第12話 第二魔導書庫に、新しい主任が来るらしい
新任の上司の机に置く資料を、徹夜で整える、あの感じ。
異世界でもやります。当然です。
雇われて、十八日目の朝だった。
朝陽は雑巾を絞り、第二書庫の机を順に拭いていく。
肩書きが変わっても、机の埃は同じところに溜まる。
お茶を淹れて、司書たちの机にカップを置いていく。
マルクスのカップを置いたときだった。
「森田。例の話、いよいよだ」
マルクスは紙束を一枚握っていた。
「あ、はい」
「現主任司書殿が、今週から長期療養に入られた」
「あ、それは大変ですね」
「お見舞いの手配が必要ですか」
マルクスは天井をぼんやりと見上げた。
「いや、お前さんが、心配することじゃ、ない」
「後任が、来週、着任するそうでな」
「アシュフィールド家の……イルゼ・アシュフィールド」
「はい。先週、お伺いしました」
朝陽は手帳をめくった。
先週のページに、自分の字で一行だけ書かれている。
——アシュフィールド主任司書、来週着任。引き継ぎ準備。
もう少し前のページをめくる。
——『アシュフィールド魔導理論』。三大失伝書のひとつ。著者、別人物。
「あの、ご家系のお名前、ですよね」
「ああ。あの本の著者は、彼女の母親だ」
「二十年近く前に、亡くなっている」
***
場面が変わる。
王立図書館の上階、奥まった執務室。
ヴィルヘルム・ヘンドリックは机の上に広げられた公文書を読んでいた。
銀混じりの黒髪を後ろで束ね、灰色の鋭い目を一行ずつ落としていく。
——第二魔導書庫主任司書の後任として、イルゼ・アシュフィールド魔導士二級を派遣する。
ヴィルヘルムはペンを置いた。
(——アシュフィールド家の。)
(——すべての派閥が了承した、稀な中立人事である。)
(——だが、各派閥の腹は、それぞれ別であろう。)
(——文書管理大臣府も、宮廷魔導師団派も、それぞれの思惑で動く。)
(——とりわけ、エディス王女側は——読めぬ。)
ヴィルヘルムは灰色の目を書類から逸らさなかった。
(——各派閥の目的が交錯する中、私はイルゼと森田、両者の形式上の上司となる。)
(——天才と凡人。私はどちらの派閥にも与しない。)
ヴィルヘルムは派遣決定の書類の決裁欄に印を入れた。
粛々と、迷いなく。
机の引き出しから手帳を取り出す。
ペンを走らせた。
——イルゼ・アシュフィールド着任予定。第二魔導書庫担当。森田朝陽との接触を観察。
短い一行だった。
(——あの男は、観察を続けねばなるまい。)
(——天才の前で、何を、するのか。)
***
場面が戻る。
第二魔導書庫。
朝陽は手帳の新しいページに、項目を書き出した。
——新主任着任に向けた引き継ぎ準備
——一、第二魔導書庫の業務マニュアル整備(章立て・索引付き)
——二、引き継ぎドキュメント作成(現状・課題・進行中プロジェクト)
——三、主任室の清掃、必要資料の整理
——四、司書一覧と各人の役割・専門領域
——五、王立図書館全体の組織図(司書総括長・館長・各書庫主任の関係)
書き終えてペンを止める。
——新しく赴任される方のために、できるだけ整えておこう。
——前職でも、引き継ぎが粗いと、後で問題になることが多かった。
——着任翌日から、業務に支障が出ないように。
朝陽は項目の一つに丸をつけた。
——一から、始めよう。
朝陽は別の手帳を取り出した。
業務マニュアルの草案を、白紙のページに書き始める。
***
マルクスは机の上で頬杖をつき、朝陽の手元を横目で見ていた。
革表紙の書類が机の上で少しずつ厚みを増している。
「お前さん」
「はい」
「何でそこまで丁寧にやるんだ」
「新主任が来るってだけだろ」
「俺なら、せいぜい机を片付ける程度だぞ」
朝陽は手を止めて顔を上げた。
「いえ、新しく赴任される方が、業務をスムーズに引き継げるようにと思って」
「特にイルゼ様は天才と評判ですから」
「本来の業務に集中できる環境を整えるのが、私のような雑用係……失礼、見習い司書の役目だと思います」
朝陽は頭を下げて、ペンを書類に戻した。
マルクスは肩をすくめた。
(……新主任の机にまで、お茶を運ぶ気か、こいつ)
(……まあ、本人がやりたいなら)
(あの天才の前で、お前さんがどう動くか)
(俺は、見せてもらうぞ)
マルクスはカップに口をつけた。
「ま、お前さんがやりたいなら、好きにしろ」
「ありがとうございます」
朝陽はまたペンを動かし始めた。
***
数日かけて、書類は仕上がっていった。
ある夕方の第二書庫。
朝陽の机の上に、革表紙の書類が一冊置かれている。
表紙には朝陽の整った字でこう書かれていた。
——第二魔導書庫 業務引き継ぎ書 vol.1 / 編集 森田朝陽
章立て、六章と巻末。
概要、業務フロー、蔵書管理、司書名簿、進行中プロジェクト、他書庫との連携。最後に用語集と索引を付けた。
朝陽は表紙を閉じた。
——これで、新主任が着任した翌日から、業務に支障が出ないはずだ。
——念のため、明日もう一度、見直そう。
***
文書管理大臣府の応接室。
大臣の手元には派遣決定の通知が一枚。
「アシュフィールド家は、政治色がない」
「我々の人事介入として疑われる心配もない」
「問題ない」
大臣は書類を脇へ置いた。
***
宮廷魔導師団の詰所。
ロドリゲスは窓辺で、王立図書館の方角を見ていた。
(……天才のイルゼが行けば)
(あの雑用係も、本性を見せるであろう)
「天才の前で、ボロが出るのも、時間の問題か」
口元がわずかに歪んだ。
***
王宮、エディス王女の私室。
女官が扉の外で頭を下げた。
「殿下。新主任として、アシュフィールド家のイルゼ様がご派遣されるとの報せが」
扉の向こうから王女の声だけが返ってくる。
「興味深い組み合わせですわね」
「私の図書館訪問は、もう少し延期しましょう」
「彼女の評価が定まってからでも遅くはありませんわ」
女官は深く頭を下げた。
いずれの動きも、朝陽は知らない。
***
その夜。
古い宿舎の机の上。
蝋燭の前で朝陽は手帳を開いた。
今日のページにペンを置く。
——明日、新主任着任
——まず挨拶。業務引き継ぎドキュメントを渡す
——お茶も準備しておく
——天才と評判の方なら、業務引き継ぎは効率的に進めたいだろう
——私のような者の説明は、最小限に
書き終えてペンを止める。
——明日も、一日が始まる
——それだけのことだ
朝陽は手帳を閉じた。
蝋燭の火がふっと消える。
第12話をお読みいただき、ありがとうございました。
新主任のために、業務マニュアル、引き継ぎドキュメント、組織図、司書名簿、用語集に索引まで。朝陽が数日かけて、革表紙の引き継ぎ書を仕上げました。
「天才と評判の方が、本来の業務に集中できる環境を整える」。ただそれだけのことを、彼は当たり前にやってのけてしまいます。前職で身についた、新任への迎え入れの作法。
次話、ついに第一部のヒロイン――イルゼ・アシュフィールド魔導士二級が、第二魔導書庫に着任します。
暗紅色のロングヘアに、黒革の手袋。神童として王立学院を首席卒業した、若き天才。
彼女は、平凡な雑用係上がりの見習い司書を、最初どう見るでしょうか。第一部、最後の三話(13〜15話)が、ここから始まります。
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