第10話 私の結婚相手は、私が選びます
握っている手は、温かかった。
クレーメンス様は、私の返事を待っていた。
私が言葉を選ぶ間、彼は何も付け加えずにいてくれた。
私は、この人と食卓を囲む朝を思い浮かべた。
楽しい話ばかりできるわけではないだろう。
疲れる日も、言葉が足りない日もある。
今日のように、よかれと思ったことが、相手の望みと違うことも。
それでも、違うと言った後も、一緒にお茶を飲めた。
私の返事を聞いて、もう一度考えてくれる人だった。
「私も、あなたと結婚したいです」
クレーメンス様の手に、少し力がこもった。
「本当に?」
「はい」
私は、今度は迷わず頷いた。
「一緒に暮らしてください。この家で」
彼は窓際へ目を向け、それから私を見た。
「私の椅子も、置いていただけますか」
思いがけない言葉に、笑ってしまった。
「どのような椅子ですか」
「座り心地のよい、少し古い椅子です。あなたの椅子の隣に置けたらと思って」
「では、場所を空けておきます」
クレーメンス様が笑った。
初めてお会いしたときより、ずっと幼く見える笑顔だった。
嬉しいのは、私だけではない。
そう分かることが、また嬉しかった。
彼が身を寄せ、私の頬へ手を添えた。
私は少しだけ顔を上げた。
唇が触れたのは、ほんの短い間だった。
離れた後も、互いに手を放せなかった。
「ありがとうございます」
彼が囁いたので、私は首を振った。
「私が、そうしたいのです」
声にすると、胸の奥まで温かくなった。
*
結婚の支度は、二人で進めた。
式に招く人数を決め、必要な費用を確かめる。
私は衣装と花を選び、クレーメンス様は料理と馬車を手配した。
途中で、彼の仕事が立て込んだことがあった。
料理人への返事がまだだと聞き、私はいつものように便箋を出しかけた。
彼は私の机の前で、申し訳なさそうに言った。
「明日の朝、私から届けます。待っていただけることは確認しました」
私は便箋から手を引いた。
翌日の夕方には、選んだ献立が届いた。
気づいた私が引き取らなくても、終わる用事がある。
そうして空いた時間に、私は自分のドレスへ合わせる飾りを選んだ。
派手すぎないもの。誰からも咎められないもの。
そんなふうに手を伸ばしかけ、途中で、淡い青のリボンへ目が戻る。
これが好きだった。
私はそれを、ドレスの上へ置いた。
*
玄関側の部屋を相談室にしたのは、式のひと月前だった。
机と椅子を入れ、書類をしまう棚へ鍵をつける。
来客が通る場所と、私たちがくつろぐ部屋の間には、扉がある。
相談を終えてそこを閉めれば、仕事は終わり。
まだ、ときどき忘れそうになるけれど、区切りが目に見えるだけでも違った。
相談者は、紹介で少しずつ訪ねてきた。
すべての縁談がまとまるわけではない。
断る返事を整えることもあれば、二人で確かめるべきことを紙へまとめることもある。
帰るときに、自分で話してみますと言っていただけると、私は嬉しかった。
収入だけで屋敷を構えられるような仕事ではない。
けれど、日々の食費や薪代を、自分で得たお金から払えるようになった。
母から継いだお金を、ただ減らしていく不安も薄れていた。
結婚に合わせて、相談を休む日を決めた。
再開の日を書いた案内を出すと、待ちますという返事が届いた。
休むと伝えても、仕事は失われなかった。
その頃、クレーメンス様の本と椅子が運ばれてきた。
王都の役所へ通う道は少し変わるが、歩ける距離だと彼は言った。
棚のどこを使うか相談し、彼の本の隣へ私の本を並べる。
窓際には椅子が二つになった。
私の家に、彼の場所ができていく。
そのたびに、二人で暮らすのだと実感した。
*
式の朝、鏡に映った私は、少し緊張した顔をしていた。
白いドレスに、淡い青のリボン。
胸元の刺繍は、自分で選んだ小さな花だった。
「とてもお似合いです」
イェッタ様が、髪飾りの位置を直してくださった。
「兄様、今朝から何度も時刻を確かめているんですよ」
「何か、手配で困ったことが?」
尋ねると、イェッタ様は笑った。
「早くお会いしたいだけです。支度は全部、済んでいます」
私も笑って、膝の上に置いていた手をほどいた。
ディートラ叔母様は、扉のそばで私を見ていた。
近づくと、両手を取ってくださる。
「今日は、あなたがお祝いされる日よ」
胸がいっぱいになった。
元夫からの手紙は、あれきり届いていない。
親族の用件は彼自身が返事をするようになったと、少し前に叔母様から伺った。
もう、私を通して何かが決まることはない。
叔母様は今日、その家の用事を頼みに来たのではなかった。
「お幸せに、オルネラ」
私は頷き、その手を握り返した。
*
小さな式だった。
両家の近しい人たちに見守られ、私たちは結婚の書面に署名した。
クレーメンス様は先に自分の名前を書き、ペンを渡してくれた。
私が書いている間、彼は隣にいた。
最後の文字を書き終え、顔を上げると、すぐに目が合った。
礼服の胸元から、手巾の端が見えている。灰色の羽に、一筋の青。
「今日も、お持ちくださったのですね」
「今日こそ、持っていたかったんです」
胸がいっぱいになって、私は彼の手を握った。
「よろしくお願いします」
彼が小さく言った。
「こちらこそ」
私も答え、握っていた手にそっと力を込めた。
会食の席で、料理が運ばれてくる。
私は客の皿を確かめかけたが、自分の前にも料理が置かれ、椅子へ座り直した。
隣のクレーメンス様が、私を見て微笑む。
「温かいうちに、どうぞ」
一口食べると、緊張で忘れていた空腹に気づいた。
おいしいと伝えると、彼も嬉しそうに同じ皿へ手を伸ばした。
誰かの席が足りないかと立ち歩くことも、台所へ確認に行くこともなかった。
私たちは、自分たちの結婚を祝う席に、最後まで座っていた。
帰る前、イェッタ様が兄へ何か囁いた。
クレーメンス様が少し困った顔をして、それから私を見た。
「何のお話ですか」
「あなたの前で、妹の話を長々と始めないように、と」
私は思わず笑った。
初めての相談の日を、彼女も覚えているのだ。
「私も、遠慮せず申し上げます」
「はい。お願いします」
彼が真面目に頷いたので、三人で笑った。
*
結婚して最初の休日、パンの焼ける匂いで目を覚ました。
階下へ下りると、夫が皿を並べていた。
窓から入る朝の光が、卓に落ちている。
「おはようございます」
「おはよう。よく眠れましたか」
私は頷き、戸棚からカップを二つ出した。
彼が皿を置く間に、お茶を注ぐ。
パンは、薄いものと厚いものが別々に並べられていた。
「どちらが好きか、まだ聞いていませんでしたね」
「薄いほうが好きです。よく焼けたところが」
「では、こちらを。私は厚いほうが好きなので、ちょうどよかった」
私は、欲しかった一枚へ手を伸ばした。
彼も、自分の皿へ厚い一枚を取った。
夫が蜂蜜の瓶を開け、私の手が届く場所へ置く。
食卓の向こうで、彼が口を開いた。
「今日は、何をしたいですか」
私は窓の外を見た。
よく晴れている。庭の枝先には、小さな鳥が一羽止まっていた。
相談室の扉は閉まっている。
今日の休みは、二人で決めてあった。
「午後は、庭園へ行きたいです。帰りに、糸も選びたいです」
「もちろん。私も本屋へ寄りたい」
「では、両方に」
彼が頷いた。
私はお茶を飲んでから、もう一つ、希望を口にした。
「でも、今はもう少し、ゆっくりしたいです」
クレーメンス様が、食べかけのパンを皿へ置いた。
「私もです」
その返事が嬉しくて、私は笑った。
朝食を終えた後、お茶を足して窓際へ移った。
緑色の椅子へ腰を下ろすと、隣の椅子にも彼が座る。
少しだけ手を伸ばした。
気づいた彼が、自分の手を重ねてくれた。
「クレーメンス」
様をつけずに呼ぶと、彼がこちらを向いた。
「あなたと結婚して、よかった」
彼は少し驚いた顔をして、それから私の手を握り直した。
「私もです、オルネラ」
頬へ口づけられ、私は笑った。
何かを頼まれるのを待たず、ただ隣で笑っていられる朝だった。
「もう少し、このままで」
「ええ。お茶がなくなったら、また淹れましょう」
私は彼の肩へ、そっと頭を寄せた。
飲み終えたら席を立たなければ、とは思わなかった。
次に誰かを幸せにするため、何をすればよいかも考えなかった。
私も幸せでいてよいのだと、ようやく分かった。
窓の外で、小鳥が一羽、枝から飛び立った。
私はその行方を、自分で選んだ人と、並んで見送った。




