第3話 妻を替えても残る人
「……君、本当に出ていくのか?」
ベルトラム様は、玄関に積まれた荷箱を見ていた。
「明朝の馬車を手配してあります」
「いや、日取りを聞いているんじゃない」
手袋を握ったまま、彼が一歩近づいてきた。
「ここにいればいいだろう。部屋なら余っている」
私は、返事をする前に息を吸った。
離縁を届け出て、受理の知らせまで届いた。それでも、この説明が必要なのだ。
「新しい奥様をお迎えになる家に、私が住むのですか」
「東側の部屋を使えばいい。寝室も応接間も別になるし、お互いに気を遣わずに済む」
「離縁した相手と、新しい奥様を前にして、私が気を遣わずにいられると?」
彼は口を閉じた。
ようやく私の気持ちへ目を向けたのかと思ったが、次の言葉は違った。
「では、食事の時間も分けよう」
そこまでして、私をこの家に置くつもりらしい。
私は五年間、何度もこの人と予定を相談した。
何時なら都合がつくか。どの部屋を空けるか。誰に先に返事をするか。
いまも彼は、配置を変えれば済む話をしている。
「こちらでの暮らしを続けたいとは、思っておりません」
「一人では不便だぞ。母上の家には、住み込みの使用人もいないだろう」
「必要なことは、私が手配します」
「そういう面倒を、わざわざ背負わなくてもいいと言っているんだ」
ここへ残れば、私は引き続き家の用事をするのだろう。
その面倒は数に入っていない。
「自分が暮らすための支度ですから」
そう答えると、ベルトラム様は眉間を押さえた。
「少し落ち着いてから考え直してもいい。荷物は、そのままにしておけばいいじゃないか」
「明日、持っていきます」
私は足元の小箱を持ち上げた。
母の手紙が入っている。これは馬車でも、自分の膝に置くつもりだった。
「おやすみなさいませ」
返事を待たずに階段へ向かう。
背中に視線を感じたが、振り返らなかった。
*
翌朝、玄関へ下りると、ベルトラム様が待っていた。
窓の外には、私の呼んだ馬車が停まっている。
「出発前に、少しだけいいか」
その手に、見覚えのある帳面があった。
私が書斎へ残したものだ。
「週末の親族の集まりだが、叔母上の返事は来ているのか?」
「日付の下に記載してあります。お手紙も同じ場所に挟みました」
彼が帳面を開く。
「ああ、これか。それと、客室はどこまで用意すればいい?」
「泊まるとお返事をいただいた人数も、そちらに」
「君なら、すぐ分かるだろう」
答えが浮かんだ。
誰が泊まり、誰が夕方に帰るか。どの部屋なら階段を長く上らずに済むか。
言ってしまえば、数息で終わる。
けれど、その次には食事の相談がある。
返事の来ていない人へ、もう一度手紙を書いてほしいと言われる。
私は小箱を抱え直した。
「これからは、そちらを見てご判断ください」
ベルトラム様は帳面から目を上げた。
「この集まりだけ、済ませてから出ていけないか。もともと君が準備していたことだ」
「必要な準備は、昨日までに終えています」
「当日、分からないことがあったらどうする」
私は、帳面の端からのぞいている紙を指した。
「依頼先と、まだ変更できる期限を書きました。人数を増やされるなら、まずそちらへご相談を」
彼は小さく息を吐いた。
「また、確認か」
何かを言いかけた私の口が、閉じた。
変わらないのだ。
私が出ていこうとしている、この朝にも。
外から、荷物を積み終えたと声がかかった。
「それでは、失礼いたします」
玄関の扉へ手を伸ばす。
「オルネラ」
名前を呼ばれて、足が止まった。
待ってしまう自分が、少し悔しかった。
「使者は、母上の家へ送れば届くんだな?」
私は扉を開けた。
「私の荷物についてなど、清算に必要なご連絡は、そちらへお願いいたします」
背後で彼が何か言った。
けれど、馬車を待たせる理由にはしなかった。
踏み台を上がり、席へ腰を下ろす。
膝の上に小箱を置くと、扉が閉まった。
車輪が動き出しても、私は窓を見なかった。
見れば、彼が追ってくるかどうか確かめてしまう。
角を曲がる揺れで、背中に入っていた力が抜けた。
私は小箱を抱いたまま、長く息を吐いた。
*
新しい家での最初の朝、私はいつもの時刻に目を覚ました。
急いで起き上がりかけ、ここでは誰の朝食の時間も気にしなくてよいと思い出す。
それでも二度寝はできず、湯を沸かした。
パンを切り、昨日買ったジャムを添える。
窓際の椅子に座って、熱いお茶を飲んだ。
静かだった。
ゆっくり飲めるのは嬉しい。けれど、向かいに誰もいないことには、まだ慣れなかった。
食べ終えた皿を持って、しばらく立ったままでいた。
その日の午後には、荷物をほとんど片づけた。
暖炉の点検も済み、台所に必要なものも揃った。
私は残ったお金と、この先の生活費を書き出した。
すぐに困る額ではないが、何年も何もせず暮らすつもりにはなれない。
何ならできるだろう。
そう考えていたところへ、ディートラ叔母様から手紙が届いた。
まだ足りない物があれば知らせてほしいという気遣いの後に、ひとつ、相談があった。
知人の令嬢が、縁談について迷っているらしい。
私に一度、話を聞いてもらえないか、と。
人の結婚について。
手紙を置きかけ、私はもう一度読んだ。
再婚相手を選べとは書いていない。先方も、私へ頼む前に都合を確かめてほしいと言ったそうだ。
机へ向かい、返事を書く。
お話を伺うことはできます。
そこまで書いて、ペンが止まった。
このあと、相手の家へ連絡するのだろうか。両家の条件をまとめ、日程を決め、婚礼の支度まで頼まれるのだろうか。
以前なら、必要になったことをその都度引き受けた。
私は続きを書いた。
まずは一度、ご本人のお話を伺うこと。
その後のご相談は、内容を確かめてからお引き受けすること。
そして、迷いながら相談料を添えた。
便箋一枚を見直すのに、ずいぶん時間がかかった。
返事は翌日、届いた。
記した条件でお願いしたいという承諾と、来訪を希望する日時。
叔母様の短い追伸もあった。
『先方から、お仕事としてお願いできるほうが安心だとのことよ』
私はその一文を、指でそっと押さえた。
*
約束の日、私は来客用の小さな卓にカップを三つ並べた。
令嬢は兄と一緒に来ると聞いている。
花を置こうかと迷ったが、手元の花瓶は欠けていた。
無理に飾るのはやめ、窓を開けて空気を入れ替えた。
扉を叩く音は、約束の時刻ぴったりに聞こえた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。クレーメンスと申します」
玄関に立っていた男性が、帽子を取った。
落ち着いた色の礼服を着た、背の高い人だった。事前のお手紙によれば、子爵家の次男で、王都の役所に勤めていらっしゃる。
その隣で、若い女性が丁寧に礼をした。
「妹のイェッタです」
「オルネラと申します。どうぞ、お入りください」
男性は敷居をまたぐ前に、私へ尋ねた。
「お呼びするのは、オルネラ様でよろしいでしょうか」
夫人、と呼ばれかけて訂正するつもりでいた私は、一瞬返事が遅れた。
「はい。それでお願いいたします」
「承知しました」
それだけだった。
離縁の事情を尋ねられることも、慰められることもなく、私は二人を部屋へ案内できた。
クレーメンス様は椅子に腰を下ろすと、封筒を卓の端に置いた。
「お約束の相談料です」
反射的に、まだ何もしておりませんので、と言いかける。
私は口をつぐみ、封筒を受け取った。
「ありがとうございます。では、お話を伺います」
新しい帳面を開いた。
「妹に申し込みがありまして。人柄もよく、家同士の条件にも問題はありません。ただ、本人がどうにも決めかねているようで」
クレーメンス様が説明する隣で、イェッタ様は膝の上に手を重ねていた。
指先が、手袋の縫い目をなぞっている。
私はペンを置いた。
「イェッタ様は、いま、どうしたいとお考えですか」
彼女が顔を上げた。
兄のほうへ視線を動かす。私は返事を急かさず、冷めかけた自分のお茶を一口飲んだ。
クレーメンス様は何か言いかけたが、妹を見て口を閉じた。
「……結婚は、したくありません」
細い声だった。
「その方と?」
「はい。でも、お断りする理由がなくて」
私は彼女を見つめた。
周囲に勧められるうち、自分がどうしたいかを後回しにしたことは、私にもあった。
イェッタ様は、膝の上で両手を握った。
「相手の方に悪いところがなくても、結婚したくないと言ってよいのでしょうか」




