第7話 最近、なんか仕事が楽なんだよな……
あなたの職場にも、いるかもしれません。
いてくれるだけで、なんとなく仕事が回るようになる人が。
雇われて、十二日目の朝だった。
朝陽は雑巾を絞り、第二書庫の机を順に拭いていく。
お茶を淹れて、出勤してきた司書たちの机にカップを置いていく。
書架の前に立ち、手帳を開いた。
チェックリストの点検は今日で六日目に入る。
——今日も、課題を一つずつ片付けよう。
朝陽は棚に手を伸ばした。
一冊目を抜いて、登録番号を確認する。
ペンの音だけが、朝の書庫に静かに響いた。
***
マルクスは自分の机に着いた。
お茶のカップが、すでに机の上に置かれていた。
マルクスは椅子の背もたれに体重を預けて、カップを手に取った。
一口飲む。
ちょうどいい濃さだった。
机の上を見る。
昨日の貸出記録は、もう半分整理されていた。
督促状の山も、いつの間にか、何かが減っていた。
書類の流れが、なぜか、滞っていない。
マルクスはもう一口、お茶を飲んだ。
午前の早い時間。
第二書庫の他の机では、若い司書たちが、各々の作業に取り組んでいた。
ペンの音、紙のめくれる音。
マルクスは天井をぼんやりと見上げた。
それから、誰にともなく、口を開いた。
「……最近、なんか仕事が楽なんだよな」
半ば独り言だった。
近くの司書が顔を上げて、何か言いたげにマルクスを見たが、結局、何も言わずに自分の机に戻った。
マルクスはカップに口をつけ直した。
***
(……何が変わったんだ?)
マルクスは机の書類の山に視線を落とす。
いや、山と呼ぶには、今日のは少し低い。
(書類が流れている)
(止まっていない)
マルクスは思い返した。
書庫の本の場所が、分かりやすくなった。
探している本が、すぐ見つかるようになった。
誰に何を聞けばいいかが、はっきりしてきた。
朝、お茶が淹れられている。
紛失していた本が、次々と戻ってきている。
司書同士の小競り合いも、最近は聞こえてこない。
誰かが何かを言いかけると、すぐ近くで、誰かが黙って書類を揃え始める。
(……これ、全部)
(あいつ?)
マルクスは口の中で、呟いた。
声には出さなかった。
天井を、もう一度見上げる。
「いや、そんなはずは」
「あいつ、雑用係だぞ?」
今度は声に出した。
ただし、誰も聞いていなかった。
マルクスは机の書類を一枚、手に取った。
貸出記録の差し戻しだった。
差し戻しの宛先が、すでに整って書かれていた。
誰の字かは、見覚えがあった。
朝陽の字だった。
マルクスは紙を机の上に戻した。
(……いや、まさかな)
***
視界の端を、朝陽が通り過ぎた。
両手で、革表紙の本を三冊、抱えていた。
書架の正しい場所まで運んで、一冊ずつ戻していく。
動きに、力みがない。
淡々と、ただ並べる。
一仕事終えて、次の作業へ向かう途中で、朝陽がマルクスの机に気づいた。
「あ、おはようございます」
頭を下げる。
「お茶、おかわり、淹れましょうか?」
マルクスはカップを軽く持ち上げた。
「いや、まだあるから、大丈夫だ」
「分かりました」
朝陽はもう一度頭を下げて、廊下の方へ歩いていった。
マルクスは去っていく背中を、しばらく見ていた。
(……あいつ、気づいてないな)
***
マルクスは仕事を一旦止めて、朝陽を観察することにした。
書架の前に立つ朝陽。
手にしているのは、いつもの手帳。
ペンを構えて、本を一冊抜き、登録番号を見て、チェックリストを確認して、戻す。
次の本も、また同じ手順だった。
マルクスは机の上で頬杖をついた。
以前、朝陽の机に手帳が並んでいるのを見たことがある。
糸の解けかけた一冊目、表紙の角が擦り切れた二冊目、そして今抱えている三冊目。
(……あの手帳が、第二書庫を変えてるんだな)
マルクスはそこで言葉を止めた。
言ってしまうと、認めたことになる気がした。
***
マルクスは天井を見上げた。
「あの新人、来てから、まだ二週間も経ってないよな」
近くの机の司書が、ペンを止めて、こちらを見た。
マルクスはその視線には答えず、お茶のカップを傾けた。
残りを飲み干す。
(……二週間で、図書館の動きが、変わるか?)
(普通、変わらない)
マルクスは肩をすくめた。
深く息を吐く。
(……まあ、いいか)
(仕事が楽になるなら、それでいい)
マルクスは机の書類に視線を戻した。
ペンを取り直す。
次の差し戻しに、手を伸ばした。
***
同じ日の午後。
王立図書館の上階。
奥まった一室に、年配の男の机があった。
机の上に、革表紙の薄い一冊が置かれていた。
『中世王国魔導史 補遺巻』。
二十年、紛失扱いだった本。
五年前に、この男自身が探していた本だった。
男はしわの寄った指で、表紙を一度なで、それから自分の手帳を開いた。
ページの最後に、書きかけた。
まず、書かれていたのは、第二書庫の最近の動きについての短いメモだった。
——本の流れ、改善傾向。
——紛失リスト、解消、進行中。
——担当:第二書庫主任、補助:マルクス・ヘルダー。
男はそこでペンを止めた。
しばらく考える。
補助のさらにその下に、もう一行を書き足した。
——雑用係、新人。
ペンが止まる。
もう一拍、置いた。
——森田朝陽。
書いて、ペンを戻した。
しわだらけの手で、手帳を閉じる。
男は窓の外を、ゆっくりと見た。
午後の光が、王立図書館の中庭に、まっすぐ差し込んでいた。
第7話をお読みいただき、ありがとうございました。
マルクスのため息混じりの一言――「最近、なんか仕事が楽なんだよな……」。本作で最初に「3視点の乖離」が読者の手触りとして立ち上がる、大事な一行です。
朝陽本人は気づきません。マルクスは半分気づいて、しかし、それを口に出すと「認めたことになる気がして」言わない。そして読者の皆さまだけが、両方を知っている。
この「読者だけが知っている」感覚を、本作は最終話まで通奏低音として続けていきます。
マルクスがいつ、それを朝陽本人に伝えるのか――あるいは、伝えないままなのか。よろしければ最後までお付き合いください。
ラストで言及された「年配の男」は、第6話で『中世王国魔導史 補遺巻』を朝陽から受け取った、あの老司書です。彼が朝陽の名前を手帳に書き留めた瞬間でした。
次話、王宮側の駒が静かに動き始めます。新キャラ二名が初登場予定です。
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