♤ 境界へ 1
「少し休もう。もうすぐ山を抜ける。」
「…はぁ、…はぁ。わかり!…ました!」
水筒を彼女に勧めながら、周囲を確認する。
異常もなく山間部を抜け、行程の4分の1を通過した。
慣れない山歩きに彼女は荒い息を吐いている。
大阪特区に向かうことを決めてから、諸々の準備に5日を擁した。
彼女は華奢に見えたが、想定より早く体力を回復し家の周囲を歩き回るまで時間はかからなかった。
好奇心も、旺盛で畑などを見て回り、料理なども披露してくれた。
「記憶喪失でも料理は覚えてるんですね」と少し嬉しそうに言っていた。
次に、名前がないと不都合があるということで、彼女の仮の名前をつけることを二人で決めた。
俺が夜に彼女を見つけて話をすると、「小夜子」に決まった。
仮とはいえ、「小夜子」という名前を彼女は気に入ったと喜んでいた。
◇
普段、特区に向かうのは半年に1度、短くても3ヶ月に1度程度。
自分では作れない日用品を仕入れるためだ。
特に服や調味料、嗜好品は自前で調達出来ないため、それらを得るために定期的に特区を訪れていた。
特区内で品物を仕入れるためには特区内通貨が必要となる。
基本的に特区はそれ自体が自給自足できる極小の国家といえる。
基本的な物は栽培され、生産され、特区内で消費されていく。
特区内の人間は昔と同じで、労働で通貨を得て、日々の生活と安全を買っている。
それとは別に俺のように、少数ながら特区外から出稼ぎのように足を伸ばす人間もいる。
当然、労働をして対価に通貨や品物を持って帰る人間もいる。
もしくは特区には無いモノや、付加価値のあるモノを売って通貨を得る方法もある。
俺は後者。付加価値のある物を売って通貨を獲得している。
具体的には昔に学んだ鍛冶師の腕で、包丁を作って特区内の商店へと卸し、そこそこの好評を得ていた。
俺の鍛冶の師は刀鍛冶だった。天才といって差し支えない腕の持ち主。
師のもとで学んだ短くない月日、俺は師を超えることはおろか、近づいたと思ったことはついに無かった。
師の作品に比べたら駄作しか作れない自分の腕に、俺は落胆し、いつしか刀はあまり打たなくなっていった。
それでも”生きるため”にと理想に背を向け、包丁を打ち出した。
包丁も刀にも尊卑はない。だが刀鍛冶として教えを乞うた自分が刀を打たなくなった。
今の自分を亡き師が見たらなんと言うだろう?精進しろとゲンコツをよこすか、失望するか…。
◇
休憩前よりも幾分重く感じるリュックを背負い直す。
休憩したの痕跡を念入りに消し、出発の準備をする。
「よし、行こう」
「あの五角さん…、」
「ああ、前も言ったが『真』でいい。五角は屋号みたいなもんなんだ。」
「わかりました、真さん。ここまでは特に何もなかったですけど…」
「出発のときも言ったが、屍は旧市街に近づくほど遭遇しやすくなる。小夜子のためにも可能な限り奴らに見つからないように進むから、必要以上に気を張りすぎるなよ。…こいつは万が一の護身用さ。」
そう言って俺は腰に専用の革ベルトで佩いた刀に手を置く。
師には到底及ばないが、自分で打った中では数少ない良作の一振り。
「それと、もう一つ。コレを使う。」
胸元から一枚の札を取り出す。
「これは陰陽術、『隠形』を印した札だ。術者の技量にもよるが、遠目では分からない位には姿を消せる呪いだ。見てな。」
札に呪力を通す。札に書かれた術式の定義により、周囲の霊子に作用を及ぼす。
◇
これは『隠形』。陰陽術の基本の符の一つ。
陰陽術とは法則を知り、それを読み、操る学問だ。
一定量の呪力を持っていて、正しい式の書き方さえ知っていれば空間に漂う霊子に働きかける事が誰でもできる。
屍災害以降は呪力をもって生まれる子どもが増えたそうだ。
これは、脅威に晒された人類の進化の一端ではないかと唱える学者もいた。
そして霊子。科学では観測されない高次元粒子、というのが学者が出した結論だった。
しかし、術式、呪術、呪法等でそれらを古くから扱ってきた者達にとって、それは目には見えないが、空気と同じで当たり前にある存在。そして現実世界を書き換える触媒と捉えていた。
また、稀に見えない霊子を見る特殊な瞳を持った人間もいる。
科学と、陰陽術を始めとした呪法は屍災害を契機に双方で大きな転換期をむかえていた。
◇
「おわっ!真さんがきえた!」
「ひと目では分からないだろ。手を伸ばしてくれ」
おずおずと小夜子が手を伸ばして、俺の腕に触れる。
「おおっ!見えたました!」
「コレが弱点なんだ。触られてしまうと術者は見えてしまう。あと、音や匂いとかも消えるわけじゃないから、至近距離なら気付かれる可能性が上がる。ただ、便利なところもあってな。いま、俺に触れている小夜子も周囲からは見えなくなっている。市街地はこの状態で移動するから見つかる可能性はかなり低くなると思う。」
「陰陽術って便利なんですね!私にも使えるようになれます?」
「一定量の呪力さえあれば使えるよ。練習次第で小夜子使えるんじゃないか。」
俺は自分のベルトにカラビナとロープを繋いで、小夜子に渡す。
「これからは、コレを掴んでいてくれ。くれぐれも音を出さないように注意すること。」
「はい!」
「じゃあ、行くぞ。」
まずは、目の前の旧国道を南下し、旧市街を目指す。
特区までの道のりはまだ半分以上残っている。




