第11話 正規司書、お断りしようとしたんですが
昇進の打診を、本気で「行政上のミスでは」と疑ったことはありますか。
朝陽はあります。今日です。
雇われて、十七日目の朝だった。
朝陽は雑巾を絞り、第二書庫の机を順に拭いていく。
桶の水は、もう冷たくない。
窓の外は白い光で満ちていた。
昨日よりも、また少し明るい。
お茶を淹れて、司書たちの机にカップを置いていく。
「森田さん、お茶お願い」
「森田、これ運んでくれ」
頼まれごとが自然に飛んでくる。
朝陽ははい、はい、と順に返事をしていく。
書架の前に立ち、手帳を開いた。
昨日の続き、命名規則統一。
——今日も、課題を一つずつ。
マルクスが机の上で頬杖をつき、カップに口をつけた。
「ふぅ……最近、本当に楽だわ」
ぽつり、と独り言のように呟く。
***
午前の半ばだった。
廊下から館長秘書の伝令が顔を出した。
「森田さん。館長がお呼びです」
「あ、はい」
朝陽は雑巾を置いて頭を下げた。
マルクスがぽかんと顔を上げた。
「お前さん……最近、呼ばれすぎだろ」
「すみません。何か粗相をしてしまったかもしれません」
朝陽は手帳とペンを持ち、廊下へ出た。
——昨日も、お呼びがあった。
——おとといも、お呼びがあった。
——今日も、お呼びとは。
——昔話の続き、だろうか。
——それとも、また、何か。
朝陽は廊下の角を曲がる。
胃のあたりがひんやりとした。
***
「お入りなさい」
朝陽は深々と頭を下げて入室した。
ベルナルドの執務机の上に、書類の束が一つ置かれていた。
「お座りなさい」
昨日と同じ椅子だった。
「失礼いたします」
「本日は、業務指示が一つあります」
ベルナルドの声はいつもの低くゆっくりとした調子だった。
「はい、何でも仰ってください」
朝陽はペンを構えた。
ベルナルドは机の上の書類に、しわの寄った指で軽く触れた。
「あなたを『雑用係 兼 見習い司書』から、第二魔導書庫の正規の司書見習いに登用いたします」
朝陽の手が止まった。
「……はい?」
「給料は五割増し。住居は職員寮の中棟へ移ってもらう」
「第二魔導書庫の正式な所属となります」
ベルナルドはゆっくりと言葉を切った。
朝陽はペンを持った手のまま固まっていた。
***
「あの、すみません」
朝陽はペンを置いた。
手帳を膝の上で両手で包んだ。
「それは……私のような者には、とても」
「私には、魔法も、学識も、ありません」
「正規の枠に入れていただきましても、皆様のご迷惑になるかと」
「雑用係のままで十分です」
朝陽は深々と頭を下げる。
頭を下げたまま顔を上げない。
「申し訳ありません。せっかくのご提案、ですが」
ベルナルドは口を開いた。
「あなたは……」
ベルナルドの言葉がわずかに途切れた。
ベルナルドは息をひとつついた。
朝陽は頭を下げたまま考えている。
——館長のご厚意を無下にするのは心苦しい。
——だが、雑用係でも図書館に貢献できるなら。
——それで十分なはずだ。
***
ベルナルドは深く息を吐いた。
「これは、決定事項です」
「は……?」
「書類はすでに整えてあります」
「ヴィルヘルム総括長を通して、王宮へ上げる手筈になっています」
「あなたが断っても、もう変更できません」
「えっ……」
「拝命していただけますかな」
朝陽は数秒、黙った。
頭の中で業務指示として整理し直す。
——指示は決定事項。
——変更不可。
——拝命するほかはない。
「あ、はい」
「すみません、ご面倒をおかけしまして」
「ありがたく拝命させていただきます」
朝陽は深々と頭を下げた。
***
朝陽が館長室を出る。
扉が、ぱたん、と閉まった。
廊下の角に、マルクスが立っていた。
「どうだった」
「あの、正規の司書見習いに登用されました」
マルクスのカップを持つ手が止まった。
「……は?」
「ヴィルヘルム総括長から王宮へ、書類が上がる手筈だそうです」
「館長権限で決まっていることらしくて」
マルクスは天井をぼんやりと見上げた。
(……こいつ、本気で『なんで自分が』って顔してる)
「いや、お前さん」
「これは、喜ぶところ、だぞ?」
「いえ」
朝陽は首を振った。
「館長代理が体調を崩されたか、何かで」
「人手が足りないのだと思います」
「一時的なものでしょう」
(……いやお前)
(館長は『決定事項』と、はっきり言ったんだろうが)
(『代理が体調崩した』なんて、一言も)
マルクスは深いため息を吐いた。
「まあ、いいや」
「とりあえず、おめでとう」
「ありがとうございます」
朝陽は深々と頭を下げる。
顔は本気で困惑していた。
***
場面が変わる。
王立図書館の上階、奥まった執務室。
窓辺の机に痩身の男が座っていた。
銀混じりの黒髪を後ろで束ね、灰色の鋭い目を書類に落としている。
ヴィルヘルム・ヘンドリック。
司書総括長。
机の上にベルナルド館長から回ってきた登用書類が一枚。
ヴィルヘルムは書類の文面を静かに読んだ。
(——森田朝陽。雑用係から、正規の司書見習いへの登用。)
(——王立図書館史上、前例のない人事である。)
(——文書管理大臣府は、我々の人事介入と取らぬよう動くであろう。)
(——宮廷魔導師団派は、おそらく、笑うであろう。)
(——エディス王女側は——読めぬ。)
ヴィルヘルムは印を書類の右下に押した。
粛々と、迷いなく。
(——私は政治的な解釈をしない。)
(——閣下の決定を行政的に執行するのみ。)
ヴィルヘルムは印を置く。
机の引き出しから自分の手帳を取り出した。
ペンを走らせる。
——森田朝陽:正規司書(見習い)に登用。
短い一行だった。
(——だが、あの男は、観察を続けねばなるまい。)
***
文書管理大臣府の応接室。
書類の写しはすでに大臣の手元にあった。
脇に控える秘書官が静かに頭を下げた。
「閣下のご指示通り、『ベルナルド独断』として伝わるよう、手は打っております」
「そうだ」
大臣は書類を軽く指で叩いた。
「引き続き、観察せよ」
***
宮廷魔導師団の詰所。
ロドリゲスは窓辺に立ち、王立図書館の方角を見ていた。
報せはすでに耳に入っていた。
「魔法も使えぬ者を、司書、か」
口元がわずかに歪む。
(……ベルナルドめ、何を、考えている)
「ベルナルドも、耄碌したものだ」
***
王宮、エディス王女の私室。
女官が扉の外で静かに頭を下げた。
「殿下。森田朝陽が、正規の司書見習いに登用されたとの報せが」
扉の向こうから王女の声だけが返ってくる。
「興味深いですわね」
「次の図書館訪問が楽しみになりましたわ」
***
夜。
まだ古い宿舎の机の上。
朝陽は蝋燭の前で手帳を開いた。
今日のページにペンを置く。
——本日、特に何もできず
——机拭き、八卓
——お茶、四杯
——命名規則統一、十三冊
——もらった書類:一件
——見習い司書に、昇格
——雑用係の業務:継続
——明日の予定:命名規則統一、続き
書き終えてペンを止める。
——肩書きが変わっただけで、やることは変わらない。
——それで十分だ。
朝陽は手帳を閉じた。
蝋燭の火がふっと消える。
第11話をお読みいただき、ありがとうございました。
雑用係から、正規の司書見習いへ。給料は五割増。住居は職員寮の中棟。王立図書館史上、前例のない人事です。
ですが、朝陽は「館長代理が体調を崩されたか、何かで」「一時的なものでしょう」と本気で受け止めてしまう。マスター文書の「凡人自認装置」十箇条のうち、四番目(昇進打診を断るが上司権限で就任させられる)と九番目(『代理が体調崩したから一時的に』と思い込む)が、今回まとめて発動しています。
司書総括長のヴィルヘルム・ヘンドリック殿が初登場しました。各派閥の動きが、ここから少しずつ表に出てきます。
次話、朝陽は新たに着任する第二魔導書庫主任のために、二百ページの「業務引き継ぎ書」を作り始めます。本人にとっては、ただの引き継ぎです。
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