い便りだ。
こちらまで、送るのを待つ必要はなかった。
私は二通を別々に封じ、使者へ渡した。
*
約束の茶店には、昼を過ぎても客がいた。
私は窓に近い席へ案内してもらい、自分のお茶を頼んだ。
ほどなく現れたベルトラム様は、いつもどおり身なりを整えていた。
けれど、椅子へ座る前に私を見て、挨拶の言葉を探した。
「来てくれて、ありがとう」
私は頷いた。
「お手紙を拝見しました」
「ああ」
彼は腰を下ろし、卓の端へ両手を置いた。
しばらく、その指先を見つめている。
「君に、ひどいことを頼んだ」
私は黙って待った。
「次の妻を探せなどと、言うべきではなかった。離縁した後も世話を続けてほしいというのも、勝手な話だった」
思っていたより、はっきりした言葉だった。
それだけに、胸が少し痛んだ。
分かっていただけることだったのだ。
何度言っても伝わらないのではなく、あの人が考えようとしていなかっただけで。
「ご自身で引き受けてみて、お困りになりましたか」
ベルトラム様は目を伏せた。
「困った。君が細かく確かめていたことにも、全部、理由があった」
彼は、叔母様への約束を勝手に変えたことを話した。
人を雇う費用を惜しんで、結局は出費も手間も増やしたこと。
断られたのに、皆の前で私が協力すると言ったこと。
「君なら最後は助けると思っていた」
聞き慣れた言葉だった。
けれど、今度の彼は、その後を続けた。
「私がそうしてほしかっただけなのに」
お茶が運ばれてきた。
店の者が離れるまで、二人とも口を閉じる。
向かいに座るこの人の好みは、まだ覚えていた。
濃いお茶には、必ず砂糖を二つ入れる。
手が動きかけて、私は自分のカップを持った。
ベルトラム様は自分で砂糖壺を取り、二つ落とした。
「これからは、手配を任せる人を雇う。君に何でも頼むことはしない」
「そうなさるのがよいと思います」
「だから、戻ってきてほしい」
私はカップを受け皿へ戻した。
「戻りません」
ベルトラム様の手が止まった。
「君に働いてもらいたいから、言っているんじゃない」
私は、顔を上げた彼を見た。
「では、どうしてですか」
彼はすぐには答えなかった。
窓の外へ目を向け、それからもう一度私を見た。
「家に帰って、話そうと思うんだ。その日に会った人のことや、聞いた話を。君なら知っているだろうと思って、食堂まで行って……いないことを思い出す」
彼の声が少し低くなった。
「用事だけではなかったんだと、いなくなってから分かった。あの席に、君がいると思っていた」
窓から入る光が、卓の白い布へ落ちていた。
私は布の縫い目を見ながら、息を整えた。
「私は、そこにおりました」
五年間。
向かいに座って、彼の話を聞いていた。
「あなたとお話ししたくて、夕食を待っていた日もありました」
「……ああ」
「用事を頼まれると、また話せると思って、嬉しかったこともあります」
それを口にするのは、少し恥ずかしかった。
けれど、最後くらい、私が何を望んでいたか知ってほしかった。
「ベルトラム様。私は、あなたを好きでした」
彼が顔を上げた。
「だから、頼まれれば何とかしたかったのです。生まれつき人の世話が好きで、いくらでもできたのではありません」
喉が詰まり、私は一度言葉を切った。
「妻をやめても同じようにできるとお考えになったとき、私があなたを好きだったことまで、いらないと言われた気がしました」
ベルトラム様は何も言わなかった。
私は手巾を出し、目元を押さえた。
泣けば、まだ戻りたいのだと思われるだろうか。
そう心配してから、首を小さく振った。
悲しかったことは、悲しいままでいい。
涙が出ることと、この人の妻に戻ることは同じではない。
「すまなかった」
彼が頭を下げた。
「私は、君がそこまで考えていたと……」
言いかけて、口を閉じる。
知らなかったと言い終えなかったことだけは、分かった。
「今度は、大切にする。君の話も聞く。時間をかけて、証明したい」
私は手巾を畳んだ。
「お気持ちは伺いました。それでも、もう一度結婚するつもりはありません」
「すぐに答えを出さなくてもいい。少し待ってくれないか」
その言葉に、私はようやく、迷わず顔を上げられた。
「もう、あなたを待つ約束はいたしません」
彼は息を止めたようだった。
私はずっと、いつか分かってくれると思っていた。
もう少しうまく伝えれば。もう少し家が落ち着けば。
次の食事では、次の休日には。
そうやって待つことを、やめたのだ。
「あなたが変わろうとなさるなら、それはよいことだと思います。でも、そのために私が妻へ戻る必要はありません」
ベルトラム様は、冷めていくお茶を見つめた。
「……もう、遅いということか」
私は頷いた。
「はい」
短い返事の後に、沈黙が落ちた。
隣の卓で茶器の触れ合う音がした。
私は、ここへ来る前に心配していた。
謝られたら、あの頃の優しかった場面を思い出して、また頷いてしまうのではないかと。
思い出は消えていない。
初めての夜会の帰りに、肩掛けを貸してくれたことも覚えている。
それでも、答えは変わらなかった。
「今後、復縁のお手紙はお送りにならないでください。家の用事についても、これまでお伝えしたとおりです」
ベルトラム様はゆっくりと私を見た。
私は返事を待った。
今度は、彼が困らない答えを代わりに言わなかった。
「……分かった」
それを聞いて、私は立ち上がった。
「お話しくださって、ありがとうございました。これで失礼いたします」
彼も腰を浮かせたが、私へ手を伸ばしはしなかった。
「オルネラ」
足を止める。
「五年間、ありがとう」
胸が痛んだ。
言ってもらえたことは、嬉しかった。けれど、そのために五年間が辛くなかったことにはならない。
私は、自分で立った席へ戻らなかった。
「さようなら、ベルトラム様」
私は自分のお茶代を払い、店を出た。
*
外の風に当たると、目元が少し冷たかった。
約束の一刻には、まだ間があった。
話すだけ話しても、私たちの五年間を最初から確かめ直す必要はなかったのだ。
通りの端に立ち、私は息を吐いた。
謝ってもらえた。
礼も言ってもらえた。
それを受け取ったうえで、帰らないと決められた。
馬車を拾う前に、店先へ並べられた花が目に入った。
淡い黄色の花を一束、買った。
誰へ贈るかは聞かれなかった。
私は自分の家へ持ち帰った。
欠けた花瓶の代わりに、水差しへ生ける。
窓際へ置くと、いつもの部屋が少し明るくなった。
椅子へ座り、花を眺める。
クレーメンス様に会いたかった。
元夫へ何と言えばよいか、相談したいのではない。
今日のことを褒めてほしいのでもなかった。
一緒にお茶を飲んで、話したかった。
庭園で見た鳥のこと。新しく刺した羽の色。私が選んだ、この黄色い花のこと。
私は便箋を出した。
『先日は、お誘いくださってありがとうございました。今度は、私からお願いがございます』
そこまで書いて、自然に笑みがこぼれた。
頼み事の手紙なら、何通も書いてきた。
けれど、こんなふうに返事を待ち遠しく思うことは、久しぶりだった。
『よろしければ、今度のお休みに、私の家で昼食をご一緒しませんか』
仕事の相談でも、お礼の代わりでもない。
私は、その下にもう一行を書いた。
『あなたに、お会いしたいです』




