第2話 本人の署名
「その方のご主人になる、あなたがお助けください」
私がそう言うと、ベルトラム様は紙から顔を上げた。
「もちろん、私もできることはする。ただ、君ほど詳しくはないからね」
「いま引き受けている用件は、分かるように書き残します」
「なら、それでいいじゃないか。わざわざ協力を終了するなどと書かなくても」
夫の指が、私の書いた一項を叩いた。
消してほしいのは、そこらしい。
「書かなければ、いつまで続くのでしょう」
「新しい妻が慣れるまでだよ」
「その方は、まだ決まっていないのですよね」
夫の指が止まった。
「決まるまで待って、その方が慣れるまでお手伝いする。その間、私はいつ、自分の暮らしを始めるのですか」
「そんなに急ぐことはないだろう」
再婚相手の希望書を差し出したのは、そちらなのに。
言い返しかけて、やめた。
いま知りたいのは、夫がどれほど身勝手かではない。
私は何を取り戻し、いつ出ていけるのか。それを決めなくては。
「私は離縁が成立したら、この家を出ます。再婚相手も探しませんし、その後の親族対応も引き受けません」
一つずつ、区切って伝えた。
「それを条件として、離縁に同意いたします」
夫は背もたれに身を預け、長く息を吐いた。
「君は、本当に何でも大げさにするな」
いつもなら、そこで説明をやめていた。
夫の機嫌が直るよう、別の方法を考えた。
今回は、黙って返事を待った。
食卓に残った私のパンは、すっかり冷めていた。
「……分かった。君がそうしたいなら、文書にはそう書けばいい」
文書には。
後で気持ちが変わると思っているのだろうか。けれど、私からまで、いずれ相談に乗るようなことは言わなかった。
私は頷いた。
「では、正式な離縁状を作っていただきましょう」
夫は私の顔を見て、それから食べかけのパンへ視線を戻した。
「持参金は返すよ。家のために使った分も補う。それで困らないだろう?」
「返していただく額と、返還日も記載してください」
「疑っているのか」
「後で、あなたにも確かめていただけるようにです」
夫は何か言いかけたが、やがて頷いた。
私は自分の希望を書いた紙を持って、食堂を出た。
廊下へ出たところで、やっと手の震えに気づく。
五年間、一緒に暮らした人だ。
よくできたわねと誰かに言ってもらえれば、子供のように泣いてしまいそうだった。
けれど、まだ終わっていない。
私は紙を折らないよう胸に抱え、自分の部屋へ戻った。
*
翌日の午後、清書された離縁状が書斎の机に置かれた。
私の持参財産は全額返還される。母から相続した家と手元の預金は、婚姻中も私の個人財産として扱われていたため、そのまま私に残る。
借金を肩代わりするような条項もない。
返還金は、朝のうちに全額受け取っていた。私も受領書に署名を済ませ、その額と離縁状の記載を照らし合わせる。
金銭の清算に漏れがないことを確認してから、最後の項目まで目を通した。
離縁後の協力は終了すること。
成立後、五日以内に退去すること。
私が求めた二つの条件も、きちんと残っていた。
「これでよろしいですか」
夫へ尋ねると、彼は机の隅に積んだ手紙から目を上げた。
「財産のことで異存はない。君に不自由をさせるつもりはないから」
「退去と、協力の終了についてもです」
「昨日、聞いたよ」
少し苛立った声だった。
それでも、今度ばかりは引き下がれなかった。
「私は、書いてあるとおりにいたします」
夫は離縁状を取り、私が示した箇所へ目を走らせた。
「分かっている。義務ではなくなる。それでいいだろう」
そして、下に自分の名前を書いた。
迷う様子はなかった。
署名を終えたペンが、こちらへ差し出される。
結婚のときにも、同じようにペンを受け取った。
あの日は指が触れただけで嬉しくて、うまく名前を書けるか心配した。
今日は触れないように受け取った。
オルネラ。
見慣れた自分の名前を書き終えるまで、夫はもう待っていなかった。
脇にあった手紙の封を切り、内容を読み始めている。
「ひとまず、これで落ち着けるな」
その顔を見て、最後まで残っていた期待が少しずつほどけた。
引き止めてくれるかもしれないと、まだ思っていたのだ。
私は離縁状を取り上げた。
「届け出は、本日中にいたします」
「ああ、頼む」
いつもと同じ返事だった。
*
届け出を済ませた帰り、母の家に寄った。
伯爵邸から馬車で半刻ほど離れた、小さな二階建ての家だ。
母が亡くなってからは最低限の手入れを頼むだけで、私自身は長く足を運んでいなかった。
門の鍵が少し固い。
両手で回して扉を押すと、湿った土と、伸びた草の匂いがした。
「ただいま」
誰もいない玄関で言ってみた。
返事はない。
私は窓を開けて回った。
台所の棚には欠けた皿があり、二階の寝室は寝具を入れ直す必要がある。暖炉も、使う前に確かめてもらわなければならない。
何もせずに暮らせるわけではなかった。
返してもらうお金も、使い続ければ減っていく。
玄関先で胸を張れたのはほんの一瞬で、台所を見る頃には、これからの出費が頭を占めていた。
私は持ってきた紙に、修繕と買い物の予定を書き始めた。
まず、寝る場所。
次に、食べるための支度。
客を招く部屋を整えるのは、後でいい。
そう書いて、ふと手が止まった。
後でいいのだ。
明日誰かを連れてくると、夕食の席で告げる人はいない。
窓際に、母が使っていた肘掛け椅子があった。
布を外すと、褪せた緑色の背もたれが現れた。
私は窓へ向けて椅子を動かしかけ、途中で止まった。
ここでは、入口に背を向けることになる。
伯爵邸なら、客が来たときに気づける位置を選んだ。
少し迷ってから、そのまま窓へ向けた。
庭の向こうに、隣家の赤い屋根が見える。空は思ったより広かった。
腰を下ろすと、座面が柔らかく沈んだ。
ここでお茶を飲みたい。
熱いうちに、最後まで。
そんな小さなことを考えただけで、目の奥が痛くなった。
*
翌日、離縁の受理を知らせる書面が届いた。
私は日付を確かめ、自分の書類箱にしまった。
これで、ベルトラム様は夫ではなくなった。
昼過ぎにディートラ叔母様を訪ねたのは、頼まれていた用件をお返しするためだった。
「離縁したの?」
叔母様はカップを置き、私を見つめた。
「はい。昨日、届け出をいたしました」
「あの子が、何をしたの」
私は少し迷った。
けれど、かばうための説明を作ることはやめた。
「再婚相手を、私に探してほしいと」
叔母様の手が、受け皿の横で止まった。
「……それを、あなたに頼んだの?」
「離縁した後も、親族の皆様への対応は続けるつもりだったようです」
叔母様が椅子を引いた。
私は慌てて首を振った。
「もう、お互いに署名いたしました。思い直すよう説得していただきたいのではありません」
口にすると、少しだけ胸が軽くなった。
「これからのご用件は、あちらへ直接お伝えいただけますか。いま決まっていることは、書いて渡してあります」
叔母様はしばらく黙っていたが、やがて椅子へ座り直した。
「分かったわ。そうします」
「ありがとうございます」
「それで、あなたの住所を教えてちょうだい」
私は持ってきた封筒を差し出した。
叔母様は住所を確かめ、大切そうに脇へ置いた。
「今度は、用事がなくてもお茶に来てね」
頷こうとして、うまくできなかった。
俯いた私に、叔母様は少しの間、何も尋ねなかった。
*
屋敷へ戻り、自分の荷物をまとめた。
母の手紙。結婚前から使っている裁縫箱。読みかけの本。
衣装も私物と家の所有物を分け、持ち出す品の一覧を残した。
親族の用件をまとめた帳面は、書斎へ置く。
寝室の小机には、何も残さなかった。
最後の箱の蓋を閉める頃には、外が薄暗くなっていた。
馬車は明朝に手配してある。
玄関脇へ運んでもらった荷箱を数えていると、扉が開いた。
帰宅したベルトラム様が手袋を外しながら、足を止める。
「この荷物は何だ?」
「私のものです。明日の朝、運びます」
彼は箱から私へ視線を移した。
「どこへ」
「母の家へ」
手袋を持ったまま、ベルトラム様が黙った。
離縁状に署名したときには、少しも迷わなかった人だった。
「……君、本当に出ていくのか?」




