愛する人
辰姫さんの動きがピタッと止まった。
俺はすっかり観念し、心願成就するその時を待っていたのだが、辰姫さんは俺の体に跨り、象の鼻を己の密林にあてがっているというのに体を沈める素振りを見せない。時間でも止まったかのように、動きが止まってしまった。
「ご、ごめんね。久しぶりだったから、つい、緊張しちゃって。今、いれるね」
辰姫さんは小さく息を吐き、心を整えている。俺の体に自身の体を沈み込ませようとするが、彼女の膝はまるで曲がらず、したがって象の鼻も密林の木の葉に僅かに触れるにとどまっている。
ひょっとして、これは焦らしプレイというものなのだろうかと考えていると、辰姫さんの視線がチラチラと動いているのが見えた。一体なにを気にしているのだろうか?
視線の先には、先ほど辰姫さんが伏せた写真立てが見える。
うーん・・・。ひょっとして、ひょっとするのか?
頭の中で、辰姫さんと出会ってからの一ヶ月間を思いしていく。彼女は、何を想い、何を願っていたのかを思い出してみる。頭の中に大幣が振られる音が響く中、彼女との思い出が走馬灯のように頭を駆け巡り、彼女が口にした想いを記憶の底から拾い上げていく。
そして、電流が脳内を走る。
「よし、辰姫さん。俺に任せてください」
俺はおもむろに彼女の腰を両手で押さえ、象の鼻を密林へとあてがうが、彼女は腰を浮かせて離そうとするのを力ずくで押さえ込む。
「お困りのようなので、俺がやりますね」
辰姫さんはビクッと体を反応させ、慌て始めた。構わず、象の鼻が密林の中に潜む洞穴に滑り込まないよう注意しながら押し当てていくと、あきらかに拒む動きをみせ、彼女は叫んだ。
「ダメっ!嫌ぁ!」
大幣の音は消え、部屋は静寂に包まれた。辰姫さんは思わず出た自分の言葉に、衝撃を受けている。先ほどまでの妖艶で余裕のある姿はどこにもない。彼女は体を縮こませながらペタンと俺の体に座り込み、象の鼻を呆然と見つめている。
部屋の隅にいる岩女も、何が起きたのかと狼狽し、祈祷が止まってしまった。すると、屹立した象の鼻も静かに垂れ下がり、その威容を誇示することはなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい・・・」
辰姫さんは、ポロポロと大粒の涙をこぼしながら、手で顔を覆う。口からはただ懺悔の言葉が繰り返し繰り返し漏れるばかりだ。
俺はひとまず、ベッドにあったタオルケットで辰姫さんにかけ、それから自分の服を着て、お茶を淹れることにした。こういう時には暖かい飲み物を飲むに限る。
お茶が入った頃には辰姫さんも落ち着きを取り戻し、服を着直して静かにベッドへ腰掛けていた。お茶を勧めると、彼女はお茶を啜り、暖かいなぁと一言もらした。
彼女の話を落ち着いて聞こうと、俺もベッドに腰掛けると岩女がしずしずと近寄り、正座した。顔色は顔面蒼白に加え、絶望に満ちた表情だ。恨めしそうな顔で俺の顔を見ている。
すまぬ、岩女よ。これほどまで尽力してくれたが、俺には無理やり女性をいてこますことはできなかった。まずは彼女の想いも聞いてほしい。そして、俺の想いも。
「ごめんなさい。私から誘っておいて、君に恥をかかせてしまって・・・」
辰姫さんは、ベッドから離れトボトボと伏せた旦那さんの写真を立て直し、写真に映る旦那さんをそっと指で撫でている。
「もう、大丈夫だと思ってた。もう、受け入れたと思ってた。でも、どうしても、頭から旦那の顔が離れなくて、土壇場で怖くなっちゃった。なんだか、旦那を裏切るような気がして・・・。おかしいよね、もうとっくの昔にいなくなってるのにさ」
俺はそのセリフを聞き、大きく息を吸い込んだ。胸に熱いものが込み上げ、じわじわと心の奥底に凍りついた感情が溶けていくかのようだ。
「でも、私は悪い女なんだ。街を歩いてて仲良く歩く夫婦を見ていると、胸が締め付けられるような気持ちになることがあった。鏡を見れば、年と共に増えていく皺やシミとも向き合わなきゃいけない。私もこれでも女だからさ、女としてもう終わってしまったんじゃないかって、そう思うのがとても怖かった。
こんな嫌な気持ちは抱えていたくない。だから、仕事に打ち込んで、土と向き合って、なんとか誤魔化しながら生きてきた。でも、どうしても誤魔化しきれなくて、私の中で何かがはち切れそうになった時、君と出会ったんだ」
俺が車を畑でスタックさせた時か。なんだか懐かしい、たった一月前の話なのに。でも、あの時の辰姫さんがそんな思い詰めてるなんて思いもしなかった
「はじめは本当に畑の貸し借りだけの関係だと思ってた。でも、君の直向きさが、旦那によく似てたんだ。いつの間にか私は、君と旦那を重ねて見てた。ひょっとしたら、もう一度私は女として生きれるのかもしれない。一人で生きなくてもいいのかもしれないって。
でも、今日ようやく分かったよ。私は、いまだに旦那が忘れられない。旦那のことが好きで堪らなくて、どうしても忘れられないんだ。もう二度と会えなのに、分かっているはずなのに・・・」
辰姫さんは声を押し殺し泣きはじめた。俺は溜め息を吐き、辰姫さんの背中をポンと叩いた。
「その気持ち、わかるかもしれないです。俺も、いまだに彼女のことが頭から離れないんで」
「えっ?君もそうなの?」
辰姫さんと岩女はまるでシンクロしているかのようにその言葉に驚きを見せている。
「えぇ、本当です。俺にも死別した彼女がいたって話はしましたよね。結婚申し込もうと指輪を用意するくらい俺は彼女のことを想っていて、でもプロポーズしようとした日に交通事故に巻き込まれて亡くなってしまいました。俺も仕事に打ち込むことで現実から目を逸らそうとしましたけど、逸らし切れるものじゃありませんよね」
「先に逝ってしまった大事な人と過ごした日々は、いつかは美しい思い出に変わって、時とともに記憶が薄れていくものだと思っていました。そして、いつかは忘れて心が痛むこともなくなるものとずっと思っていました。でも、なかなかそううまくはいきませんでしたね。
彼女は今でも、俺にとって忘れたくないほど大切な人だった。それを思い知らされる日々です。俺は亡くなった彼女のことが、今でも好きなんです。辰姫さんも、旦那さんのことは今でも好きなんじゃないですか?」
辰姫さんは、目に涙を湛え、唇をへの字に曲げ、わなわなと震わせ何度も何度も頷くのだった。
「俺の方こそ、ごめんなさい。彼女への想いを断ち切りたくて、辰姫さんを利用するような真似をしてしまいました。本当にごめんなさい」
「いいんだよ。そんなの、お互い様じゃない。それにしても、私たちは、こんなところまで似ていたとはね。二人して死んだ最愛の人を忘れられないなんて・・・」
「まったくですね、ほんとしょうがない」
俺たちは顔を見合わせ、声をあげ笑い合った。滑稽だ。実に滑稽だ。俺たちは自分の想いから目を背けたばかりではなく、自分の気持ちに嘘をついて、大事な想いを断ち切ろうとしたのだから。
悲しみや心の傷と向き合うのが怖かった。だから逃げた。だが、逃げたところで逃げられるはずもなかった。なぜなら、心を切り離すなど、押し殺すなど、そんな事はできるはずもないのだから。
そのことに気づいた時、笑いは乾き、胸から滝のように想いが溢れ、笑いは涙へと変わった。
辰姫さんと俺は抱き合い、まるで子供のように泣きじゃくった。心の奥底に澱み溜まった深い悲しみは、涙を流したところで払い切れるものではない。それでも、二度と会えない大切な人を想い、ただ、泣くことしかできなかった。泣き崩れる俺たちの有様を見て、岩女も滂沱の涙を流している。
一体、どれほどの時間泣いていたかも定かではない。深酒も相まって、いつの間にか俺は気絶するように意識が遠のいていった。




