第5話 雑用係の、何もない一日
今日は山場のない一日です。
ですが、朝陽の業務日報は、こういう日にこそ書かれます。
雇われて、五日目の朝だった。
王都の朝の空気は冷たい。
朝陽は宿舎の扉を閉めて、石畳の路地に足を下ろす。
白い息が、まだ暗い空にゆっくりと流れていった。
足音だけが、まだ寝ている街の中で、はっきりと響いた。
王立図書館の裏口に回って、雑用係の鍵で扉を開ける。
館内はまだ、誰もいない。
朝陽は雑巾を絞り、第一書庫から順に、書架の下段の埃を払っていった。
雑巾の繊維が白い綿のような埃を吸い取っていく。
——埃というのは、どこから来るのだろう。
——前の世界でも、毎朝、同じことを思っていた気がする。
雑巾を絞り直す。
水が桶の中で、澄んだ茶色になった。
朝陽はもう一度、雑巾を絞った。
***
午前の早い時間。
マルクスが第二魔導書庫に出勤してきた。
朝陽はちょうど、机の周りに箒をかけ終えたところだった。
「お茶を淹れますね」
「ああ、すまんな」
マルクスは椅子の背もたれに体重を預けた。
ため息が長く流れた。
「最近の若い司書は、なあ……」
マルクスは机の書類の山に視線を落とす。
朝陽はお茶を運び、湯気の立つカップをマルクスの机に置いた。
「俺がこの図書館に入った頃は、もっと気合が入ってたんだぞ」
「それが今や」
マルクスはカップに口をつけた。
「給料も上がらん」
「妻には『あなた、出世できないわね』と言われる始末だ」
朝陽は黙ったまま、別の机の書類を揃え始めた。
マルクスはこちらを見ていない。
机の書類の山を見ているだけだった。
——独り言なのだろう。
朝陽はそう判断して、口を挟まなかった。
紙の角を揃えながら、頭の中で数える。
——マルクスさんがため息をついた回数:今朝、すでに、四回。
——お茶を多めに、淹れよう。
***
雑用の合間。
朝陽は自分の机で、手帳を開いた。
新しいページに表題を書く。
——課題リスト ver.2
——優先度A:第三書庫の崩れかけた書架の補修依頼
——優先度B:命名規則統一プロジェクト(進捗 二百十五/二千冊)
——優先度C:索引の更新停滞
書き終えて、朝陽はペンを止めた。
優先度を整理すると、頭が落ち着く。
明日の自分のための贈り物のようなものだった。
ふと、ペンが動いた。
手帳の余白にもう一行を書き加える。
——チェックリスト草案(蔵書点検用)?
書いて、自分で首をかしげる。
——いや、いつか余裕ができたら、考えよう。
——蔵書点検は、たぶん、まだ先の話だ。
朝陽は手帳を閉じかけて——
もう一行、思いつきで書き足した。
——マルクスさん、最近、お疲れの様子。お茶を多めに淹れる。
書き終えて、手帳を閉じた。
***
午前。
第二魔導書庫の天井は、思いのほか高かった。
古い梁。
その梁の隙間から、斜めに差し込む光線。
光の中で、埃がゆっくりと舞っていた。
書架の影に革表紙の本が並ぶ。
朝陽は両手で重い本を抱えて、書架の間を歩く。
新しく登録された蔵書の配架を頼まれていた。
司書たちは各々の机で、黙々と書類を扱っている。
ペンの音、紙のめくれる音、誰かの咳払い。
会話は、ない。
朝陽は配架を一冊ずつ、所定の棚に戻していく。
途中、見習いの司書が無言で書類を差し出してきた。
朝陽はそれを受け取って、別の机へ運んだ。
廊下を抜け、また書庫に戻る。
足音と、本の重さと、革表紙の手触り。
——書類は、人から人へ、ゆっくりと渡っていく。
——途中で、止まったままのものもある。
——止まった書類が、机の上で、少しずつ積み上がっていく。
***
昼。
図書館の裏口の小さな中庭。
朝陽はベンチの端に座って、パンを取り出した。
雑用係の薄給では、昼食はパン一個と水で精一杯だ。
足元に雀のような小さな鳥がちらちらと寄ってきた。
朝陽はパンの端を少しだけ、ちぎって落とした。
「お前さん、それだけか?」
マルクスが廊下から顔を出した。
「はい、十分です」
「前の世界では、昼食を取れない日もありましたので」
マルクスは何かを言いかけて——
空を一度、見上げた。
それから、廊下に戻っていった。
***
午後。
朝陽は第二書庫の片隅で、背表紙の剥がれかけた本を修繕していた。
マルクスから修繕用の糊と糸を分けてもらっていた。
慎重に糊を塗り、糸で綴じ直す。
一冊三十分。
——修繕は、議事録に似ている。
——元あった形に戻すだけ。
——新しいものを作るわけではない。
夕方までに、三冊。
それだけで、午後が終わった。
マルクスが横を通る。
「ご苦労さん」
「いえ、誰でもできる作業ですので」
マルクスは何も言わずに、自分の机へ戻った。
朝陽は修繕道具を片付ける。
それから、もう一度、お茶を淹れた。
いつもより、少し濃く。
マルクスの机に湯気の立つカップを置いて戻る。
***
夕方。
朝陽は図書館の裏口を出て、宿舎へ向かう道を歩いた。
夕焼けが石畳の上に長い影を落としている。
街灯のない裏道は、夜が早い。
空には、二つの月。
——異世界も、夜は静かだ。
朝陽はポケットから、宿舎の鍵を取り出した。
金属の鈍い、ずっしりとした重み。
扉を開けて、閉める。
冷えた部屋の空気が頬に触れた。
***
宿舎の小さな机の上に蝋燭を置く。
朝陽は手帳を開いた。
——本日、特に何もできず
——命名規則統一、十冊
——本の修繕、三冊
——書類回付、二十件
——お茶、六杯
書き終えて、ペンを止めた。
——今日も、課題を百くらい片付けたが、まだ千以上ある。
朝陽は手帳を閉じる。
蝋燭を吹き消した。
ベッドに横になる。
——明日も、課題をひとつずつ、片付けよう。
——チェックリスト草案、明日、書いてみるか。
天井の暗がりがゆっくりと、まぶたの裏に降りてきた。
第5話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回はあえて「何も特別なことが起こらない一日」を描きました。雑巾を絞り、お茶を淹れ、書類を運び、本を修繕する。それだけの一日です。
本作は派手な事件で押し続ける作品ではありません。地味な日々の積み重ねが、いつの間にか何かを変えてしまう――その手触りを大事にしています。ですので、こういう「凪」の回を時々挟ませてください。
ただ、お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、朝陽の手帳には今日「チェックリスト草案」という一行が書き加えられました。明日、彼はそれを実行に移します。
次話、チェックリストが王立図書館で動き始めます。そして、十年探されてきた一冊が、思わぬ場所から見つかります。
★評価・ブックマーク・感想、お時間あれば一言だけでも残していただけますと、明日のペンが軽くなります。




