第10話 君に少し、昔話を
大事な話の途中で、雑用係の本能が発動してしまうことが、たまにあります。
お茶のおかわりを淹れに行ってしまう、とか。
雇われて、十六日目。
午前の半ばに、廊下からマルクスが顔を出した。
「森田。館長がまたお呼びだ」
「あ、はい」
朝陽は雑巾を置いて、頭を下げた。
「手帳、持っていけ」
マルクスは肩をすくめて、廊下を戻っていった。
朝陽は手帳を抱え、廊下を進む。
窓の外に薄い陽が差し始めている。
昨日よりも、少し白い光だった。
——昨日も、館長室。手帳をお見せした。
——「あなたは、よくやっておられる」と、お言葉をいただいた。
——続けてください、と。
——二日続けてお呼びがかかるとは。
——昨日のお叱りではない。お言葉はいただいた。
——では、今日は何だろう。
朝陽は手帳を抱え直し、館長室の扉を控えめに叩いた。
「お入りなさい」
朝陽は深々と頭を下げて入室した。
***
暖炉では薪がゆっくりと燃えていた。
執務机の上に湯気の立つカップが二つ。
ベルナルドは、自らポットをカップに傾けていた。
「お茶を淹れてあるよ。座りなさい」
「あ、ありがとうございます」
朝陽は勧められた椅子に浅く腰を下ろした。
——館長自らお茶を。昨日に続いて。
——重要なお話、だろうか。
朝陽は手帳を膝の上に置き、ペンを持った。
「業務の話ではないんだ」
ベルナルドは、ゆっくりとカップを持ち上げた。
「少し昔話をしようと思ってね」
「あ、はい」
朝陽は手帳のページを新しく開いた。
「では、メモを取らせていただきます」
ベルナルドは、わずかに頷いた。
「私がまだ若かった頃の話だ」
ベルナルドはお茶を一口含んだ。
カップをゆっくりと机に戻した。
***
「三十年前」
ベルナルドは、視線を暖炉の方へ流した。
「私は、宮廷魔導師団のエースだった」
「……」
「四十代の半ば。二級魔導士。一級昇進も時間の問題だと、誰もが言っていた」
ベルナルドの右手が、無意識に左手中指の指輪に伸びた。
昨日と、同じ仕草だった。
ただ、今度は、すぐには離さなかった。
「魔導師団は、十二人の精鋭だった」
「私たちは、王国の最大の戦力だった。戦争でも内乱でも、私たち十二人の一撃で、局面が変わった」
「皆、才能で道を切り開いてきた者ばかりだった」
ベルナルドは指輪の縁をひと撫でする。
「だが、その十二人の中に一人だけ」
「魔法を使えない男がいた」
朝陽は、手帳のペンを止めた。
「事務官だった。書類仕事の」
***
「彼は、議事録を取った」
ベルナルドの声は、低くゆっくりとしていた。
「マニュアルを作った。報連相の流れを整えた」
「私たちは、彼を軽視していた」
「『魔法も使えない男に、何ができる』と、口にした者もいた」
「私自身も、そう思っていた時期があった」
朝陽は、手帳に何かを書きつけている。
「だが、彼がいなければ、私たちの作戦は何ひとつ回らなかった」
「補給。戦況の伝達。後の世代の育成」
「そのひとつひとつまで、彼がいなければ」
「私たちは、戦場で飢えていた」
「彼は最後まで」
「『自分は、特別じゃない』が口癖だった」
ベルナルドは、ゆっくりと左手中指の指輪を外した。
古びた銀の指輪を机の上に置く。
暖炉の明かりが、にぶくその縁に映った。
「彼に、誰一人」
「『君は、特別じゃないままで、すごい』と、言わなかった」
「私自身も言わなかった」
ベルナルドの声がわずかに震えた。
***
ベルナルドは、朝陽を見た。
朝陽は手帳にペンを走らせている。
——熱心に、聞いてくれているのか。
ベルナルドは、口元をゆっくりと開いた。
——彼は今何を書いているのだろう。
「彼は、ある日突然」
ベルナルドの言葉が、わずかに途切れた。
「私たちの前から……」
ベルナルドが、その先を語ろうとした。
その瞬間。
朝陽が椅子からふと立ち上がった。
「すみません。お話の途中で」
朝陽は深々と頭を下げる。
「お茶を淹れてきます」
ベルナルドは、口を開いたまま、朝陽を見た。
「お話がお長くなりそうでしたので」
「お喉がお渇きになるかと思いまして」
朝陽は、もう一度頭を下げた。
「すぐに戻ります」
扉が、ぱたん、と静かに閉まった。
***
館長室から、朝陽の足音だけが廊下の方へ遠ざかっていく。
ベルナルドは、机の上に置かれた朝陽の手帳に目を落とした。
開かれたままの、ページ。
そこに走り書かれていたのは、一行だった。
——館長のお話、長い。お茶、減ってる。おかわり要。雑用係の役目。
ベルナルドは、しばらく、その一行を見ていた。
深く、息を吐いた。
——あの男も、こうだったのだ。
ベルナルドは、椅子の背もたれに体重を預けた。
——自分のことを語っているのに何も気づかず。
——誰かのために、お茶を淹れに行く。
暖炉の薪が、ぱちん、とはぜた。
——私は、あの男にもっと早く伝えるべきだった。
——『君は、特別じゃないままで、すごい』と。
——だが、もう遅い。
ベルナルドの右手が机の上の指輪をそっと包んだ。
***
ベルナルドは、指輪を左手の中指に戻した。
——今度こそ、間違えない。
廊下の奥から足音が戻ってくる。
ベルナルドは、息をひとつ整えた。
扉が控えめに叩かれた。
「失礼します。お茶のおかわりをお持ちしました」
朝陽が、新しいポットを抱えて入室する。
「ああ、ありがとう」
ベルナルドは、ゆっくりと、頷いた。
「昔話は、また今度にしよう」
「はい」
朝陽は、ポットを机に置く。
「お時間ある時に、ぜひ」
朝陽は、頭を下げて、ベルナルドのカップに新しいお茶を注いだ。
湯気が、ゆっくりと立ちのぼっていく。
ベルナルドは、その湯気の向こうに朝陽の伏せた顔を見ていた。
その視線は、いつもより長かった。
第10話をお読みいただき、ありがとうございました。
館長の三十年前の話。本作の核となる、もう一人の「特別じゃないままで、すごい男」の物語が、今回ようやく語られ始めました。
しかしご覧の通り、肝心のところで朝陽はお茶を淹れに行ってしまいます。机に開かれたままの手帳には、ただ一行――「館長のお話、長い。お茶、減ってる。おかわり要。雑用係の役目」。
ベルナルドの独白「君は、特別じゃないままで、すごい」は、彼が三十年前、もう一人の彼に伝えそびれた言葉です。今度こそ伝えるべきか――その葛藤は、これからの章で、ゆっくり描いていきます。
なお、ベルナルドが語りかけた昔話の続きは、第二部のどこかで再開する予定です。お待ちいただけますと幸いです。
次話、朝陽が「正規の司書見習い」に昇格します。本人は「断ったのに」と困惑します。
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