奥の手
「姉さん……!」
「あれをやろう!」
姉さんが一瞬だけ目を見開いたあと、すぐに頷く。
「……うん!」
返事と同時に細剣が閃いた。
落ちてきた鉤爪をまともには受けず、刃を浅く噛ませたまま外へ流す。踏み込みかけた前足がわずかに泳いだところで、足元の地面が薄く凍りついた。爪がかかり損ね、巨体が傾ぐ。
そこへさらに踏み込む。
低く沈んだ姿勢から細剣が跳ね上がり、翼の付け根を払った。斬るためではなく、軸をずらすための一撃。
ぐらりと揺れる。
今までで、いちばん大きい綻びだった。
深追いはしない。すぐに後ろへ跳んだ姉さんの声が張り詰める。
「――二重身体強化魔法!」
姉さんのマナが僕の身体を包んだ。
淡い光が腕を、脚を、胸の奥をなぞって、そのまま沈む。もともと巡っていた身体強化の上から、さらにもう一つ力が重なり、視界が急に澄みきった。音が遠い。指先まで軽い。踏み込めば、そのままどこまでも届きそうだった。
向こうでは炎が膨れ上がっている。さっきまでとは比べものにならない火力だ。まとめて消し炭にするつもりなのか、全身を覆う炎が荒れ狂い、空気まで歪ませている。
でも、もう遅い。
地面を踏み抜く。
ドパァン!! と遅れて森が鳴った頃には、拳はもう魔獣の顎の下へめり込んでいた。
「ギュアアアアアッ!?」
炎を撒き散らしながら巨体が空高く跳ね上がる。何が起きたのか理解できていないのか、翼が空を掻くだけで制御が追いついていない。
今だ。
指先へマナを絞る。圧縮した水が細く鋭い刃へ変わった。
踏み込む。
翼を裂き、脇腹を断ち、首元を抉る。けれど、これじゃ足りない。止まれば戻る。再生される。水刃を振るう。刃を返す。炎が弾け、赤い羽毛と血が散った。
もっと速く。もっと速く。もっと鋭く。
空中で暴れる巨体へ食らいつき、斬って、斬って、斬り刻む。傷が塞がるより早く、その上からさらに水刃をねじ込み、炎が戻る隙すら与えない。
「グ、ギュルルルルァッ!!」
まだだ。
まだ足りない。
指先へ流すマナをさらに絞る。水刃が薄く、鋭く、研ぎすまされる。
「――っ!!」
踏み込みと同時に振り抜く。
深く食い込んだ一閃が翼の付け根から胴を断ち、そのまま巨体の芯まで届いた。
一拍遅れて、刻み込んでいた傷がまとめて弾ける。
魔獣が叫ぶ暇もない。
膨れ上がった衝撃が炎ごと肉体を引き裂き、巨体は空中で爆散した。
赤い火の粉と肉片が宙へ散り、遅れて轟音だけが森を揺らした。
吹き抜けた熱風に髪を煽られながら、しばらく動けなかった。荒い息が喉を焼く。全身の力が一気に抜けていくような感覚に、握ったままだった拳をようやくほどく。
……終わった、はずだ。
視線を巡らせる。舞い落ちる火の粉、焦げた土、抉れた地面。残ったのは燃え尽きかけた肉片と、黒く焼けた羽の残骸だけで、あの巨体を形作っていたものはもうどこにも見当たらない。
「アトラっ……!」
息を荒くした声が背後から飛んできた。
振り返ると、姉さんが細剣を解いて駆け寄ってくる。その顔も決して余裕じゃなく、額にも汗が滲んでいた。
「……姉さん、大丈夫?」
「それはこっちの台詞……っ、もう……ほんと、無茶する……」
言いながらも、視線は僕じゃなく周囲へ向いている。まだ再生しないか、同じことを考えているのが分かった。
しばらく二人で警戒したまま立ち尽くし、やがて姉さんがようやく息を吐く。
「……終わったのね」
「うん……たぶん」
苦い顔で笑い合う。
「あいつ、強すぎでしょ……」
「ほんとに……Sランク級って、あんなのなんだね」
「でも……上手くいったわね」
「うん」
その一言に、ようやく少しだけ肩の力が抜けた。
二重身体強化。
付与魔法が使えると分かってから、姉さんとずっと試していたものだった。最初は相手への付与、それから自分の身体強化への重ね掛け、最後に僕への上乗せ。理屈の上ではできるかもしれない。でも実戦で使えるかは別だと、王都へ向かう道中でも、宿でも、時間を見つけては何度も合わせてきた。
失敗の方が多かった。
強化がぶつかって弾けたこともあったし、片方だけ消えて二人して転んだこともある。それでも諦めなかったのは、いつか必要になるかもしれないと思っていたからだ。
「練習しといてよかった……」
「ほんとそれ。あそこで失敗してたら笑えなかったわ」
笑いながら、まだ息は荒い。
「素材、回収しよう」
「うん」
焦げた地面を見回しながら歩く。
まず見つけたのは鉤爪だった。熱を帯びたまま地面に半ば突き刺さっていて、近づくだけでじわりと熱が伝わってくる。黒く硬質な表面には、まだ赤い光が脈打つみたいに残っていた。
「これ、使えそう」
「武器素材になりそうね」
姉さんが布を巻いて持ち上げる。
さらに少し先では、燃えるみたいな赤を残した羽が何枚か落ちていた。焼けて崩れたものも多いけれど、その中に形を保ったものがある。炎を失ってもなお、羽の芯には不思議な光沢が残っていた。
「こっちも」
「……綺麗、ではあるんだけどね」
敵だった相手にそんな感想も変だけど、思わずそう感じた。綺麗だからこそ、あのまま空から襲ってきた姿の異様さが余計に思い出される。
一通り回収を終えて、ふと一番大事なことを思い出す。
「姉さん、月雫草は?」
「ん?」
問いかけると、今までで一番誇らしげな顔をされた。
「ちゃんと十本、無事よ」
「ほんと?」
「ほんと。ほら」
差し出された袋の中で、青白い雫のような光が揺れていた。
その瞬間、胸の奥で張っていたものがようやく解けた気がした。
「よかった……」
「でしょ?」
姉さんが少し得意げに胸を張る。その顔がいつも通りで、ようやく本当に終わったんだと思えた。
「じゃあ帰ろう」
「うん、さっさと帰って寝たい……」
お互い、もう限界は近い。
それでも足取りが少し軽かったのは、ちゃんと目的を果たせたからだろう。焦げた匂いの残る森を後にし、夜に沈みかけた道を戻っていく。
ギルドに着いた頃には、空はもうだいぶ暗くなっていた。扉を開けた瞬間、いくつもの視線が一斉にこっちへ向く。酒場の喧騒が一拍だけ止まり、それから誰かが声を上げた。
「お、おい……!」
「帰ってきたぞ!」
「生きてたか!」
「ほら見ろ、俺の勝ちだろ!」
どっと空気が動く。
あちこちから歓声やら野次やらが飛んできて、急に実感が湧いた。
ああ、本当に戻ってきたんだな、と。
その人波をかき分けるように、メレナさんが駆け寄ってくる。
「アトラさん、キャトラさん……! ご無事だったんですね」
「メレナさん……」
「こんな時間になっても戻られないので、何かあったんじゃないかって……今すぐ捜索隊を出すか、朝まで待つかでちょうど相談していたところだったんです」
その後ろでは、ギルドマスターとレオンさんも立っていた。キースさんはいつも通り落ち着いた顔をしているけれど、目だけはこっちをしっかり見ている。レオンさんは腕を組んだまま、けれどわずかに眉が緩んでいた。
「……遅くなりました」
「見りゃ分かる。何かあったんだろ」
レオンさんのぶっきらぼうな声に、思わず苦笑する。
頷いてから、背負っていた袋を下ろした。
「奥地で、Sランク級と思われる魔獣に遭遇しました」
近くにいた冒険者が固まる。ざわめきが広がる中、袋から鉤爪と羽を取り出してカウンターへ置いた。
黒く硬質な巨大な爪。
燃えるような赤を残した羽。
ギルドの喧騒が、そこでぴたりと止まった。
メレナさんが目を見開き、キースさんの視線がわずかに鋭くなる。レオンさんでさえ組んでいた腕を解いた。その異様さを理解した者から、じわじわと顔色が変わっていく。
「お、おい……あれって……」
「まさか、不死炎鳥の素材じゃないのか?」
「確かにあの羽……いや、でも……」
「マジでSランク狩ってきたのかよ!?」
「あいつら、すげぇな!?」
「Bランクだろ……!? 冗談だろ……!」
ざわめきが一気に膨らむ。
メレナさんが、掠れた声で聞いた。
「これ……まさか」
「討伐しました」
一瞬の静寂。
次の瞬間、どよめきがそのまま歓声に変わり、ギルドが一気に沸いた。




