第8話 先を、取られたくない
雑用係の名前が、王宮の閣下たちの会話に上がり始めた頃のお話です。
もちろん、本人は知りません。
雇われて、十三日目。
「森田さん、お茶お願い」
「森田、これ運んでくれ」
朝陽は雑巾を置き、ペンを止めた。
チェックリストの点検は、今日で七日目に入る。
お茶を淹れ直し、本を運び、また棚の前に戻る。
書架の前に立ち、手帳を開いた。
——今日も、課題リストから一つずつ消していこう。
朝陽は棚に手を伸ばした。
ペンの音が、朝の書庫に静かに混じった。
***
文書管理大臣府の私邸。
応接室の暖炉に、薪が二本くべられていた。
秘書官は、膝の上で書類を一度、整え直した。
革張りの長椅子に、白髪の男が深く腰を沈めている。
五十代の文書管理大臣。
秘書官は両手で、書類を一枚、大臣の前に置いた。
「閣下、例の雑用係について、調査を進めましたが」
大臣は書類に目を落とすが、ページはめくらない。
(——閣下のこの目の動きは、判断を保留する時のものだ)
秘書官は言葉を続けた。
「経歴は」
「不明です。ベルナルド・カインツ館長が、女神様の紹介状で受け入れたと、公式記録には」
「魔法適性は」
「ゼロ。剣術もなし。学識も、平凡です」
大臣はゆっくりと書類を閉じた。
指先で、革の表紙を一度、撫でる。
「……それでも、あの百年前の機密文書を、見つけたのか」
大臣は短く、息を吐いた。
「ベルナルドにだけは、また、先を取られたくない」
秘書官の背筋が、わずかに伸びた。
(——閣下が、ベルナルド館長の名を、こうして口に出される時)
(必ず、過去の何かを、思い返していらっしゃる)
秘書官は、書類の縁から目を上げなかった。
「彼を、我が派閥に取り込めるか。調査を続けよ」
「ベルナルドに、気取られぬようにでしょうか」
「そうだ」
大臣は革の表紙の上で、もう一度、指を止めた。
「彼が、ただの雑用係でないなら……我々は、先手を、打たねばならん」
秘書官は無言で頭を下げた。
***
第二書庫に、朝陽は戻った。
チェックリストの点検は、続いていた。
午後の遅い時間、書架の四段目に、薄い赤革の本が一冊、紛れていた。
登録番号と、書名が照合できない。
朝陽は手帳を開いて、紛失リストを確認した。
——書名一致。
四冊目の紛失本だった。
さらに最下段で、もう一冊が見つかった。
五冊目。
朝陽はマルクスの机へ、本を二冊抱えて歩いていく。
「すみません。また、紛失リストにあるようなのですが」
マルクスはペンを止めて、顔を上げた。
本を見て、しばらく動かない。
「……またか、お前さん」
「すみません、見つけてしまって」
「謝るところじゃない」
マルクスは天井を見上げた。
(——王宮も、そろそろ動くだろうな)
口には、出さなかった。
***
宮廷魔導師団の詰所。
窓辺に、長身の魔導師が立っていた。
ロドリゲス・ハンメルト。
緑の目が、王立図書館の方角を捉えていた。
(魔法も、使えない男が)
(なぜ)
ロドリゲスは窓枠に手を置いた。
(私は、五歳で見出され、二十歳で宮廷魔導師に登用された)
(才能の階段を、上ってきた)
ロドリゲスの口元が、わずかに歪んだ。
(あの男には、何の才能もない)
(なのに、なぜ、王宮が動く)
窓ガラスに、自分の顔が、薄く映っている。
(私が、認めてはならぬのは)
(私より、何も持たぬ男が)
(私の上に、立つことだ)
ロドリゲスは窓ガラスから目を逸らさなかった。
(——いずれにせよ)
(私は、彼を、試さねばならない)
背後で、声がかかった。
「ハンメルト殿。何を、独り言を」
ロドリゲスは振り返らなかった。
「いや、何も」
「気色の悪い顔を、なさっていらっしゃる」
「少し、王立図書館に、用事ができた」
ロドリゲスは窓に背を向けて、ローブの裾を払った。
紋章入りの白と銀のローブが、灯りに揺れた。
「魔導書の確認だ」
同僚の魔導師は、何も言わなかった。
ロドリゲスは詰所を出た。
***
王宮の別棟。
エディス・ファン・ロイデン王女の私室の隣の控えの間。
若い女官が二人、向き合って立っていた。
一人は、書類を挟んだ盆を抱えている。
「殿下に、王立図書館の例の件をご報告いたしました」
「殿下は、何と」
「『興味深いですわね』と」
「それで」
「『私が、直接、確認しに行きましょう』と、仰せに」
「殿下が、自ら……」
「ええ。機を見て、王立図書館へのご訪問を、と」
若い女官は、声を一段、低くした。
「文書管理大臣府の動きも、宮廷魔導師団の動きも、殿下は、把握していらっしゃるご様子で」
「では、殿下のご訪問は、両派には」
「お知らせしないとのことです」
「……承知しました」
もう一人の女官は、盆を抱え直し、廊下の方へ視線を投げた。
「私、一度、王立図書館で、その者を見かけました」
「あら」
「お茶を運んで、廊下を、急いでおりました」
「……それで」
「特に、何も。礼を、されました」
若い女官は短く、息を吸った。
「殿下に、お伝えしました?」
「申し上げました」
「殿下は、何と」
「……『そうでしょうね』と。それだけ仰せでした」
扉の向こうで、絹擦れの音が、すうっと過ぎていった。
***
夕方。
第二書庫の朝陽の机。
朝陽は手帳を開いて、課題リストのページの空白をペン先で数えた。
残り、千七百と少し。
ページを送って、業務日誌のページに書いた。
——本日、特に何もできず
——点検、五十冊
——紛失本、二冊
——書架の埃払い、十二棚
——司書からの雑用依頼、八件
——お茶、五杯
書き終えて、ペンを止める。
——点検七日目、紛失リスト五件、解消。
——明日の予定:第三書庫の続き、午後は第二書庫。
朝陽は手帳を閉じた。
窓の外で、二つの月が、薄く重なっていた。
——明日も、課題を片付けよう。
***
翌朝。
朝陽が出勤すると、マルクスがすでに机に着いていた。
朝陽は急いでお茶を淹れて、マルクスの机に置いた。
「すみません、遅くなりました」
「いや、いい」
マルクスはお茶に手を伸ばさなかった。
代わりに、机の上の一枚の書面を朝陽の方へ滑らせた。
「森田。第二魔導書庫の主任司書殿が、来週から、長期療養に入るそうだ」
「あ、それは、大変ですね」
朝陽は書面を覗き込みながら、頷いた。
手帳のページに、ペン先を一拍置く。
「……あの、お見舞いの手配は、必要でしょうか」
「いや、お前さんが、心配することじゃ、ない。ただ、後任が、来るそうでな」
「後任の方は」
「若き天才、らしい」
マルクスは肩をすくめた。
「アシュフィールド家のご令嬢——イルゼ・アシュフィールドだ」
「アシュフィールド……」
朝陽は手帳の前のページをめくった。
点検三日目の記録。
『アシュフィールド魔導理論』の項目。
「あの、すみません。関係、あるんでしょうか」
「ああ。あの本の著者は、彼女の母親だ。二十年近く前に、亡くなっている」
朝陽は、しばらく動かなかった。
それから、静かに手帳の新しいページに書き留めた。
——アシュフィールド主任司書、来週着任。引き継ぎ準備。
第8話をお読みいただき、ありがとうございました。
文書管理大臣、宮廷魔導師ロドリゲス、エディス王女側――王宮の三方向から、それぞれの思惑で朝陽が観察され始める回でした。
大臣の独白「ベルナルドにだけは、また、先を取られたくない」は、第10話で語られる「三十年前」の物語と繋がる伏線です。覚えていていただけると、後で「あっ」と思っていただけるかもしれません。
ロドリゲスがついに初登場しました。彼の「魔法も使えぬ男に何ができる」は、彼自身が後に苦しむことになる罠でもあります。本作の鏡像キャラとして、長く付き合っていただくことになります。
エディス王女はまだ声だけの登場ですが、後の章で本人が王立図書館にやってきます。
次話、朝陽が館長に手帳を見せる回です。三冊の手帳が、初めて誰かの目に触れます。
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