第十一話 象の悩み
黒島さんは涙を拭い、車を降りようと助手席のドアノブに手をかけた。その時、何か思いついたようで、俺にキラキラとした目を向けてきた。何があったのか不思議そうに見返していると、黒島さんはその顔を俺に近づけた。
俺の頬に、黒島さんの唇がそっと触れた。
何が起きたのか分からず、俺の頭は一瞬で混乱の極地に至り、みっともなく狼狽してしまったが、黒島さんは落ち着いた口調で俺に言った。
「おじさまは、私にとって大切な人です。それだけは。どうか忘れないでいてください」
彼女は、車を降り俺に微笑みを向けながら手を振ると、そのまま走り去っていった。俺は反射的に唇が触れた頬を手で触り、何が起きたか判然としないでいた。遠目に映る黒島さんの後ろ姿はとても可憐で、これでよかったんだよなと、心の内で呟いていた。
「こんなこともあるのね〜」
「わ〜!もうまたびっくりさせるな女神!」
「イチャイチャとは、プラトニックと見つけたり、ってか?」
「してやったりな顔すんな。そんなんじゃねぇよ」
例によって、岩女は突然現れ助手席にどしんと構えている。おかしい。さっきまで可憐な黒島さんがいたはずの助手席に筋骨隆々、岩のようにゴツゴツした体つきの岩女がいることに、申し訳ないがとてつもない違和感を感じてしまった。
「縁を結んだ私がいうのも何だけど、こんな結末を迎えるとはね〜」
「結末って、これで俺と黒島さんの縁が切れるってことか?」
「残念?」
「いや、俺はてっきり男女の間柄ではなく、友達という関係で落ち着くものかと思ったから・・・」
「その通りよ。私が縁を結んだんですもの。そう切れるもんですか。あなたとあの子の縁は結ばれた。ただ、色恋の縁ではなかったわね。私はそのつもりで縁を結んだはずだけど、あなたも、あの子も、途中から縁の形を結び直してしまった。でも、それはそれでよかったんじゃないかしら?」
「まぁ、そうだな。その通りだと思う・・・」
「でも、今回の結末の原因は多分にあなたにある。なぜ、あの子を抱かなかったの?抱いていれば、あの子は葛藤や苦悩を味わうことになっても、早々にそれを乗り越えてあなたに心酔するほど惚れ込んでいたはずなのに」
「えっ?!そうなの?!」
「そこまで含めての縁を結んだ相手だったけれど、もったいないことしたわね」
「さすが、だな。縁結びの神・・・。でも、それでも俺はこの結末で良かったと思うよ」
「ほぅ・・・。あれだけ熱心にイチャイチャを祈願していたのに。心変わりしたの?」
「イチャイチャはしたい。それは変わってない。まぁ、神様になら言ってもいいか。話、聞いてくださいよ。今日のお供え、奮発するんで」
「よかろう。特上寿司で酒で勘弁してやる」
「へいへい」
俺は車を出し、お供えを手に入れるべく寿司屋を目指す。すっかり日も暮れ、大人の相談をするにはもってこいの時間帯に入ってきた。明るい場所で話したいことではないからだ。
「ところで、女神様は俺と彼女がベッドに入った時、何があったか見てたか?」
「見てないわよ。そんなデリカシーのない私ではなくてよ」
「左様ですか」
「で、何があったの?」
俺は言い淀む。いざ、打ち明けようとすると、言葉がうまく出てこない。男としては、これは死活問題であり、沽券にも関わることだからだ。しかし、正直にいうほかない。この懐のでかい女神のことだ。きっとその広い心で受け止めてくれるだろうことを期待しよう。
「たたなかった」
「何が?」
「だから、その、ゾウさんが・・・」
「象?あなたの?って、どういうこと?」
俺は黙って自分の股ぐらを指差した。女神の視線が俺の股ぐらに注がれる。しばし凝視され、居心地の悪さを感じていると、岩女はその両手で口を覆い、驚愕した。
「象さんが、勃たない?!あなたの、ゾウさんが?!」
「何度も言わないでくれ。だから、どのみち俺は黒島さんを抱くことはできなかったんだ」
「嘘でしょ?!ベッドインしといて?!お互い体を触りあったんじゃないの?!」
「そりゃした・・・、いや、俺が少し彼女の体に触れたくらいだ。黒島さんは俺の体には触っていない」
「あぁ、じゃあ単に刺激が少なかっただけじゃないの?」
「いや、今までの経験でそんなことはなかった。前にやった時だって、しっかり俺のゾウさんは元気だった」
「前にやったって、いつ?」
「元カノとだよ。時期的には・・・十数年前か・・・」
「一人でゾウさんと戯れることは?」
「なかったなぁ・・・。元カノと別れたのがショックすぎて、何も手につかない状態だったから、ゾウさんと戯れることもしなくなってた・・・」
「・・・。あなた、その元カノとは、どんな別れ方したの?」
「後でゆっくり話すよ。もうじき店に着く。寿司でも食べながら続きを聞いてくれ」
「そうね。美味しいもの食べて、体が元気になるかもしれないから、まずは腹拵えね。それがすんだら作戦会議よ」
「よろしくたのんます」
着いたお店は家に近くのスーパーだ。岩女は上等な寿司を消耗していたが、あいにくと俺の家の近くにはそんな上等な寿司屋は無い。ぶつぶつと文句を言う岩女だが、スーパーで一番上等な寿司と酒を買うことで納得をしてもらった。
どうせならと、岩女に選んでもらおうと、一緒に入店する。岩女の姿は当然俺以外には見えないのだが、その姿は日常生活の景色の中にあってはあまりに不自然で異様だ。ただでさえフヨフヨと宙を浮き俺の後をついてくるのだからなおのことだ。
だが、岩女はスーパーでの買い物を楽しんでいるらしい。今までも、ドライブやちょっとしたお出かけについてきた岩女だが、こうしてスーパーに連れてくるのもいいのかもしれない。なんせ、この岩女の存在は居候のようであり、誰もいない家に帰る時なんかは、とてもホッとする存在になりつつあった。
岩女が所望する寿司と酒を手に入れ、俺たちは帰宅し、普段食べない豪華な寿司と酒を堪能し、腹を満たした。満たしたところで、俺の人生相談の時間と相なった。
「さて、聞かせてもらおうじゃないの。あなたの体の問題について」
「はいよ。さっきも言ったが、情けないことに今の俺の体は女を抱ける状態ではない。原因は俺の股ぐらに飼っている象に元気がないからだ。俺は黒島さんの体に触れても、象は静かなままだった。思えば、元カノと別れて以来、象はずっと元気がなかったと思う」
「あなたの不治の病が原因ではないのかしら?」
「それはないな。この病気は死の直前まで体調に変化が起きることはないらしい。余命宣告を受けてのストレスってのもあるかもしれないが、可能性は低い気がする」
「刺激が少なかった可能性は本当にないの?私が試してあげましょうか。この力強い手の力で、あなたのその象さんの鼻をしごきにしごいてあげましょうか?」
「怖いからほんとにやめて。他に心当たりがあるとすれば、それは元カノと別れたショックで、象を構うことすらしなくなったのが原因な気がする。もう何年も構っていなかったから、俺の象も鼻を勃たせ方を忘れちまったのかもしれないな」
「そんなことあるのかしらねぇ。でも、別れたショックが原因なら、その心の傷が癒えれば、また象さんも元気になるんじゃない?どんな別れ方をしたか、言ってごらんなさい」
俺はコップに酒を継ぎ足し、一口飲む。岩女の話してごらん言葉を皮切りに、頭の中に当時の思い出が溢れてくる。苦い、苦い、思い出だ。




