兄から想い人へ
「良し。」
次の作品に進む前に、プロットを何個か考えて、どれを書くのかを決める時間がある、って言っても、俺は書いてる内に次の書きたい事、が見つかるタイプだから、そこに関してはスムーズに進む、詰まった事はない。
今は午後六時すぎ、そろそろ一般的な社会人さん達は終業時間だろう。
今日は金曜日だったか、俺は一般的な会社には勤めた事が無いから、誘われた事も人生ではなかったけど、華金と言えば飲みに行く、が土日休みな人達の楽しみだ、とは聞いた事があった。
華金って言う言葉が出てきたのは俺が生まれる前だったか、そのあたりだった覚えがあるって言うか、資料として残ってるけど、俺が子供の頃には、テレビでは華金を特集した番組があって、華金族って言う、そう言う事に執着する人達、っていうのが取り沙汰されてた覚えがある。
かくいう俺はそう言う事に縁がない、誘われる様な関係値の人がいなかったし、前の編集さんだった園枝さんには、接待が云々言われてた時期があって、無理やり酒を飲みに連れ出されたって言うか、編集の立ち位置と立場を悪用して、近場にいる作家をひっかきまわしてた、って言う事は吉野さんから聞いた事があった、その頃に、一回だけ飲みに行った事があるけど、俺が思った以上につまらない人間だから、って言う理由で、それ以降は誘われた事もなかった。
「ん、ラインだ。」
ラインが鳴るって言う事は、吉野さんか浩介君か、どっちかから連絡が来た,って言う事になる、それ以外の人と連絡先を交換していないし、園枝さんとは担当じゃなくなった時に切ったし、その二人以外に、ラインに連絡先が登録されてないんだから、当たり前と言っちゃ当たり前か。
「電話良いですか、か。何の用事だろう?」
終業時間は過ぎてるだろう、吉野さんは基本的に残業が多いって言ってたけど、終業時間を超えてからは連絡してこない人だし、何かの用事があって連絡してきたんだろうけど、何か不備でもあったかな。
「もしもし?」
「あ、悠介さん、お忙しい所でしたか?」
「いえいえ、今はプロットの確認をしてる所だよ。別段忙しいって言う訳でもない、そちらから原案の結果が戻って来るまでは、ちょっと手持無沙汰は感じかな。」
「そうでしたか、それは良かったです!」
「それで、何か原案に不備でもあったかい?」
「あの、えっと……。悠介さん、良かったら飲みに行きませんか?ほら、華金っていうでしょう?それで、吉野さんをお誘いしたら、悠介さんに声をかけてみたらどうだい?って言われまして。迷惑でしたか?」
飲みに行こう、って言われるとは思わなかった、俺の事をしっかりと理解してるタイプって言うか、俺の過去を知ってる子だから、そう言う事を持ちかけてくるとは思わなかった、ただ、驚くと同時に、あの頃のカリンコリンとしてた子が、お酒を飲む様になった、って言うのに、ちょっと感動すら覚える。
って言っても、浩介君の事を認識していたとしても、記憶はしていなかった俺が何かをいうのは間違ってる、とは思う、浩介君と既知の仲って言っても、それなり以下の関係値しか築いてこなかったんだから、そう言う関係だった俺を、飲みに誘う大胆な子だったかな?って疑問を頭の中に浮かべる。
「駄目ですかね……?」
「ん、大丈夫だよ。今から準備して出るから、何処で集合しようか?会社は浅草にあるんだったか、そっちに行った方が良いかな?」
「えっと、僕が住んでるのが悠介さんのお家の近くなので、そっちに合わせて良いよ、って吉野さんが行ってくださいったんです。駅前の居酒屋なんてどうですか?」
「それでいいのなら俺は有難いけど、浩介君が近くに住んでると言っても、吉野さんは西東京の郊外にお住まいじゃなかったっけ?それでも良いのかい?」
「はい、大丈夫だ、って言ってました!」
「わかった、じゃあ、電車の時間が分かったら送って貰おうかな、その時間に合わせて駅前に向かうよ。」
用件が済んだから、って言って電話を切って、準備をする、って言っても、まだ会社にいるんだとしたら、一時間くらいは掛かるだろう。
その間にまったりと向かえば良いか、なんて思いながら、あの頃小学生だった浩介君が、まさか酒の場に俺を呼ぶ様になるとは、って改めて衝撃的だ。
「あ!悠介さん!待ちました?」
「いや、今着た所だよ。吉野さん、浩介君、仕事お疲れ様。」
「坂入さんと飲むのは初めてですからね、来た甲斐があるというものです。」
「じゃ、入ろうか。」
「はい!」
一時間半後、現在の時刻は八時手前、浩介君と吉野さんが、寒そうにマフラーをまきながら駅の方から歩いてきて、合流して居酒屋に入る、華金って言うのもあって混んでるかなー、って言う印象だったけどここはキャパが多いらしくて、ぎりぎり予約をしなくても空いてた。
「何飲みますか?」
「ん、じゃあカシスオレンジを。」
「私は生を頂きましょうか。」
「了解です!」
ここの居酒屋は注文がタッチパネル式で、浩介君が率先して注文をしてくれる、社会人の間では、とりあえず生、って言う言葉があるくらい、生ビールを最初に頼む文化が根付いてるのは知識としては知ってるけど、俺は生憎とビールが飲めない、って言うか、甘いカクテル以上の度数の酒が飲めない、アルコールの味が苦手、苦く感じちゃうから、そもそもが飲まない。
「悠介さんはビール飲まれないんです?」
「苦手でねぇ。アルコール自体、普段からは飲まないし、たまに独りでバーに行ったりはするけど、でもそれ位かなぁ、行っても甘いカクテルしか飲まないからね、慣れない慣れないって言ってるまま、この歳まで来ちゃった、って感じだね。煙草は吸って良いかな?吉野さんは煙草は吸われないんでしたっけ?」
「私は大丈夫ですよ、作家さんは愛煙家の方が多いですから、慣れていますので。坂崎君は、煙草の煙は大丈夫かい?」
「はい!大丈夫です!前の会社では、課長と社長が吸っていたので!」
「じゃあ、遠慮なく……。」
一言断って煙草に火を点ける、普段は独りでバーに行ってたばこを吸いながら酒を飲む、が基本だから、こういう場で煙草を吸っても良いのかは相手に聞かなきゃならない、って言うのは、最近になって知った事だ。
というより、バーで揉めた、って言うのが正しいのかな、煙草吸いながら飲んでたら、変な女の人に目を付けられて、煙草があーだーこーだ言われて、その時に訳が分からな過ぎて、ある程度調べて、その時に、煙草を人前で吸うのであれば、一言言葉を掛けるべきだ、なんていうマナーがあるのを知った。
普段家で吸ってる時は、煙を他人に吸わせるべきじゃない、って言う意識はあったけど、そう言う場でそう言う事を言われるとは思ってなかった、って言うのが正しいかな、それ以来、俺は余計な揉め事を起こさない様に、と思って、周りに許可をもらう様になった。
「ふー……。」
「悠介さんは、どの銘柄を吸ってるんですか?」
「ん?ハイライトだよ、わかるかな?」
「あー!ハイライトって、市販されてる煙草の中じゃ結構きつい方って言われてませんか?前の会社の社長が、一人前になったらそれ位を吸ってても良いかもな、なんて言ってたんですよ!」
「そうだったんだね、浩介君は以前は何の仕事をしてたんだい?転職活動をして出版社に来たって言う事は、前に勤めてた会社があるって言う事だよね?」
浩介君の話を聞きながら、ちょっとした世間話、吉野さんも、浩介君の経歴には興味があるのか、それにうんうんって頷いてる。
「以前は営業職でした、高校卒業して、それから二か月で施設を出なきゃいけなくて、あんまり仕事を選んでる場合でも無くて……。悠介さんは、高校卒業と同時に施設を出られたでしょう?あの頃、もうちょっと一緒に居られたら良かったな、とは思ってたんです。同室の先輩がいなくなっちゃって、泣いてる時に頭を撫でてくれる人がいなくなっちゃって、僕は独りで生きていかなきゃいけないんだ、って……。でも、こうしてそれをしてくれた人と再会できて、担当編集の見習いにまでさせてもらって、僕は運が良いんでしょうね。」
そんな話をしている時に、飲み物が運ばれてきて、浩介君はどこか寂しそうな、嬉しそうな顔をしてる。
対面な俺と隣にいる吉野さんじゃ、顔の見え方が違うだろうな、とは思ったけど、吉野さんは何か思う所があるのか、黙って話を聞いてる。
「浩介君にとって、俺がどんな存在ったのか、については色々と聞きたいね。俺があの頃の記憶を殆ど持っていなかったとしても、浩介君が覚えてくれている事もあるだろうから。」
「……。そうですね、悠介さんは、そう言う方でしたね。当時から言ってましたよ?子供の頃の記憶が殆ど残ってないから、どうやって君と接すれば良いのかがわからない、俺はそう言う事が出来ないから、自分の言葉をいう事しか出来ない、だから、泣いていいんだよ。って言う言葉、今でも覚えてます。あれから十二年経ちましたけど、僕の中では、指標みたいな言葉なんです。素敵な人がくれた、大切な贈り物なんだ、って。」
煙草の煙を吐きながら話を聞いてると、んでもない言葉が出て来たもんだ、って驚く、俺は顔に出ちゃうタイプだから、顔からして驚いてるだろう。
俺の何気ない言葉、って言うのかな、俺がただ言った言葉を、大切な贈り物としてずっと持ち続けてた、って言う事に驚いてるし、何より俺がそんな気の利いた事を言ってたって言う事実、忘れてた事実に驚く。
「悠介さん、あの頃と変わらないですね。びっくりした時のお顔、あの頃と何も変わってないです。」
「……。ごめんごめん、あんまりに突拍子もない事を言われたもんだから、衝撃的でね。俺の言葉なんて、誰が覚えてるのか、誰が俺の事を認知していてくれたのか、なんて想像もしてなかったから。作家としての俺を見てくれる人はいてくれる、ただ、人間としての俺を見てくれる人は、いないと思ってたよ。それだけでも、浩介君と再会した意味はあったのかもしれないな。さ、取り合えず飲もうか。せっかくのビールの泡が、勿体ない事になっちゃいそうだ。」
「では坂崎君、お疲れ様。坂入さん、原稿のお預かり、ありがとうございます。」
「はい!乾杯です!」
「乾杯。」
三者三様に、アルコールを飲んでお通しを食べながら、俺は思い出そうとする。
こんな風に言ってくれる子との関係値、それは俺がかつて憧れていた、友という存在なんじゃないだろうか、浩介君からしたら違う関係だったのかもしれない、当時の俺はそれに気づけてなかったのかもしれない、ただ、今では諦めがついてると思ってる、そして執筆にはその想いを籠めていた、友達っていう、俺がかつて憧れてた、焦がれる程に欲しかった存在、だったのかもしれない、なんて事を考える。
当時の事を碌に覚えてない時点で、それを語るのはおかしいとはわかってる、俺は、子供の頃の記憶を殆ど覚えてない、友達がいた覚えが無ければ、遠巻きにされてた記憶だって、辛うじて覚えてる位だ、それ位、昔の記憶って言うのを覚えてるのが、俺は苦手だった。
今を生きている、なんていう格好の良い事をいうつもりはない、ただ、浩介君と一年半同室だった事、ですら記憶が怪しい程度には、過去の事を忘却してしまう性質の人間だ、とは自己認識をしていた、昔からだった、人の名前を覚えるのが苦手で、まずそこで躓いて、って言うのをずっと繰り返してきた、顔と名前が一致しない、顔を覚えてても名前を覚えてない、なんて事がざらにあって、それで俺は、友達が出来なかった。
それがいつの日か、創作活動だと覚えていられる、何の気なしに書き始めた小説、その小説の中だと、どんな人間を出しても、名前を忘れない、中学生の頃、孤独で仕方なかった俺は、そうやって孤独を紛らわさせてた。
それしか方法が無かった、社会と接点を作る方法を知らなかった、というよりは、社会で接点を作るために一番最初に必要だった、顔と名前を覚える、が出来なかった俺は、そうやって、創作の世界に引き籠った。
「あ、お通し美味しいですね!」
「そうだね、ビールによく合う味付けだね。」
「……。」
「悠介さん?」
「……。何でもない、ただ、俺にも権利はあったんだな、って思っただけだよ。」
つまみのポテトが配膳されて、それをつまみながら、次はカルーアミルクを、と思ってタッチパネルを操作して、ついでに刺身が食べたいと思って、刺身の盛り合わせを注文する。
権利があった、友を作る権利、友情を育む権利、それがあったんだな、と思うと、もう少し浩介君と仲良くしていても良かったのかもしれない、と思い返す。
その頃の事を殆ど覚えてない人間が、その事に後悔する理由がない、と思わなくもないけど、浩介君がそう言ってくれるのであれば、俺がそれに応えるのは吝かでもなかったのかな、って。
「ふー……。」
「悠介さん、ため息つく所も変わってないですね。」
「そうかい?俺、昔からため息ついてるタイプだったかな?」
「はい、そうですよ?何かと寝る前にため息をついてるタイプの方でした、二段ベッドの下から聞こえてくるため息、って言うのは、ずっと覚えてます。悠介さんも悩む事があるのかな、飄々としてて何かを悩むタイプじゃないと思ってたけど、それでも悩みってあるのかな、なんて思ってましたよ?」
「ため息をつかれる事、と言うのは多かった印象が、私の中でもありますね。坂入さんはいつもため息をつかれている、という印象です。ただ、何を悩まれているのか、何に対するため息なのか、に関しては、考察の域を出ませんでしたがね。」
吉野さんの前でため息をついてる覚えはあった、って言うか、電話越しにいつもため息をついてる人、って言うのが吉野さんにとっての俺の印象だろうし、俺自身ため息が多い方だとは思ってる、ただ、浩介君にそれを聞かせる程度には、気が利かない人間だったんだな、と思うと少し恥ずかしい。
「ため息はね、どうしてもついちゃうんですよ。何か考え事をしてる時、悩んでるっていう時、煙草の煙を吐く時もため息になるのかな。とにかくため息が多いタイプの人間だ、とは自覚してましたけどね。浩介君にそれを聞かせる程度には無神経だった、それは恥かしい。」
「そんな事ないですよ!悠介さんだって、悩む権利はあるんだから、って思ってましたから。誰だって悩む権利がある、辛いと嘆く権利がある、嬉しいと笑う権利がある、幸せだと微笑む権利がある、そう小説に書かれてましたしね。」
「よく覚えていたね、そうやって書いたのは、高校生の頃だったかな、原稿用紙に認めていた頃の話だから、まだ世の中には出していない事だから……。浩介君は記憶力が良いんだね、たった一年半関わってただけの俺の事を覚えていたり、その当時に俺が書いていた文章を覚えていたり。俺とは大違いだ、友達も多かっただろう?」
「友達、って言っても、なんていうんでしょう、本当に分かち合える人って、僕の周りにはいなかったんだな、って思ってますよ。悠介さんが頭を撫でてくれて、泣いても良いんだ、って言ってくれて、その言葉に救われてからずっと、自分は異端者なんだって思って生きてきました。……。僕の感情は誰かと分ちあえる物じゃない、そうだとしたら、それはそれを言ってくれた悠介さんとだけだ、って。」
浩介君は、ビールを一気飲みして、次のドリンクを頼みながら、そう溢した。
悲しい話ではある、友達が多かったとしても、分かち合える仲間がいなかった、それは、表面上の友達がいたんだとしても、結局心おを預けられる仲間には出会えなかった、って言う事になっちゃうんだろうから。
「……。浩介君、浩介君は良い子だ、だから、きっと心を預けられる友達が出来ると思うよ。俺は結局、友達って言うのが小説の中の登場人物でしかない、俺にとって友達は、想像上の存在でしかないけど、浩介君はきっと違ったんだろう。きっと、沢山の愛に育まれて育ってきた、俺はそう予感しているよ?浩介君を見てるとわかる、この子は、沢山の愛に育まれて、沢山の愛を背負って生きてきたんだろうな、って。俺と違って、誰かから愛される事もなかった俺と違って、誰かと感情の共有を出来なかった俺と違って、浩介君は沢山の人に育まれて生きてきた、そうじゃないかい?」
「悠介さん……。でも、この想いを分かち合える人って、いるんですかね……。」
「どんな想いだったとしても、分かち合える仲間を作れるのが人間だ、と俺は思ってるよ。俺が人間として欠落してるからそれを出来ないっていうだけで、浩介君は欠落者じゃないんだ、だからきっと出来るよ。じゃなかったら、俺の言葉なんて覚えていないだろうしね。俺の言葉、十二年前に聞いただけの言葉を覚えてるって事は、浩介君は、人との繋がりを大事にしている子なんだと思う、俺はそれが出来なかった、俺は忘却してしまう者、俺は覚えていられない欠落者、それは自覚してるから、そんな俺に言われても自信に繋がるかどうか、って言われたらわからないけどね。でも、浩介君は、沢山の愛に育まれてきたんだろうな、とは想像は簡単に出来るよ。」
「そう、ですかね……。でも、届いてほしい想いが、何時だって届かない、って思っちゃうんです。あの頃も、今も、一番届いてほしい想い、言葉、意味が、届いてほしい人に届かないんだな、って。」
「……。坂崎君は、そう言う事を経験した事がないのかな?坂入さんは経験をした事が無いと言っていた、例えば誰かと付き合うだとか、誰かと好き合うだとか、そう言った経験はなかったのかな?あったとしたら、坂崎君はそれを知っている、という事になると思うのだけれどね。」
「そう、ですかね……。僕も、誰かと分かち合える日が来るんですかね。お付き合いをした事はあります、男の人だったんですけど、高校生の頃に、好きだって言ってくれて、付き合ったんで。でも彼は、結局は他の人と付き合う上での遊びとしてしか、僕を見てはくれなかったんです、男の人同士って言うのが、それが当たり前で、複数の関係を持たない方がおかしい、って言われる位に、皆が性に奔放なのはわかってるんです、僕の考えが異端で、僕が間違ってるって、ずっとわかってるんです。でも、僕は愛する人と向き合っていたい、誰かのついでじゃなくて、誰かと同時じゃなくて、その人と向き合いたいんです。だから、僕はまだ分かち合った事がない、と思います。これから先、それが出来るのかどうかも、わからないですよ。」
男の人と付き合った、って事はゲイかバイか、どっちかなんだろうな。
最近では色々とそう言う類の言葉って言うのも増えてきてるし、そう言うカテゴライズを気に入らないっていう人も中にはいるから、って言われて、俺もそれに従ってたって言うか、不用意な発言はしない様にはしてたけど、でも、どっちかではあるんだろう。
ちょっと酔っぱらってきてる浩介君は、口が軽くなったのか、それともそれを隠すつもりがないのか、再会して数日な俺にもそう言う話をしてくる、って言うのが、ちょっとびっくりだ。
「きっと、浩介君は分かち合える仲間がいるよ。気づいていないだけかもしれない、認めたくないだけかもしれない、でも、それでも、浩介君の周りにはきっと、浩介君を想ってくれている人がいる。だからこそ、君はそうやってまっすぐに育ってこれたんじゃないかな。ご両親が亡くなった、家族がいなくなって施設に行って、そこで何年かを過ごした、って言っても、それは家族の愛を知らないって言う理由にはならない、あの頃君が泣いていたのであれば、それはまぎれもなく、家族を愛していた、家族に愛されていたからこそ、流した涙なんだと思うよ。俺は、それがわからなかったんだと思う、俺にとって家族は、ただ血が繋がってるだけの存在、別に他人と変わらない、金銭関係を清算する為だけにいる存在、だったから。そんな相手だったら、いなくなったとしても泣かないだろう?君が泣いていたって言う事は、家族と愛し合っていた、その証左になるんだと思うよ。……。俺がどう思っていたか、についてはわからない、当時の事なんて、殆ど覚えていないから、浩介君とも同室だった事をなんとなく覚えてるだけの俺が、何かをいうのは間違ってるのかもしれない、俺が、浩介君に掛けた言葉、が正しかったのかどうか、もわからない。ただ、愛し合っていた証拠、って言うのは、何時まで経ってもなくならないんじゃないかな。」
「悠介さん……。」
「坂崎君の想いは、きっとご家族もわかってくれているんじゃないかな?坂入さんが言いたいのは、そう言う事だろう?」
「吉野さん……。」
浩介君は、辛うじて覚えてるあの頃と同じ様な、そして大人になったとしても変わらないんだろう涙を流す。
テーブル越しに、頭を撫でる、それをしてて思い出す、こんな感触だった、坊主頭で、俺よりずっと小さくて、大人でいようとして、それでいて子供でいたかった、そんな閑職だった。
浩介君が泣いてて、俺が頭を撫でてて、浩介君は泣きじゃくって、俺は困って。
どうすれば良いのか分からなかった、痛みを感じてる事はわかったけど、あの頃の俺は、それをどうすれば良いのか、が全く分からなかった、頭を撫でたのだって、なんとなくそうしたら良いのかもしれない、と思ったからだ。
誰かに頭を撫でられた覚えもない、誰かにそれを教わった覚えもなかった、ただ、そうしたら良い気がした、って言うだけで取った行動、それに関して、俺は思い出す。
「悠介さん……。」
「泣いていいんだ、君は泣いても良いんだよ。俺と違って、家族の絆があったんだから、俺と違って、愛がそこにはあったんだから、泣いたって良いんだよ。……。俺が何かをいうのは間違いかもしれないね、ただ、あの時からずっと頑張ってきたのなら、今泣いたとしても誰も責めたりしないよ。」
「……、はい……!」
浩介君の涙、それを思い出す、あの頃、俺より先に入所してた浩介君は、ほかの孤児たちの前では気丈にふるまっていた、浩介君よりも小さい子がいるから、同世代だったとしても、死別ではなく虐待の末に来た子達がいるから、そう言って、泣く事を皆の前ではしなかった。
ただ、ずっと泣きそうな目をしていた、俺は人間関係を構築するのは大の苦手だったけど、人間観察が趣味だったから、他人の勘定を考えるのは得意だった、目を見ればわかる、その人が敵対的か好意的か、どんな感情でその場にいるのか、そんな事はすぐにわかる、それが俺の特技だった。
浩介君は、ずっと泣きそうだった、泣きそうな目をしていた、泣きそうで、泣けなくて、泣かなくて、そんな目をしていた。
だから俺は、泣いても良いんだよ、って言った、だから俺は、同室の年上として、浩介君の頭を撫でた。
ただそれだけだった、ただそれだけの理由、ただそれだけの動機、だった。
ただ、泣きたくても泣けない、って言うのが嫌だった、俺は泣く事が無かったし、泣く理由もなかったから泣かなかったけど、浩介君は違う、泣く理由が、泣きたい理由が会ったんだ。
だから、だった。
「悠介さん……、僕……。」
「良いんだ、君は大人になったのかもしれない、もうこうして頭を撫でられる様な年齢じゃないのかもしれない、ただ、あの頃の事を覚えてる俺の前なんだ、泣いたってかまわないさ。」
「はい……!」
浩介君の頭を撫でながら、吉野さんが黙ってそれを黙認してくれてる事に感謝だ。
旧知の中って言っても、今は作家と担当編集見習い、って言う関係なんだし、それを持ち出されたら、俺達はそうだとしか言い様がない。
ただ、それを黙っていてくれる、それを見て、良かったねと頷いてくれてる人だから、そこには感謝しないとだ。
「ありがとうございます、悠介さん。あの頃の事、僕は忘れた事がないですよ。」
「俺も思い出したよ、あの頃も坊主頭だった、あの小さい子がこうして大人になって、一緒に仕事をするなんて想像もつかなかったよ。」
「あはは……。悠介さんって、人たらしですよね。」
「こりゃまた俺に似合わない言葉ナンバーワンな単語が出て来たねぇ。」
帰り道、浩介君と家が近いって事で、今日は送っていく事になった、最寄り駅が一緒なのは、きっと偶然なんだろうけど、でもそれがなんとなく嬉しいって言うか、近くに住んでるんだなー、って思わなくもない。
吉野さんは終電があるから、って言って電車に飛び乗って帰って行った、明日は休み、だけど奥さんとお子さんが待ってるから、って言って、俺達の世話になろうとはしなかった、そう言う人だ、そう言う人だからこそ、俺は仕事相手として信頼してた。
家庭をお座なりにする人だったら、俺は真摯な仕事は出来ないと思ってる、俺がそうである様に、俺達みたいに家族がいない欠落者が、きちんとした関係値を築けないと思ってる様に、逆にそこら辺をちゃんとしてる人は、俺からしたら信頼をおける人だ。
「悠介さんと再会出来て、嬉しかったです。悠介さんは忘れちゃってたとしても、僕にとっては大切な思い出がたくさん残ってるんですよ?……。悠介さんは、過去を覚えていない、後ろを決して振り向かない、そう言う人だ、ってよくわかってました、よくわかってるはずでした。ただ、僕の事を覚えていてくれないかな、ってちょっとだけ期待してたんです、僕の事、覚えていてくれないかなって、僕の事、好きだって思ってくれていなかったかなって。……。ただ、悠介さんが、僕の事を記憶の片隅でも覚えていてくれた事が、こんなにも嬉しくて、悲しくて、そう言う感情だとは思いませんでしたよ。」
「浩介君……。ごめんよ、そんな風に思っていてくれていた事、まったく気付かなくて。俺はさ、誰かと仲良く成るだとか、そう言うのが壊滅的に苦手だった、それは今でも変わらない、それは、相手からしてもそれがわかるから、そのうち俺とは関わらなくなる、っていう事も含めて、だ。でも、浩介君は、ずっと俺の事を覚えていてくれた、十二年前、干支が一周するくらい前の話、たった一年半だけ関わっていた俺の事を、覚えていてくれた。それは嬉しい事なんだと思う、俺がそう言うのに頓着が無くて、執着心を持てなくて、そう言う感情が希薄なだけで、それは嬉しい事だと思う。……。ありがとう、こんな俺を覚えていてくれて、本当にありがとう。」
「悠介さん……。」
浩介君の感情、俺に抱いていたのかもしれない感情、についてはわかった様な、わからない様な、そんな感覚だ。
俺は他人の感情の機微には敏感な方だと思ってる、思ってるだけで、気づかない事、気づかなかった事は沢山あったんだろうけど、それでも感情には敏感な方だ、とは自己分析をしてた。
だから、だからこそ、浩介君から向けられた感情、向け続けられていた感情、その意味が分からない。
浩介君が俺に向けているであろう感情、について、俺は感じた事が無かった事だし、思った事もない事だし、それを言葉として知っていたとしても、心として知らない、そんな感情。
それを、小説には認めた事がある、それに関して、知らない感情か、と問われると、知識としては知っている感情だ、ただ、それを、向けられている、って言う事実が信じられない、俺には、それを処理する回路が存在しない。
「……。悠介さんの事、ずっと……。」
「……。浩介君、それはきっと、ただの気まぐれだ。君がずっと抱いていたのかもしれない感情は、きっと、吊り橋効果と言われる事柄だったり、恩義とそれを勘違いしているだけだったり、そう言う事なんだと思うよ。俺は、それを向けられる程立派な人間じゃない、俺は、その感情につり合うだけの人間じゃない、それはきっと……。」
「そんな事、そんな事ないです……!悠介さんは、悠介お兄ちゃんは、ずっとずっと……。だから、僕は……。僕は、ずっと悠介お兄ちゃんの事が好きで、大好きで、それこそ、追いかけたい位眩しい人で……。だから……!」
戸惑い、それが正しい感情だろう、人生三十年生きてきて、初めて向けられた感情、物語としては知っていた、物語としては紡いでいた、ただ、俺の中では現実ではなかった感情、親からも、誰からも、与えられてこなかったと思っていた感情、それをぶつけられてるんだろう。
俺はそれを知らない、というより、それを経験した事がない、人生三十年間、それを誰かに向けた事も、向けられた事もない、そもそもそれを相互理解の感情として認識こそしていたとしても、その実例を知らない、それが俺の認識だ。
「浩介君……。」
「君って、つけないで……!あの頃、みたいいに……、浩介って、呼んでよ……!僕は……、僕は……、大好きな、お兄ちゃんの事を……!」
道端で泣きじゃくる浩介君と、それに対して戸惑ってる俺、って言うのは、なかなかに滑稽な現場だろう。
それこそ、作品ではコメディーの一場面として使われてしまう様な、そんな場面だろう。
でも、俺は浩介君……、浩介の言葉に意味が無いとは思えなかった、浩介が、こうして泣きじゃくっている事の意味、泣いて、大泣きして、俺に想いをぶつけてきてるのには、何某かの意味がある、と思ってた。
「浩介君……。」
「悠介、お兄ちゃん……、浩介って、呼んでよ……!」
「……。浩介、それで良いのか?俺は、君の事を殆ど覚えてなかった、浩介の事を、記憶すらしてなかったんだよ?そんな俺と、そういう仲になりたいのか?俺は、人間としては欠落も良い所なんだよ?人間として欠落していて、記憶すら留めておけなくて、誰かに愛された事も、誰かを愛した事もなかったんだよ?そんな俺で良いのかい?」
「……。わかってる、わかってるよ……!だから、僕はずっと……。」
俺が他人と関係値を築けない事、を知ってて、その想いを持ち続けていた、それに対して、俺はけじめをつける時が来たんだろうか。
浩介が、十二年間ずっと心に持ち続けた想い、きっと、転職してきたのだって、それと無関係ではないんだろう、それほどの原動力、それほどの覚悟、それに対して、俺は答えを出さないといけないんだろう。
それこそ、浩介が小学生の頃からずっと、俺に対して言ってきた言葉なんだろう、俺が気づいていなかっただけで、浩介はずっと、俺に伝え続けていたんだろう。
「……。」
「悠介、お兄ちゃん……?」
決めなければならない事、覚悟を、そして答えを、今出さないといけないんだろう。
誰かを愛した事がない、誰にも愛された事がない、そう自認してた俺が、物語の中でしか、愛を紡げないと思っていた俺が、誰かを愛する権利はあるんだろうか、愛する覚悟は出来るんだろうか、、愛する事そのものが出来るんだろうか。
きっと、答えは今出さないといけない、泣きじゃくってる浩介に対して、今答えを出さないといけない、俺はそう直感する。
「……。俺は誰かを愛した事がない、誰かに愛された事もない、家族もそうだった、友人はいなかった、恋人なんてもっての外だ。そんな俺を、ずっと想っていてくれたのなら、それを知らないからって、それに応えないって言うのは、不誠実なんだろうな。……。俺でも良いのか?本当に、俺で良いのか?誰かを愛する自信もない、誰かに愛された自覚もない、そんな俺で良いのか?」
「……。うん、良い、良いんだ……。悠介お兄ちゃんだから、僕はずっと……。」
「……。分かったよ、浩介。って言っても、俺は何から始めればいいのかも、何をするべきなのかも、物語としてしか知らない。頓智気な事をしてても、怒らないでくれよ?」
そう言って、俺は泣きじゃくってる浩介の頭を撫でる、改めて、身長は俺より小さいけど、大きくなったもんだ、と思わなくもないけど、泣き虫なのは変わらないんだな、とも思う、あの頃の事をあんまり覚えてる訳でもないけど、夜な夜なすすり泣きをしていた声を思い出す、俺より寝るのが早くて、寝言で父ちゃん母ちゃん、悠治がどうのって、言ってた覚えが微かにある、そんな子が、大きくなったとしても、心はあの頃と変わらないんだろうな。
そんな子が、俺に対して恋愛感情を持っていた、って言うのも驚きだけど、当時の事を考えると、境遇の似ていた年上、って言うのは、そう言う目で見る可能性がなくもない、のかな。
「ありがとう、悠介、お兄ちゃん……。」
「悠介で良いよ、俺は兄って言われるタイプでもない。」
「うん、ありがとう、悠介……。」
浩介は、少し恥ずかしそうに笑う、その顔は嬉しそうで、どこか悲しそうで、どこか寂しそうで。
そんな顔に見えた、俺にとって浩介がどんな存在だったのか、については話すのには一考の余地があるんだろうけど、でも、そう想ってくれていた、そう想い続けてくれていた、のであれば、それに応えるのは当たり前の事なんだろう。
それこそ、十二年間もずっと秘めていた想い、それを無碍にするだけの無神経さ、は持ち合わせがない、誰かを好きになった事はなかったし、これから先浩介をちゃんと愛せるのか、って言われたら、今はまだわからない、が正解だけど、それでも、その想いに応えないのは、人間としてどうかと思う、って言う話だ。
「さて、付き合うって言うのは、どういう事から始めればいいのやらだな。浩介、教えてもらっても良いか?俺は物語としてしか恋人の存在を知らない、だから、浩介にリードして欲しいんだ。」
「……、うん!」
浩介は嬉しそうに笑う、不器用に、出も素直に、それは昔から変わらない性質何だろうな。
俺が忘れてるだけ、忘却してるだけで、浩介はこういう子だった、それは覚えてる。
なんでだろうか、そんな事を、寒空の下、星を見やりながら思う、俺は、何もかもを忘却してしまったはずの俺が、どうしてその事を覚えているんだろうか。
「悠介、改めてだけどお家広いね。」
「そうだな、独りで暮らす一軒家、って言うのも慣れてるけど、物寂しいと言えば物寂しいかな。」
「あはは……。でも、凄いや。お父さん達が遺してくれたお家を立て替えたんでしょう?どうして、売りに出さなかったの?」
家について、なんなら浩介を連れて、家に帰ってきて、冷えたリビングに暖房を入れて、お湯を沸かしながら浩介の質問の答えを探す。
どうして売らなかったのか、に関しては、俺が住む場所として最適だったから、が正解なんだろうけど、浩介からしたら、それ以外の理由があると思うのかもしれない。
「ふむ、そうだな……。施設を出て、家を建て替えて、すぐに暮らし始めて。何かが記憶に残ってる訳でもない、忌々しい訳でもない、打ちひしがれる訳でもない、ただ、なんとなくここに居たい、と思った、が正解かな。だとしたら、何故立て替えたのか、親との絆だったはずの家を立て壊して、新しい家を建てた理由は何か、って聞かれたら、そうだな……。どうしてか、そうした方が良いと思った、が正解なのかもしれないな。俺にとって、以前の家って言うのは、思い入れが無ければ、別段トラウマがあるわけでもなかった、そう言う家だ。でも、それを手放さずに土地に残った理由、は何かがあるのかもしれないな。」
「……。そっか、悠介は、ずっと独りぼっちだったって言ってたもんね。俺は独りでいるのが当たり前だから、ってずっと言ってた。僕が悠介に懐いて、戸惑っていたのを覚えてるよ。……。あの頃、悠介は何処かに飛んで行ってしまいそうな人だった、それは今でも変わらないけど、……。うん、そうだね。悠介は、どこか遠くに生きてる人だ、って言う印象だったかな。」
「それがどうして、好きだなんていう感情に変わって行ったんだ?」
「……。どうしてなの?って聞かれたら、僕の答えは一つしか思い浮かばないかな。あの時、頭を撫でてくれたから、あの時、泣いていいんだよって、そう言ってくれたから。悠介が、施設にやってきてすぐに、僕と同室になって、あの頃の僕は、泣いちゃいけないんだ、誰もかれも悲しいんだから、ってずっと思ってた。でも、悠介は違った、悠介は、まるでそれが当たり前だって言う風に、僕に泣いていいんだって言ってくれた、その時、僕は恋に落ちたんだと思う。あの時、頭を撫でてくれた手が、とってもあったかくて、とっても優しくて。それが、とっても嬉しくて。」
「……。そっか、それは何よりだ。今こうして浩介が笑っていてくれてるのなら、俺もそれを言った意味があったんだろうな。」
俺自身がその発言をあんまり覚えてないって言うのは、無責任なんだろうか。
執筆の関係でメッセージにした事は、一言一句覚えてる自信がある、俺がいつも言ってる事、作品を通して誰かに伝えたい事、誰でも良い、誰かに伝わってほしいから、って言う意味合いで書いてる事、それに関しては、どの作品のどこで言ったか、って言う事は覚えてる、ただ、それがこと対人関係になると、殆ど思い出せない、誰と関わってて、誰と過ごしてて、それが覚えていられない、親の顔でさえ曖昧と言うか、十四年間も離れてて、両親の顔でさえ覚えてない位だ、白状と言われたらそこまでなんだろうけど、俺は他人の顔を覚えているのがずっと苦手だった。
その中で浩介をうろ覚えながら覚えていた事、それが何でかはわからない、どうして浩介だけ覚えていたのか、どうして十二年前に一年半関わっていただけの子を朧気ながら覚えていて、十六年間過ごしてきた親の顔を思い出せないのか、それもわからない。
わからないことだらけだ、なんて思いながら、もう夜も更ける訳だし、と思って、寝る前にとココアを淹れる、普段は牛乳を買ってきて、それを温めて飲むのが好きなんだけど、今日は急ごしらえって事で、仕方なくお湯だ。
「はい、どうぞ。」
「ありがとう、悠介。」
ココアのマグカップを渡して、ソファに座り直す、浩介は隣に座ってて、ちょっともじもじしてるって言うか、さっきの泣き顔からは想像が出来ない位には、嬉しそうにしてる。
「ねぇ悠介。」
「なんだい?」
「手、繋いでも良い?」
「それ位の事なら、いくらでも。って言っても、俺も小さい頃の事を覚えていないからね、誰かと手を繋ぐって言う事すら、初めてかもしれない。」
マグカップをテーブルに置いて、浩介は右手を俺の左手に乗せて、暖かい手で握ってくれる。
ちょっと心臓に悪い、って言うか、そう言う営みを一切合切した事がない人間としては、ドキドキするって言うか、なんていうんだろうか、これをときめきと人は表現するんだろうか、そんな感情だ。
決して悪い感情じゃない、悪感情じゃない、それは、嬉しいと思う感情だ。
ただ、それをした事がない身、として、どうすれば良いのか、こういう時にはどういう言葉を紡げばいいのか、それがわからないってだけだ。
「なんだろう、ドキドキするって言うのかな、こういうのを。」
「悠介、緊張してるの?」
「……。そうなのかもしれないな。好きだと言ってくれる相手と手を繋ぐなんて機会、今までの人生で一度もなかったからな。だから、緊張してるのかもしれない。」
浩介は、俺の言葉を聞いてくすくす笑ってる、それがまた恥かしいって言うか、年下である浩介にリードしてもらってもおかしくはない、というよりは、俺がそういった類の経験を一切してこなかったんだから、浩介にリードしてもらっても異常事態ではないんだろうけど、三十までそう言う経験をした事がない、って言う事自体が異常だろうし、何とも言えない緊張感がある。
手を握り返してみようか、今は浩介が俺の手の甲に触れてくれている、なら、俺から握り返すのも、ありなんだろうか。
でも、余裕なくがっついてると思われるものちょっと嫌かもしれないし、そもそもまだ俺は浩介に恋心を抱いているのかすらわからない、そんな状態で、変に期待をさせてしまう方が酷なんじゃなかろうか、そんな事が、頭の中を巡っていく。
恋心、なんてのは、物語の中の話であって、現実の話じゃなかった、それが俺のリアルだった、現実だった、俺にとって、恋愛とは生殖本能が一歩進んだ先、それ以外の何者でも無くて、俺にとっては縁がない、俺が子孫繁栄に興味がないって言う事もあって、俺にとっては縁が無くて、興味もない事だと思ってた。
でも、かつて誰かの作品で読んだ、恋をしてる状態、に今の俺は近い気がする、というより、その文章をそのまま解釈するのであれば、俺は恋に落ちてる、このドキドキは、所謂ときめきって言う奴なんじゃないだろうかか。
それを知識としてしか知らない俺が何かを評するのは間違いかもしれない、ただの勘違いか、間違いか何かなのかもしれない、ただ、俺はこれを「心地良い」と思う。
暖かい手が、温もりが、優しく握ってくれているその圧力が、心地良い。
「……。」
「悠介はさ、恋をした事が無いって言っていたでしょう?雑誌とかのインタビューでも、恋をした事がない、愛した事もない、だから、俺は頭の中で想像した事柄しか書けない、って。でも、本当は違ったんじゃないかな、ずっとずっと、苦手だって言って目を向けられていなかっただけで、恋をしていたんじゃないかな。」
「俺が、恋してたと思うか?」
「……。それは、或いは方便なのかもしれない、悠介にとっては、詭弁なのかもしれない。でも、悠介はずっと、人間という存在を愛していたんじゃないかな、って思うよ。じゃなかったら、人間賛歌なんていう小説を書けないと思うんだ。人を愛して、焦がれる程に愛し続けて、だからこそ、悠介の想いって言うのは、多くの人に受け取って貰えたんじゃないかな、って。」
「そうなのかな、読者にそう言う事を言われると、なんだかこっぱずかしいな。でも、そうなのかもしれない、そうも思うかもな。俺は、ずっと人間を愛していた、人間が好きで、でも人間と相容れなくて、ずっと藻掻いてたのかもしれない。……。だとしたら、ここまで長い時間を無駄にしたな。浩介があの頃から俺を想ってくれていたのなら、俺は随分と遠回りをしたと思わないか?人に愛されてない、愛される資格がない、そうずっと考えて生きてきた、ずっと、愛する事も、愛される事も無いんだと思って生きてきた。それが俺にとっての当たり前で、親って言う、子供を無条件に愛してくれる存在にでさえ、愛されないで。だから、それが当たり前なんだと思ってたよ。……。俺は馬鹿だな、大馬鹿者だ。……。出来るかな、俺に、出来るかな。愛を育む事が、愛を芽吹かせる事が、出来るかな。それをした事がない、自覚した事がない俺が、それを出来るのかな。」
「それでも人を愛しているから、だと思うな。それはあの頃から変わらない、文章を読んで、あの頃の悠介の文章と、今の悠介の文章が変わらない、それに僕は安心してる、あの頃はまだ全然分からなかったよ?悠介が本当に人を愛せないんだとか、愛せるだとか、そんな事まではわからなかった。でもね、悠介。悠介の書く文章は、何時だって人間を愛している事の証明をしてきた、それが素晴らしい事なんだって、それが正しい事なんだって、人間の営みとして、それがあるべきなんだって、ずっと悠介は小説に書き続けて来たでしょう?だから、きっと出来るよ。悠介は、きっと人を愛する事を誰よりも深く知ってる、誰よりも深い愛を持ってる、だから、きっと大丈夫だよ。」
「そう言ってくれると、なんだか嬉しいな。」
手を握り返す、浩介の手を包んで、俺は初めて感じる、人の手の感触、って言うのを実感する。
これを求めてきたんだろう、これを渇望してきたんだろう、俺は、自分自身が気づいていなかっただけで、それを求め続けて、諦めて、それでも諦められなくて、そうやって、文章を綴ってきたんだろう。
人間賛歌、とはよく言ったもんだ、誰よりも愛情を知らないはずの俺が、誰よりも愛情を知っているって浩介は言うんだから、それは驚きだ。
でも、不思議と悪い心地はしない、それは心が救われる様な感情でもある、俺の中でつっかえ続けていた、十六年間、ずっと言い続けてきた事、俺が知って欲しかった事、俺が追い求め続けてきた事、それこそ、物語に紡ぎ続けてきた事、それを、浩介は理解してくれていたんだろう。
「……。なぁ、浩介。」
「ん?」
「ありがとう、俺を見捨てないでいてくれて、俺を想い続けてくれていて、俺を愛してくれて。ありがとう、俺は浩介の想いに救われたよ。」
「……。それは僕だってそうだよ、悠介の想いに救われて、ずっと生かされてきたんだ。悠介が作家さんになってからずっと、悠介の作品を読み続けて、ずっと励まされ続けてきたんだよ。僕は、誰かを愛しても良いんだ、それは正しい事なんだ、誰かを愛する事は、素晴らしい事なんだ、って悠介が教えてくれたんだ。あの頃、僕は独りぼっちだった、父ちゃんも、母ちゃんも、悠治も、僕を置いて逝ってしまった、だから僕は独りなんだ、って思ってた。でも、悠介が違うって教えてくれたんだ、悠介が、頭を撫でてくれたあの時、僕は独りじゃないんだ、独りじゃなくても良いんだ、って思ったんだよ。」
「……。お互い様だな、そう言う所は。まったく、長い旅をしてきたもんだな、お互いに。十何年も前の恋と、三十年間の積年の感情、か。それはそれで、良い題材にでもなりそうだな。」
「ふふ、悠介らしい考え方だね、それこそ、あの頃から何も変わってなくて安心だよ。」
手を握り合いながら、俺達は語り合う。
浩介がどんな表情をしているのか、俺はどんな表情をしているのか、それはわからない、恥かしくて、浩介の顔を見れてない、普段なら歯の浮くようなセリフを言ったとしても、別段恥ずかしくもならないし、何とも思わないのが俺の長所、だと思ってたけど、いざこうして恋人になって、って言われると、恥かしくて顔が真っ赤になってる気がする。
なんて言えば良いんだろう、こういう事を想定して生きていなかった、が正解なのかな、そう言う人生を想定して生きてなかったから、そう言う事を言っても恥ずかしさを感じる事もなかった、でも、いざそれをするってなると、恥ずかしくて仕方がない。
「……。こういう時って、どういう顔するのが正解なんだろうな。」
「……。きっと、正解なんて何処にもない、間違いなんて何処にもない、悠介がそう言ってたでしょう?書いてたの、覚えてるよ?」
「そうだったな、俺がそれを実践する事を一切合切考えてなかったから、俺自身にそう言い聞かせてもおかしくはない、のかもな。」
浩介は笑いながら、俺の手を握ってくれる、その手の温もりが心地良い、その温もりを、知っていたはずの温もりを、知らなかった温もりを、俺は嬉しいと思った。




