第9話 三十年前の、もう一人の彼
あなたは、自分のためだけに書き留めた一行を、誰かに読まれたことがありますか。
朝陽にとって、それが今回でした。
雇われて、十五日目。
窓の外は、まだ薄暗い。
朝陽が机を拭き終え、お茶を淹れ終えた頃、廊下の方からマルクスが顔を出した。
「森田。館長が、お呼びだ」
「あ、はい」
朝陽は手を止めて、頭を下げた。
「すぐに、参ります」
「手帳、持っていけ」
マルクスは肩をすくめて、それだけ言って戻っていった。
朝陽は手帳を抱え、廊下を進む。
指先が、冷たかった。
——館長から、直接お呼びがかかるとは。
——何か、まずいことを、しただろうか。
心当たりは、ない、と思う。
ない、と思う、けれども。
朝陽は手帳を抱え直して、館長室の扉の前に立った。
深く、息をひとつ。
扉を、控えめに叩いた。
「お入りなさい」
朝陽は深々と頭を下げて、入室した。
***
ベルナルドは執務机に着いていた。
机の上に書類が整えて積まれている。
暖炉では薪が、ゆっくりと燃えていた。
「ご無沙汰しております」
朝陽は立ったまま、もう一度頭を下げた。
「お呼び立てして、すまないですな」
ベルナルドはペンを置いた。
「お茶を一杯、いかがかな」
「あ、はい。ありがとうございます」
朝陽は勧められた椅子に、浅く腰を下ろした。
——館長自ら、お茶を勧められるとは。
——これは、何か、重要なお話があるのだろうか。
ベルナルドは自らポットからカップに注いだ。
朝陽の前に、置く。
「最近、図書館の動きが、良いと評判です」
「いえ、皆さんが、頑張ってくださっているおかげです」
ベルナルドは、ゆっくりと頷いた。
頷いたきり、しばらく、何も言わなかった。
朝陽はカップを両手で受け取った。
お茶は、少し熱かった。
***
「ところで」
ベルナルドは手元の書類を軽く揃え直した。
「あなたは、仕事中、よく手帳に何かを書いておられますな」
「あ、はい」
朝陽は手帳を膝の上に乗せたまま、目を伏せた。
「議事録代わりに、思いついたことや、課題を、書き留めております」
「ほう」
ベルナルドは頷いた。
しわだらけの指が、机の縁に軽く触れた。
「もし、よければ」
ベルナルドはゆっくりと、言葉を継いだ。
「その手帳を、見せていただけますか」
朝陽はわずかに躊躇した。
——個人的なメモも、入っている。
——マルクスさんの、ため息の数まで、書いている。
——館長に、お見せする前提で、書いていない。
——あまり、お見せするようなものでは、ない。
けれど。
館長からの、お願いだ。
——業務指示として、受け止めよう。
***
「あ、はい。」
朝陽は手帳を三冊、机の上に並べた。
「雑記が多くて、見苦しいですが」
糸の解けかけた、古い一冊。
角の擦り切れた、二冊目。
今、使っている、三冊目。
「三冊」
ベルナルドは、しばらく見ていた。
「これは、ここに来てから書いたものですか」
「はい。だいたい、ですが」
ベルナルドは最も古い一冊を手に取った。
ゆっくりと、表紙を開いた。
朝陽は椅子の上で、姿勢を正した。
——読むのに、時間がかかるかもしれない。
——静かに、待とう。
ベルナルドのページをめくる音が、館長室に低く続いた。
***
ベルナルドはページを一枚ずつ、読み進めていく。
雑な字ではない。
ただ、丁寧でもない。
走り書きと、整った箇条書きが、ページごとに混ざっていた。
——課題リスト ver.1。
——登録番号の体系、棚ごとに不統一。
——索引、最新版 三十年前。
ベルナルドの目が、ページの上で静かに止まった。
——三十年。
短く、息を吸った。
次のページをめくる。
——マルクスさん、最近、お疲れの様子。お茶を多めに淹れる。
——司書たちの諍い。話を聞くだけで、治まることが、多い。記録に残す。
——自分にできない仕事は、できる人に振る。その人選を、間違えない。
しわだらけの指が、ページの上で止まった。
次の、見開き。
余白に小さく書かれた一行に、ベルナルドの目は完全に止まった。
——自分が特別じゃないということは、決して悲しいことじゃない。むしろ、楽だ。
誰かに見せるためでなく、ただ自分のために、書きつけた一行だった。
ベルナルドはページをめくらなかった。
***
ベルナルドは手帳を静かに閉じた。
朝陽は椅子の上で、手を膝の上に揃えていた。
目を伏せている。
ベルナルドは口をひとつ、ゆっくりと開いた。
——彼の手帳も、こうだった。
声には、出さなかった。
——三十年前、私の隣で、黙々と書きものをしていたあの男の手帳も。
ベルナルドの右手が、無意識に左手中指の指輪へと伸びた。
——彼も……『自分は、特別じゃない』が口癖だった。
——彼の書いた議事録は、宮廷魔導師団を支えていた。
——私たちは、彼に救われていた。
——なのに、誰一人、そうとは言わなかった。
——私自身も、言わなかった。
ベルナルドの指が、指輪の縁をひと撫でして、離れた。
——そして、彼は……。
ベルナルドは、深く息を吐いた。
その先は、独白の中ですら、続かなかった。
***
ベルナルドは、しばらく目を閉じていた。
まぶたを開けた。
「すまない、考え事を、していました」
ベルナルドは手帳を三冊、揃えて朝陽の方へ差し出した。
「あなたは、よくやっておられる」
「……」
「続けて、ください」
朝陽は手帳を両手で受け取った。
「ありがとうございます」
深々と、頭を下げる。
「引き続き、課題を片付けてまいります」
ベルナルドは何も言わなかった。
ただ、朝陽を見つめていた。
その視線が、いつもより長かったような、気がした。
朝陽は手帳を抱え直した。
——でも、見ているのは、たぶん、俺ではない。
——なぜか、そう思った。
朝陽はもう一度頭を下げて、退室した。
扉が、ぱたん、と静かに閉まった。
***
館長室に、静寂が降りた。
ベルナルドは椅子から立ち上がった。
窓辺へ、歩いていく。
王立図書館の中庭。
古い噴水。
水は冬の薄い光の中で、ゆっくりと跳ねていた。
——あの男も、こうだったのだ。
——何ひとつ、自分の手柄だとは言わなかった。
ベルナルドはしばらく、噴水を見ていた。
——……明日。
——もう一度、彼と話そう。
暖炉の薪が、ぱちん、とはぜた。
第9話をお読みいただき、ありがとうございました。
ベルナルド館長が、朝陽の手帳を初めて開く回でした。三冊の手帳――糸の解けかけた一冊目、角の擦り切れた二冊目、今使っている三冊目。
館長の目が止まった一行は、朝陽が誰に見せるためでもなく、ただ自分のために書きつけた言葉でした。
「自分が特別じゃないということは、決して悲しいことじゃない。むしろ、楽だ」
この一行が、三十年前に館長の隣にいたもう一人の男――特別な力を持たず、しかし宮廷魔導師団を陰で支えていた、あの男の手帳と重なります。
本作の伏線「ベルナルドの過去」が、ここから少しずつ語られていきます。指輪、三十年、もう一人の彼。気にとめておいていただけますと幸いです。
次話、館長が朝陽に昔話を始めます。が、朝陽は朝陽です。
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