第5話 私の返事が、先に売られていた
『伯爵からは、離縁後もオルネラ様がお引き受けくださると伺っております』
私はその一文の下に指を置いた。
読み間違いではない。
離縁状へ署名し、荷物を運び出した後も、あの人は私が働くと言っている。
手紙の続きには、何を、どの程度お願いすることになるのか、一度直接確かめたいとあった。
私は机の引き出しを開けた。
離縁状の控えは、すぐに見つかった。
協力を終了すること。
私が退去すること。
その下には、ベルトラム様本人の署名がある。
紙を取り出しながら、少し前まで一緒に使っていた食卓を思い出した。
あの人の向かいに座る女性が、決まりかけている。
それはまだ、平気で考えられることではなかった。
けれど、黙っているわけにはいかない。
この手紙に返事をしなければ、私が承知していたことにされてしまう。
私はフェンヤ様へ、協力の約束はしていないと書いた。
そのうえで、お会いできる日時を二つ添えた。
ベルトラム様にも、別の手紙を出した。
『フェンヤ様から確認のお便りをいただきました。私が今後も親族対応を引き受けるとのご説明は、訂正してください』
ペンを置き、読み返す。
これでよい。
彼が機嫌を損ねない言い方を探して、何枚も書き直すのはやめた。
*
二日後に訪ねてきたフェンヤ様は、濃い青のドレスを着た、落ち着いた方だった。
私とそう歳は違わないように見える。
「お返事をありがとうございました。突然、このような確認をお願いして申し訳ありません」
椅子に腰を下ろす前に、そう言われた。
「お確かめくださって、助かりました。私は、そのように説明されていることを存じませんでしたので」
お茶を注ぐと、彼女は礼を言い、小さな手提げから手紙を出した。
「伯爵からは、ご親族の皆様もオルネラ様を頼りになさっているので、今後もお付き合いは続くと」
「個人的にお会いする方はおります。ただ、伯爵家の用事をお引き受けすることとは別です」
私は離縁状の控えを開いた。
財産について記した部分は折り、協力終了の項目と署名が見えるよう、卓へ置く。
「こちらが、取り決めた内容です」
フェンヤ様は身を寄せて読み、しばらく黙った。
「伯爵も、同意していらっしゃるのですね」
「はい。お話ししたうえで、署名をいただいております」
彼女の指が、手紙の端を押さえた。
「では、私が伺った条件は、成り立たないのですね」
私は頷いた。
「この用件を、オルネラ様が今後お引き受けになるおつもりは……」
「ございません」
言ってから、強すぎたかと思った。
けれど、フェンヤ様は不快そうにはしなかった。
「分かりました。はっきり伺えてよかったです」
彼女は手紙を畳んだ。
「私も、結婚すれば何もしなくてよいとは思っておりません。家の支出や使用人のことは、引き受けるつもりです。ただ、親族のご用事まで一度にすべて覚えるのは難しいと申し上げたのです」
そこで、私の名前が出たのだろう。
「慣れた方がいらっしゃるから心配ないと、伯爵はおっしゃいました。私は、ご本人にもお願いしてあるのだと思って……都合のよいお話を、信じてしまいました」
彼女は一度言葉を切り、畳んだ手紙へ目を落とした。
「以前から、ご親族の方々が伯爵を褒めていらしたのです。集まるたび、誰にも不自由がないよう気を配ってくれると。私も、そういう家なら安心して暮らせると思いました」
私が予定を合わせ、欠席の事情を代わりに説明してきた集まりだった。
お礼の手紙が夫へ届くことも、覚えている。
フェンヤ様は俯いた。
私を責めるために来た方ではなかった。
自分が承諾しかけた結婚の中身を、確かめようとしているのだ。
「お返事をなさる前に、確認できてよかったと思います」
自分の口からその言葉が出たことに、少し驚いた。
新しい妻になるかもしれない人へ、好意を持つ必要はない。
けれど、彼女が困れば私の傷が浅くなるわけでもなかった。
「伯爵とは、何が原因でお別れに?」
フェンヤ様は尋ねかけ、すぐに首を振った。
「失礼いたしました。立ち入ったことを」
私は膝に置いた手をほどいた。
「別の方と結婚したいとおっしゃったので、離縁いたしました。それ以上のことを、私から申し上げるのは控えます」
夫だった人の言葉なら、いくつも思い出せた。
けれど、それを彼女の前に並べて、結婚をやめさせたいのではない。
「ただ、私の協力については、今後もお約束できません」
「はい。伯爵へ、あらためて確認いたします」
彼女は控えを私へ返した。
「オルネラ様がお断りになったから、というお話にはいたしません。まだ承諾されていないことを、決まった条件として説明されたのが問題ですから」
胸に入っていた力が、少し抜けた。
帰りの玄関で、フェンヤ様は深く礼をした。
私は彼女の馬車を見送り、扉を閉めた。
静かな家に戻る。
誰かの結婚を壊したような罪悪感が、まったくないわけではなかった。
それでも、自分のしなかった約束を訂正しただけだと、声に出さず確かめた。
*
イェッタ様とお茶を飲む約束は、その翌日の午後だった。
彼女は焼き菓子の箱を抱えて訪ねてきた。
迎えに来る兄にも、帰り際に少しお茶をいただいてよいかと尋ねる。
「もちろんです」
答えてから、私は戸棚のカップを数えた。
足りると分かっているのに、もう一度確かめてしまう。
イェッタ様は、近く開かれる刺繍の展示について楽しそうに話した。
縁談が決まるかもしれないと思い、自分の予定を入れずにいたのだという。
私も針仕事は好きだった。
ただ、家の紋章を縫い足すことばかりになって、自分のために何か作ったのはいつだったか思い出せない。
柄の話で笑っているうちに、扉が叩かれた。
迎えに来たクレーメンス様へ、私はお茶を勧めた。
彼は腰を下ろすと、妹の話を聞き、展示の日程を尋ねた。
そのあとで、私へ目を向ける。
「オルネラ様も、針仕事をなさるのですね」
「最近は、ほとんどできておりませんが」
「小鳥を刺すのがお好きなんですって」
イェッタ様がそう添えた。
私が話したことを、覚えていてくれたのが嬉しかった。
「小鳥ですか。王都の庭園なら、いまの時期によく見かけます」
クレーメンス様が少し考え、それから私を見た。
「よろしければ、ご一緒に歩きませんか」
私はカップから手を離した。
「庭園を、ですか」
「はい」
イェッタ様を見ると、彼女は菓子を選ぶ手を止めて、兄を見ていた。
「……お二人と?」
尋ねると、クレーメンス様はわずかに姿勢を正した。
「今回は、私からのお誘いです。オルネラ様と、もう少しお話ししたいと思いまして」
頬が熱くなった。
手元へ目を落としたくなったが、彼が返事を待っているのが分かった。
「妹の件で、お礼をしなければとお考えでしたら……」
「そのお礼は、先日申し上げました」
彼は静かに言った。
「私自身が、あなたとお会いしたいのです。ご迷惑でなければ」
胸の奥が、落ち着かなくなった。
私は、彼の役に立つ用事を探していた。
相談を聞くのでも、手紙を直すのでもなく、ただ一緒に歩く。
そんな時間を、向こうも望んでいる。
「私も……お話ししたいです」
小さな声になったが、言い直さなかった。
クレーメンス様が笑った。
「では、ご都合のよい日を教えてください」
*
「前の奥様には、お願いしていないと伺いました」
同じ頃、フェンヤの家を訪ねていたベルトラムは、その言葉にカップを置いた。
「頼んではあるよ。ただ、今は少し意地を張っていてね」
「協力を終えるという離縁状を拝見しました。署名もございました」
ベルトラムは眉を動かした。
オルネラから訂正を求める手紙は届いていた。だが、直接書面まで見せるとは思わなかった。
「義務としては、ということだ。あれほど親族と親しくしていたんだから、何もかも放っておける人ではない」
「ご本人は、お引き受けにならないとおっしゃいました」
フェンヤの声は変わらなかった。
「私は、そのお返事を前提に伺います。今後、親族の皆様への対応は、どなたがなさるのですか」
先日の宿泊費が頭をよぎった。
ただ泊まってもらうだけでも、確かめることはいくつもあった。
人を増やすか、役割を分ければよい。だが、そう説明すれば、前妻の協力を当てにしていたと認めることになる。
これ以上、頼りない男だと思われたくなかった。
ベルトラムは背筋を伸ばした。
「私が引き受ける。君に負担はかけないよ」
「オルネラ様の協力がなくても、ということでよろしいですね」
「もちろんだ。私の親族のことだからね」
「では、前の奥様が協力なさるというご説明は、ご親族にも訂正してください。そのうえで、今おっしゃった役割を婚約の取り決めにも残していただけますか」
フェンヤは、すぐには頷かなかった。
「ここが曖昧なままでは、お受けできません」
「分かった。そうしよう」
ベルトラムは、了承の返事をした。
フェンヤがもう一度考えると言うのを聞き、まだ縁談は終わっていないと安堵した。
帰宅すると、ベルトラムは書斎の机へ向かった。
まず、何から手をつければよいかを確認しなければならない。
引き出しから取り出したのは、前妻の住所を書いた紙だった。




