別れの挨拶、思い出の浜
一月も中旬を迎えた頃、体の具合が良くないと、彼から訴えがあった。倦怠感がひどく、以前のように精力的に動くことができなくなってきたということだったが、この状態に彼は危機感を覚えたらしい。というのも、彼が自覚している体の具合の悪さが、死期が近づくと現れる奇病の症状であることを彼は知っていたからだ。
彼は、かねてより死後の諸手続きを依頼していた行政の部署に、いよいよ自身の死期が近いことを告げ、一切を任せる旨を伝えた。これで、人生最後の仕事が終わったかのように彼は安堵し、胸を撫で下ろしていたが、最後にわがままを聞いてほしいと私に願いを伝えてきた。
今まで出会った人達に、最期の挨拶をしたい、と。つまり、今までのイチャイチャ候補だった三人の女性達に会いに行きたいというのだ。
普通の女はここで激怒するのかもしれない。この後に及んで他の女に会いにいくとは何事かと。どっこい、私こそが健気にも他の女達を彼にあてがおうとした張本人であるので、文句など出るはずもない。
そもそも、私の化けの皮が剥がれる以前から彼女達に財産を分け与えたいという話を聞いていたわけだし、彼が彼女達に会いにいく理由など明白なのだが、案の定、優しい彼は私を不安がらせまいと自分から女性達に会いに行きたい理由をしっかりと説明してくれた。
まず渡されたのは、一枚の用紙だ。難しい題に固く重苦しい文章が書かれたこの用紙は、簡単にいうと引換券のようなものらしい。必要事項だけ書き込めば、彼の財産を受け取ることができるらしい。
内訳はざっと、こんな感じだ。
黒島京子には、絵の専門学校に通うための学費や、在学中にバイトをしなくて済む程度の当面の生活費。姫乃咲累には、家と土地に加え、当面の家屋修繕費用。榎本辰姫には畑と、彼女の活動を支援するための費用。太っ腹にも程がある。
けれど、彼の境遇を考えれば、これが最適なのだろうとは思う。なぜなら彼は天涯孤独なのだから。財産を譲るべき身内は誰もいないしし、《《あちらの世界》》に帰れば、金なんか必要ない。というか、あの世に持っていけるはずもない。それは彼も重々承知しているからこそ、これからも生きていく人に譲ろうというのだ。
この病気は、病状が進むにつれ、自力で体を動かすことすら困難になるという。早速、私は彼に彼女達に連絡をとり予定を立てるよう提案した。毎日彼の様子を見ている私としては、ここ数日でも衰弱が目に見えるので、会うのなら時間をかけるべきではないと判断したからだ。それに、弱った姿を彼女達に見せるのは、彼にとっても好ましいとは思えない。
早速彼に彼女達へと連絡をさせると、彼女達は皆一様に彼と会うことを快諾し、着々と予定が立っていった。
順番に彼は彼女達と一人一人会っていくのだったが、すでに車の運転ですら大変になりつつある彼に変わって、私が彼を待ち合わせの場所まで車で連れていくことになった。
車の免許は生前に取ってはいるが、生き返った都合で免許など持っているはずもないので、免許不携帯での運転に罪悪感に苛まれる。許せ、警察。時には四角四面に決まりを守っては立ち行かないこともあるのです。
私は待ち合わせ場所から少し離れたところから彼を見守ることにした。万が一彼が体調を崩した場合に備えて、というのが表向きだが、やっぱり気になるものは気になるもので、完全に目を離すことができなかった。
ところが、彼ときたら会話はどれも当たり障りのない話ばかり。彼女達の暮らしぶりや、最近の出来事など、雑談するばかりだ。浮いたセリフの一つも出てこない。ただただ、彼女体の未来がよくなるようにと、願いにも似た話をするばかりだった。
そして、彼は彼女達との会話が終わると、例の用紙が入った封筒をそっと渡して、私の元へと帰ってくるのだった。
「ありがとう。お陰様で、最後にしっかりと挨拶ができた」
「どういたしまして。別れ際にキスの一つでもするのかしらと思っていたのに、あなたときたら紳士にも程があるわね」
「姫子がいるのに、そんなことするわけないでしょ。俺の心は、姫子だけのものだよ」
突然の甘い言葉に、頬が赤くなる。私は身につけていたスカーフで顔を覆い気取られないようにするが、彼にはそんな私がお見通しらしくニコニコと笑顔を向けてくる。
口数は、以前より明らかに減っている。それに、毎晩私を抱いていた彼が今では数日に一回しか私を抱かないことからも酷く衰弱しているのが分かる。
そして、衰弱は日を追うごとに進み、ついには私を抱くこともできなくなった。私はただ、ずっと隣で添い寝をして、彼の弱々しい吐息に耳を傾けながら彼の眠りを見守る日々を送ることしかできずにいた。
あまりにも、あっけなく時間が過ぎていく。いつしか彼が壁に貼り付けたカレンダーは空白の日ばかりになってしまっている。そして、いよいよ立春を迎える前夜を迎えた。
雪は深々と降り続いている。部屋の中では時を刻む時計の音が響き、その時計の針の音に混じり、静かな彼の吐息が混ざる。まるで枯れ枝のように衰えた彼から、最期のお願いをされた。海に行きたい。ただ一言、そう言われた。
時刻は深夜だ。おまけに外は見渡す限りの雪景色だし、常識的に考えれば衰弱しきった彼を連れ出すなどありえない。けれど、私には見える。銀色に透けて光る彼の姿が肉体と重なり合っている姿が。
これは、魂が抜ける前兆、死の前触れだ。いよいよ、彼は最期の時を迎えようとしている。この状況で四の五の言っている場合じゃない。私は、彼を背負い、車へと乗せ、車を走らせた。
こんな深夜で、しかも雪が降っていれば、道には一台の車もない。ただ、街灯と車のヘッドライトだけが夜の雪景色を照らしていく。
車を走らせ、海へと向かう。彼が行きたかったのは、私たちが初めて出会ったあの思い出の海だ。意識が朧げになっていく彼に声をかけ続けながら、私は車を走らせ、海へと至った。
「あなた、頑張って。もう海には着いてるわ。思い出の場所までもう少し」
彼からの返事はない。けれど、小さく首が頷くのが見えた。家を出発した時より、銀色の光が強さを増している。急がないと。
車から彼を降ろし、おんぶして雪道を歩いていく。受肉した私に、神の力が残っていてよかった。これなら、彼をおんぶしたまま雪が積もった堤防を歩いていける。
海岸沿いに設けられた堤防は所々街灯があるものの、海を見れるほどの明るさはない。砂浜へと近づくにつれ、水平線が明るくなっていくのが見えるだけだ。沿いの街灯を頼りに、雪道を踏み締め歩く。
息が切れる。神の力があるとは言っても、大の男をずっとおんぶして歩くのはさすがに骨が折れる。頭の中には、とりとめもない思いが浮かんでは消えていく。
「あぁ、大神様。これはやはり私への罰なのですね」
私は、いつの間にか心の声を口にしていた。
「衰え弱っていく彼を目の当たりにし、死ぬ瞬間まで彼に寄り添うことが、これほど辛いなんて。この苦しみが、彼を呪った私の罰なのですね」
想いを口にするや否や、腹の底から込み上がる熱い濁流が胸を一杯にして、涙が溢れ始めた。
静かな潮騒に、私の泣き声が響き渡る。
「いいえ、これは罪ではありません。これは、あなたがこの男と添い遂げるために必要な功徳を得るためなのです」
突然の大神様の声。いつの間にか、私の隣を縁結びの大神様がいらっしゃった。地表から僅かに浮きながら、私の歩調に合わせ浮きながら移動している。
「人を生き返らすなど、神の力を持ってすれば容易いこと。ですが、それを行うは、この世の道理に反するというもの。道理を捻じ曲げ、あなた方を再び現世で相まみえるためには、彼の面倒をみて、最期を看取るというお役目を負わねばならなかったのです」
「そ、そうなのですか?」
「酷なことだと思います。ですが、他に道はなかったのです。私は縁結びの女神。あなた方二人をずっと見守ってきました。そして、それはこれからも変わることはありません。たとえ住処が現世から魂の世界へ移ったとて、あなた方は美しい絆で結ばれた光り輝く魂に違いありません。私は、あなた方を思えばこそ、このように道理を背くことをしました。恨まれたとしても致し方ありません」
「滅相もありません。むしろ、感謝しています。彼と再び一緒に過ごすことができたのですから。たとえ短い時間だったとしても、彼と過ごした数ヶ月間は、私にとって忘れることのできない日々となりました」
大神様は静かに頷くのみだった。いつしか雪は止み、空がさらに白んでいく。水平線が赤く輝きを増していく。
私は波打ち際まで行き、彼を降ろし、隣に座る。私の目からは、今にも彼の魂が肉体から抜け出そうなほど、銀色の光が溢れ出している。隣で私が支えないと、彼は自力で座る姿勢も取れない。こんなに弱々しくなってしまって・・・。
彼をそっと抱き寄せる。
「よく、がんばったねわね。ほら、もうすぐ朝日が昇るよ」
私の声に、彼は僅かに反応し、顔を水平線へと向ける。
「あぁ。綺麗だね」
短く答える彼の顔は、僅かに微笑んでいる。
「姫子、俺はもうこれで終わるのかな?」
「・・・そうね」
「あの世に行っても、姫子に会えるかな?」
「きっと、すぐに会えるわ。私も、会いに行く」
「よかった。見てごらん、水平線が綺麗だよ。あぁ、朝日が昇っていく。最期に思い出の場所で、姫子と過ごせてよかった」
彼は、最期の力を振り絞って、私の手を力強く握ってくれた。私も彼の手を握り返すと、ニコッと笑ってみせてくれた。いつも彼が私に向けてくれる、あの無邪気で可愛い笑顔を。
「あなた、綺麗ね」
「あぁ、綺麗だ」
朝日が昇る。浜辺を照らす。その景色を見た彼の手から、力が失われていく。ズシっと重くなった彼の体を支え、私は彼の亡骸へと声をかけた。
「お疲れ様。よく頑張ったね」
彼の体を抱えたまま、私はとめどなく涙が流れていく。耐えきれず、私は子供のように泣きじゃくり、彼の亡骸に縋りついた。これは、今生の別れであっても、またすぐ会えるというのに、やっぱり私は彼の死が悲しくてたまらなかった。
ぽぉっと、彼の体が優しく光った。銀色の光が彼の体から抜け出て、天へと舞い上がっていく。ゆっくり、ゆっくりと。まるで別れを惜しむように。
「あなた、待っててね!必ず会いにいくから!絶対会いにいくから!」
彼の魂はぐるっと一周円を描くと、彗星のように天へと飛んでいき、消えていった。
押しては返す白波の音が、静かに思い出の浜に響き渡る。




