第4話 断るための落ち度はいらない
「相手の方に悪いところがなくても、結婚したくないと言ってよいのでしょうか」
イェッタ様の問いに、私は頷きかけた。
それなのに口から出そうになったのは、先方を納得させる理由を一緒に考えましょう、という言葉だった。
揉めずに済む理由。
誰にも責められない断り方。
それを用意できなければ、この方は結婚しなくてはならないのだろうか。
私は帳面の白い頁に目を落とした。
まだ何も聞いていないのに、彼女の希望より、相手へどう説明するかを先に考えていた。
「言ってよいと、私は思います」
顔を上げ、今度こそ答えた。
「ただ、すでに交わしたお約束があれば、きちんとお返しする必要があります。婚約の書面などはございますか」
「いいえ。まだお返事を待っていただいています」
「では、結婚をお引き受けする前のお話ですね」
イェッタ様が小さく頷く。
「よろしければ、その方と過ごしたときのことを教えていただけますか。欠点を挙げるのではなく、イェッタ様がどう感じたかを」
彼女は、兄のほうを見た。
クレーメンス様は黙って待っていた。
「三度、お会いしました。いつも贈り物をくださって、お話もしてくださいました。でも……次にお会いする日が決まると、その日が来なければいいと思ってしまうんです」
声が次第に小さくなった。
「何か、怖い思いをなさいましたか」
「いいえ。優しい方です。ただ、二人でいると、早く帰りたくて。結婚すれば慣れると皆様がおっしゃるので、私の考えが足りないのかと」
私は、先方の人柄について書きかけていたペンを止めた。
慣れるまで。
その言葉に、どれほど長い時間を差し出すことになるのか、約束する人はいない。
「相手の方を悪くおっしゃる必要はありません。けれど、ご自分の気持ちまで、悪いものとして扱わなくてよいのではないでしょうか」
イェッタ様の指が、膝の上でほどけた。
隣で、クレーメンス様が息を吐く。
「会う日を増やせば、親しくなれると思っていた」
私への説明ではなかった。
彼は妹のほうへ椅子を向けた。
「だから、次は庭園へでもと勧めたんだ。お前が帰りたがっていたとは、知らなかった」
「兄様は、よいお話だと喜んでいらしたから」
「……ああ」
そこで彼は黙った。
卓の上へ目を落とし、考えてから再び妹を見た。
「喜ぶ前に、聞くべきだった。すまない」
私は思わず、二人を見比べた。
クレーメンス様は、良かれと思ってしたのだと繰り返さなかった。
妹が早く言わなかったことを、責めもしない。
「紹介してくれた方には、私から事情を話す。ただ、先方へお返事をする前に、文面はお前にも読んでほしい」
「私が書いてもよい?」
彼は少し驚いたようだったが、すぐに頷いた。
「もちろん」
イェッタ様が、初めてこちらへ身を乗り出した。
「オルネラ様。失礼にならない書き方を、教えていただけますか」
「はい。ご一緒に考えましょう」
私は新しい便箋を出した。
申し込みへのお礼。
考える時間をいただいたことへの感謝。
そのうえで、縁談を辞退するという返事。
イェッタ様は最初、いつか気持ちが変わるかもしれませんが、と書きかけた。
「その可能性を、待っていただきたいですか」
私が尋ねると、彼女は首を振った。
「いいえ。それは、違います」
その一文を消し、書き直す。
相手を傷つけまいとして残した言葉が、返事を曖昧にすることもある。
私も、あの家を出るまでに何度も言い直した。
書き上げた便箋を読んだイェッタ様が、静かに息をついた。
「これなら、私の返事だと思えます」
私は頷いた。
何件も縁談をまとめた日より、その言葉が嬉しかった。
*
帰り際、イェッタ様は玄関の外で、待たせていた馬車へ先に乗った。
クレーメンス様が帽子を手に、私へ向き直る。
「お引き受けくださって、ありがとうございました」
「ご希望を伺って、手紙を整えただけです」
「私は、その希望を聞けていませんでした」
言葉に詰まった私へ、彼は少し苦い笑みを浮かべた。
「妹が納得するよう、説得していただくつもりで来たのだと思います。今になって気づきました」
そういう依頼だと受け取っても、おかしくなかった。
家の条件に問題がなければ、本人へ承諾を勧める。以前の私なら、そうしたかもしれない。
「イェッタ様が話してくださって、よかったです」
「ええ。……私が先に話しすぎましたね」
彼が困った顔をしたので、つい笑ってしまった。
「少しだけ」
「役所では、報告は簡潔にと言っているのですが。妹のことになると、自分でできていませんでした」
あまりに困った顔をするので、今度は笑いを抑えられなかった。
「私も、人のことなら分かるのに、自分ではうまくできないことがあります」
「私だけではないのですね。少し、ほっとしました」
彼も笑った。
相談の間は気づかなかったが、笑うと目尻が柔らかく下がる人だった。
責めたつもりはなかったが、口にしてから胸が小さく強張った。
彼は気を悪くした様子もなく、帽子をかぶる。
「先方へのお返事は、私たちで届けます。ここから先まで、お任せにはしません」
門のところで、もう一度礼をされた。
私は馬車が走り出すまで見送った。
部屋へ戻ると、卓の上には使い終えた便箋と、相談料の封筒があった。
最後まで話を聞き、返事を整えた。その時間に対していただいたものだ。
私は封筒を帳面の横へ置き、今日の日付と金額を書いた。
それから少し迷って、仕事の終わりに線を引いた。
この先の手配を、私がすべて考えておく必要はない。
冷めたお茶を片づけながら、玄関先の会話を思い返した。
またお話しできたらと思ってから、もう妹の相談は終わったのだと気づいた。
帳面を開き直す用事は、なかった。
私は少し残念に思いながら、彼の使ったカップを洗った。
*
その週末、伯爵邸では、玄関に置かれた旅行鞄を前に、ベルトラムが足を止めていた。
「客室が足りない?」
到着した親族には、ひとまず応接間で休んでもらっている。
支度を尋ねた使用人は、帳面を開いて差し出した。
六室に、六組。
オルネラが残した予定では、それで足りていた。
足りなくなったのは、ベルトラムが後から二組を招いたためだった。
「何組かは帰ると思っていたんだ」
口にしてから、招待したときのことを思い出す。
せっかくだから泊まっていけばいい。
そう勧めたのは、自分だった。
以前にも同じことはあった。
それでも、当日には客室が足りていたはずだ。
帳面をめくると、過去の集まりの記録が目に入った。
宿泊を別の日へ変更してもらったこと。近くの親族宅へ泊まれるか打診したこと。そのための手紙の日付まで、小さな字で残されている。
誰も、当日に突然帰らされていたわけではなかった。
「……近くの宿を取ってくれ。失礼のないところを」
今から親族の家へ押しかけさせるわけにもいかず、ベルトラムはそう指示した。
ほどなく、宿泊費に加え、夕食後と翌朝の送迎に必要な馬車代が示された。
払えない金額ではない。
だが、気軽な一言で増えた出費としては、軽くなかった。
書付に支払いの署名をしながら、彼は眉をひそめた。
オルネラがいれば、と考えかける。
しかし、彼女が出ていく朝、自分で確認するよう言われたことも覚えていた。
「今回は、たまたま重なっただけだ」
誰にともなく言って、帳面を閉じる。
応接間で待っている客へ、宿が別になることを説明しに行かなければならなかった。
*
数日後、イェッタ様から、先方が返事を受け取ってくださったと手紙が届いた。
残念ではあるが、考えたうえでの返事なら承知した、というお返事だったそうだ。
『断ったあとも、あの方をよい方だと思っていてよいのですね』
その一文に、私は微笑んだ。
末尾には、今度は相談ではなくお茶をご一緒したい、とある。
日取りを考えながら、便箋をしまう。
同じ日に届いたもう一通は、見覚えのない封蝋で閉じられていた。
差出人は、フェンヤ様。
男爵家の令嬢だと名乗るその方は、私と面識がないことを詫びた後、用件を書いていた。
『このたび、ベルトラム伯爵との縁談について、お話をいただいております』
胸の奥が、少し痛んだ。
もう、次のお相手が見つかったらしい。
私は背筋を伸ばし、続きを読んだ。
『結婚後の親族の皆様への対応について、確認をお願いしたく、お便りいたしました』
指が止まった。
『伯爵からは、離縁後もオルネラ様がお引き受けくださると伺っております』
私は読み終えた一行へ、もう一度目を戻した。
あの人は、私がいなくなったあとも、私の返事を勝手にしていた。




