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余命一年恋物語  作者: 榊 珠江
一のご縁 絵描き女子

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第十話 傷

 俺は黒島さんが好きな紅茶を淹れ、彼女へと渡した。ベッドからソファへ席を移し、乾燥機が止まるのを待った。


「ごめんなさい、おじさま・・・」


 気まずい空気の中、口火を切ったのは彼女だった。


「おじさまに失礼なこと言っちゃった・・・」


「そんなことはないさ。こちらこそ、失礼した」


「おじさんだったら、いやではないんです。いやではないんですけど・・・」


「無理に話す必要はないよ。怖いと思うのは当然の感覚だと思うよ」


「違うんです。おじさまが怖いんじゃなくて、私は・・・」


 彼女は言い淀んでいる。おそらく、過去に何かあったことは間違いなさそうだ。彼女は若い。色恋で傷ついたことがあったとしても珍しくはない。人生に失敗はつきものだ。


「今日、おじさまとそういうことをしたら、私人生で二回目の経験になるはずでした。私、それでいいと思ってました。でも、いざしようとしたら、昔のことを思い出してしまって・・・。おじさまは、なぜ、思いとどまったんですか?あのまま、私とすることだってできたはずじゃありませんか?」


 不思議な質問だ。てっきり、何か文句でも言われるかと思ったら、なぜしなかったかを尋ねられるとは。


「そりゃ、無理にやるのはよくないでしょ。こういうことはお互い納得して合意の上でやるものだし、相手が嫌がっていることはしたくない。こういうことをするなら、俺は相手にちゃんと受け入れてほしいからね」


 黒島さんは、俺の話に深く頷いた。


「男の人が、みんなおじさまみたいな人だったらよかったのに。私の初めては、そんなロマンティックなものじゃありませんでしたから。おじさま、男の人って、無理にでもこういうことしたいものなんですか?」


「俺はそんなことできないな。俺はちゃんと気持ちが通じ合った人と楽しくやれたらいいなと思ってる。でも世の中には性犯罪に手を染める輩もいるから、無理矢理にでもっていうろくでもない男も少なからずいるね。言語道断だけど」


「そういえば、私たちまだ付き合っていませんでしたね。でも、おじさまは私と気持ちが通じてると思ったんですか?」


「ぐっ、それは大変失礼を・・・。てっきり、もう通じ合っているものと・・・」


 黒島さんは、お淑やかに笑っている。


「怒ってませんよ。むしろ、嬉しいです。おじさまにそう思ってもらえて。でも、私の初めての相手は、どう思っていたんでしょうね・・・。私の体が手に入れば、それでよかったんでしょうか・・・」


 彼女が何かを俺に話したがっている。俺が聞いていい類の話ではなような気もするが、彼女が俺に話したがっている以上、受け止めてあげるのも優しさか。俺は静かに相槌を打ちながら、耳を傾けた。


「あの人は、私の元同級生でした。街で買い物していたら偶然街で会って卒業以来久しぶりに会いましたから、話が盛り上がって食事に行ったりしたんです。彼は、人見知りの私でも話しやすくて、今思おうと、ちょっぴり憧れや好意もあった気がします。


だから、初めは彼と話したり食事をして楽しかったんです。でも、途中からお互いの恋愛の話になって、私がまだ誰とも付き合ってないことを伝えたら、だんだん彼の様子がおかしくなってきたんです」


 俺は冷静に話を聞きながらも、頭の中では頭を抱え込んでいた。同じ男だから、その彼が何を感じ、考えたかが手に取るようにわかる。彼女は言葉は悪いが芋臭いし地味ではあるが、決して不美人ではない。磨いたらおそらく相当にモテるであろう美人の原石だ。そんな女性からその話を聞いてしまえば、本能が疼くのも無理はないと思う。


 思うが、だがそこで本能に身を任せるのは、いかがなものだろうか。


「彼は、私に言いました。その年で経験がないのはおかしい。俺が手伝ってあげるからと、かなり積極的に誘ってきました。私も最初は断ったんですけど、あまりに強気でこられて、断りきれずホテルに連れ込まれて・・・。痛くても、彼は大丈夫の一点張りで、彼にされるがままにされて・・・。それが私のはじめての経験になってしまったんです」


 俺の心の中に大きな大きなため息が満たされてしまった。男の俺でも、あんまりな初体験で可哀想としか言えない。そんな経験したなら、怖くなるのも無理はない。


 俺は、食器棚からお菓子を取り出し、黒島さんへと差し出す。


「これ、俺のとっておきのおやつね。紅茶もまだおかわりあるから、どんどんおかわりしてね。あと、これ見てほしいんだ」


 黒島さんに一冊の本を渡す。これはおれがこの前買った画集だ。風景が多く掲載されているが、本の装丁からしてとてもオシャレだったので、衝動買いしてしまった一冊だ。この画集を眼にして、緊張と不安の色を見せていた黒島さんの瞳が、少しずつほぐれていく。


「すごい。この画集、私が欲しかった物です。見てもいいですか?」


「もちろん」


 俺はイチャイチャすることは辞めて、黒島さんと画集で盛り上がることにした。怖がる女性をいてこますなんて俺にはできない。何より、もっと深刻な問題に気がついたのも大きいが。


 窓に夕陽が差し込む。すっかり雨は止んだようで、路面がキラキラと輝いている。乾燥機も止まって静かなものだ。黒島さんには着替えてもらって、早めに帰って休んでもらうことにした。風邪をひいてはいけないので、念のためだ。


 黒島さんの家までは歩きでは遠い。当然、俺が車で家の近くまで送っていく。あんなことがあったから、少し気まずくなるかと思ったが、画集を一緒に見たおかげかで、いつものように気楽に話していられた。


 だが、黒島さんの家の近くに着いた時には、彼女の顔はまた神妙な面持ちになっていた。


「おじさま、今日は色々とありがとうございました。ドキドキしちゃったりもしたけど、今日はおじさまと一緒に過ごせてよかったです」


「あっ・・・そうだね。俺も、同じ気持ちだよ」


「おじさまにとって、私はどんな女性として見ていますか?」


 おっと、これは非常に難しい質問だ。その上、答えを間違えれば関係が絶たれかねない質問だ。俺と黒島さんは交際をしているわけではないし、イチャイチャも核心的な行為にはまだギリギリ及んでいない。


 だが、彼女をイチャイチャの対象として見ているのは、それは間違いのないことだった。しかし、それは己の肉欲が欲するところからくる感情なのか、あるいは純粋に彼女に恋をしているからなのか、あるいは余命短い身の上でイチャイチャへの強迫観念に駆られた結果であるのか、あるいはそれら全てが理由なのか。俺自身にも、もはやよく分からなくなっていた。


 でも、確かに言えることは一つある。それは・・・。


「俺は、黒島さんと一緒にいられると幸せな気持ちになるんだ」


 黒島さんは、少し俯き、沈黙している。何か考えをまとめている様子の彼女の言葉をじっと待った。


「私にとっておじさまは、やっぱりおじさまなのかな、と思いました。だから、今までのように会ってお話ししたり、お食事したり、そんな関係でいられたら、私はほっとします。でも、もし私が男女の行為に恐れがなければ、多分私はおじさまを受け入れていると思います。でも、その気持ちが私にとってはまだ何なのかが分からないんです。おじさまのことが男性として好きなのか、それとも違うのか。私には、それが分からないんです」


 うん、あるよね。こういう繊細な感情が揺れ動く時って、気持ちの正体がわからなくなるよね。うん、よくわかる。


「だから、私はもうしばらく今のままでおじさまといたいです。ごめんなさい。こんなわがままなことを言って・・・。私にも、よくわからないんです」


 そういうと彼女はさめざめと泣き始めてしまった。何となく彼女の言いたいことはわかる気がする。黒島さんは、俺のことを大切にしてくれている。でも、その大切の在り方で答えが分からず、困っているのだ。でも、そんな態度は大抵の場合優柔不断と見られたり、思わせぶりに映るのだろう。


 黒島さんは、俺のことを気遣ってここまで言ってくれたのだ。その気持ちはとてもありがたい。


「そんなに結論を急ぐことはないと思うよ。人と人との関係は、自然と時間をかけて移ろうものだと思う。いずれ、お互いにとっていいところに落ち着くと思うよ。また、遊びに行こうね」


「・・・ありがとうございます」


 黒島さんは、俺の顔を見て静かに微笑んだ。紅い頬に涙がつたい落ちていく。

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