第1話 次の妻の希望条件
「オルネラ。君に、次の妻を選んでもらいたい」
夫は焼きたてのパンに蜂蜜を塗りながら言った。
私は紅茶のカップを持ったまま、向かいの席を見た。
結婚して五年になる夫、ベルトラムは、皿の脇から一枚の紙を取り上げた。食卓の中央にある花瓶を避けて、こちらへ滑らせる。
「希望は書いておいた。そのほうが君も探しやすいだろう」
頼まれたのは、料理人の紹介ではない。
次の妻。
私の次に、この人と結婚する女性。
「……夫の再婚相手を、私が探すのですか」
「ああ。君は親族の縁談にも詳しいし、人を見る目もある」
夫は、私の聞き返しを仕事の確認だと思ったらしい。
パンを一口かじり、満足そうに頷いた。
私はカップを置いた。受け皿に当たる音が、思ったより大きく響いた。
「私たちは、まだ夫婦ですが」
「もちろん、先に離縁する。そのあたりは、きちんとするつもりだ」
そのあたり。
二十八歳になるまでの五年間。私が大切にしてきた結婚は、夫の中では、次へ進む前に片づける手続きになっていた。
私は膝の上で指を握った。
「ほかに、結婚したい方がいらっしゃるのですか」
「いや、まだいない。だから君に相談している」
誰かを好きになって、どうしても別れたいという話ですらなかった。
「私は、あなたの妻を続けられないのでしょうか」
尋ねてから、唇を噛みたくなった。
続けたいかではなく、続けさせてもらえるかを聞いてしまった。
夫はようやくパンを置いた。
「君が悪いというわけではないよ。ただ、私は家ではもう少し気楽に過ごしたいんだ」
差し出された紙へ目を落とす。
明るい女性。
細かなことにこだわらない女性。
親族と穏やかに付き合える女性。
見慣れた夫の筆跡だった。
昨夜、私が客室の手配をしている間にでも書いたのだろうか。
「最近の君は、何かにつけて確認が必要だと言うだろう。誰に返事をしたとか、いつ約束したとか」
「先日は、叔母様と食事をする日に、ご友人を招かれましたから」
「そういうところだよ」
穏やかな声で遮られた。
「済んだ話を、また持ち出す」
済ませたのは私だった。
ディートラ叔母様へ手紙を書き、予定を動かしていただいた。叔母様の馬車が出てしまう前に使者が間に合うよう、朝食も取らずに手配した。
夫はその夜、友人たちと楽しそうに食卓を囲んでいた。
私は一度だけ、今後は約束の日を確かめてほしいと頼んだ。
その一度を、夫は覚えている。
頼む前に私が何をしたかは、知らないままで。
「親族との付き合いも、君には負担だったのかもしれないな」
夫の声に、ほんの少し心配する響きが混じった。
私は顔を上げた。
「私が負担だと申し上げたら、どうなさいますか」
「だから、もっと楽しめる女性がよいと思ったんだ。君も、気の合う人を選べばいい」
伸ばしかけた手を、どこへ置けばよいか分からなくなったような気がした。
この人は、私が疲れた理由を尋ねるつもりはない。
疲れた顔をしない妻が欲しいのだ。
紙へ視線を戻した。
希望はまだ続いていた。
夜会への出席を好むこと。
来客を快く迎えること。
家の事情に理解があること。
その下、小さめの字で、補足があった。
『親族間の相談、行事の日程調整については、離縁後もオルネラが引き続き担当する。新しい妻に過大な負担は求めない』
私は、その文面を読み直した。
離縁後も。
引き続き。
「これは、どういう意味ですか」
指で示すと、夫は不思議そうにした。
「いきなり全部を任せるのは酷だろう。叔母上たちの好みも知らないだろうし」
「私が引き受けると、お返事をしましたか」
「君にしか分からないことも多い。そこは頼りにしているよ」
頼りにしている。
結婚したばかりの頃、その言葉が嬉しかった。
家同士の紹介で決まった結婚だった。けれど、初めて二人で出席した夜会で、緊張していた私に、彼は何度も話しかけてくれた。
帰りの馬車では、疲れただろうと肩掛けを貸してくれた。
寡黙な方ではない。ただ、日常の愛情を言葉にするのが苦手なのだと思っていた。
だから、用事のあるときにしか名前を呼ばれなくなっても、寂しいとは言わなかった。
相談を持ち込まれるのは、信頼されているから。
ありがとうがなくても、夫婦なら伝わっているから。
そう考えるほうが、まだこの人を好きでいられた。
「新しい奥様には、負担をかけたくないのですね」
「そうだ。最初から難しい顔をさせたくない」
「私には、かけてもよいと」
夫が眉を寄せた。
「君は慣れているだろう」
食卓の向こうで、蜂蜜の瓶の蓋が閉められた。
かちり、と小さな音がした。
私は五年間、慣れようとしてきた。
食事の途中で呼ばれることにも、外出の予定を変えることにも、夜更けまで返事を待つことにも。
夫に恥をかかせず、親族にも嫌な思いをさせないようにと、言葉を選んできた。
慣れたのだから、妻でなくなっても続ければよい。
この人には、本当にそれだけのことなのだ。
「君だって、急に親族との縁が切れるのは寂しいだろう? 今までどおり訪ねてくればいい。新しい妻にも、私から説明する」
そこで初めて、離縁したあとの自分がはっきり見えた。
この家へ呼ばれ、客の予定を調整する。
私が選んだという女性が、夫の隣で笑っている。
用事が済んだら私は帰り、また何かあれば呼ばれる。
その妻は、細かなことを言わずに済むだろう。
私が代わりに、言いに来るのだから。
紙を持つ指が震えた。
私は両手で押さえ、食卓へ静かに戻した。
「ベルトラム様」
「うん?」
「私とは離縁して、別の方と結婚したい。それは、もうお決めになったことですね」
夫は、少し困った顔をした。
まるで、同じ説明をさせられているかのように。
「できれば、君にも気持ちよく賛成してもらいたい」
胸が痛かった。
悲しい顔をしている理由くらい、分かってほしかった。
けれど、夫はもう希望書へ目を向けていた。
私が頷けば、次は候補の名前を挙げるのだろう。
私はゆっくり息を吐いた。
「分かりました」
夫の表情が明るくなった。
「よかった。君なら理解してくれると思っていたよ」
「離縁について、お話を進めます」
私は言い直した。
ここを曖昧にしてはいけなかった。
「次の奥様を探すお約束はしておりません」
「……候補を考えるくらいは、できるだろう?」
「その前に、私のことを決めさせてください」
声は、自分でも意外なほどきちんと出た。
この国では、夫婦が条件に合意して署名し、離縁状の届け出が受理されれば婚姻を終えられる。母から相続した家も、持参した財産も、私のものとして残る。
離れたあとに何もかもがあるわけではない。
それでも、行く場所はあった。
「条件なら、後で相談しよう。今日はまず、心当たりがあるか聞きたかったんだ」
「今、決めたいことがあります」
私は席を立ち、窓際の小机からペンとインクを持ってきた。
いつもなら、夫が忘れないうちに約束を書き留めるために使うものだった。
椅子へ戻り、希望書を裏返す。
「その紙を使うのか」
「ほかに必要でしたら、書き直してください」
初めて、夫の返事を待たずにペンを取った。
離縁にあたり、確認すること。
そう書いて、一度手を止める。
涙が落ちそうだったので、瞬きをした。
気持ちよく賛成など、できない。
五年間好きだった人から、いらないと言われて平気なはずがない。
だからせめて、これ以上、傷つく場所に自分を残す約束だけはしない。
私は最初の一項を書いた。
『離縁成立をもって、私が担っている親族対応および家の私事への協力を終了する』
紙を夫のほうへ向けた。
読み終えた彼の眉が、初めてはっきりと寄った。
「……親族のことも、やめるのか?」
「はい」
「それでは、新しい妻が困るだろう」
私はペンを置いた。
「その方のご主人になる、あなたがお助けください」




