第4話 これ、私宛じゃないですよね?
自分宛の表彰状を、行政の手違いだと思い込んだことのある方、いらっしゃいますか。
いない。普通、いないですよね。今回はそういう話です。
翌朝。
書庫の床に、朝の光が斜めに差し込んでいた。
昨日、応接室で大臣の前に立っていた件は、朝陽の頭の中ではすでに『処理済み』の欄に格納されていた。
朝陽は箒を動かす。
遠くの廊下から、司書たちの会話が漏れ聞こえてきた。
「昨日のあれ、夢みたいだったな」
「文書管理大臣の閣下が、こんな所にお見えになるなんて」
「あの新人——まだ命名規則の整理を続けてるよ」
朝陽は箒を握り直した。
廊下の声は、朝陽の耳には届いていた。
ただ、自分のことを言われているという結びつけが、頭の中では起きていなかった。
——昨日の件は、たぶん、一段落したのだろう。
——あとは粛々と、続けよう。
手帳の課題リストを頭の中でなぞる。
残り、千八百冊。
一日二百冊で、九日。
雑用係の合間でやるなら、もう少しかかる。
朝陽は雑用係の朝の業務に戻った。
お茶を淹れ、書類を運び、また床を掃く。
***
午前。
王立図書館の正面玄関に、王宮の伝令が一人、訪れた。
胸に紋章のある若い男だった。
革張りの書状箱を抱えていた。
「文書管理大臣府より、感謝状をお届けに上がりました」
受付の司書が、ぴたりと固まった。
しばらく、何も言葉を返さなかった。
それから、廊下を小走りで駆けてきた。
マルクスは机の上の書類を半分ほど整理し終えたところだった。
「ヘルダーさん、王宮から、書状が」
「……書状?」
マルクスは顔を上げた。
受付の司書の手の中に、革張りの書状箱があった。
「宛名が、その、ですね」
司書は書状箱をマルクスの前に置いた。
箱の上に、宛名の紙片が貼られていた。
マルクスは目で文字を追って——
……動きを止めた。
——『王立図書館 雑用係 森田朝陽 殿』
(……雑用係宛の王宮感謝状?)
(王国史上、聞いたことがあるか? こんなもの)
***
マルクスは廊下の奥にいる朝陽を、自分の足で呼びに来た。
「森田。王宮から感謝状だ」
「あ、はい。すぐ館長にお渡ししてきます」
「いや」
マルクスは深いため息を、ひとつ吐いた。
「お前宛だ」
「……はい?」
朝陽は箒を持ったまま、廊下に立っていた。
マルクスが書状箱を差し出す。
封蝋に、王宮の紋章。
中身は、白い羊皮紙だった。
朝陽は宛名を見た。
——『王立図書館 雑用係 森田朝陽 殿』
「あの、すみません」
朝陽は宛名をもう一度、目で追った。
「これ、私宛じゃ、ないですよね?」
「お前以外に誰がいるんだよ」
マルクスの声が、わずかに上ずった。
「王立図書館の雑用係なんて、お前だけだ」
「ですが、王宮の方々は、私の名前を、ご存じないはずでして」
「昨日、自分で名乗っただろうが! 大臣の前で!」
「あ」
朝陽は数秒、思い出すような顔をした。
「言われてみれば」
——だが、雑用係の名前を、わざわざ書状箱の宛名にされるとは。
——これは何かの行政的な手続きの間違いではないか。
——後で、正式に問い合わせをしておこう。
朝陽は頭の中の優先度Cの欄に、新しい一行を書き足した。
***
マルクスは両手で頭を抱えていた。
(こいつ、何だ)
(魔法も使えない)
(剣も振れない)
(特技なし)
(なのに、文書管理大臣府が、わざわざ正式な感謝状を、雑用係宛に出す)
(『すごい人すぎて評価される』のではなく)
(『普通すぎて評価されている』のか?)
(……これ、政治的に何か意味があるのか?)
マルクスは天井を、しばらく見上げた。
「森田。お前さん」
「はい」
「これは、喜ぶところだぞ?」
「はあ」
「ふつう、雑用係に大臣府の感謝状なんて来ない」
「いえ、ですが」
朝陽は宛名から目を上げる。
「誰でもできることをしただけ、ですので」
マルクスの背筋に、寒気が走った。
「……お前」
「はい」
「見つけたのは、百年前の極秘実験記録だぞ」
「命名規則を統一していたら、たまたま」
(……『たまたま』じゃ、ないんだよ)
(お前さんの業務手順そのものが、あれを浮上させたんだよ)
(百年、誰も気づかなかったものを)
マルクスは口を開きかけて——
やめた。
代わりに、肩をすくめて、机の書類の山に視線を戻した。
***
館長室。
机の上で、ベルナルドはゆっくりと書類を見ていた。
文書管理大臣府からの感謝状の写しだった。
左下に、王宮の紋章。
——やはり、こうなりますか。
ベルナルドは口の中で低く、つぶやいた。
——大臣府は、彼を取り込みたいのか。
——あるいは、ただ、最低限の礼を尽くしたつもりか。
どちらにせよ。
彼に政治を持ち込んでも、おそらくは、振り切るだろう。
——気づかないまま、振り切る。
——三十年前の、あの男のように。
暖炉の中で、薪が一本、ぱちんとはぜた。
扉が、控えめに叩かれた。
「館長」
マルクスの声だった。
「お入りなさい」
マルクスが入ってきた。
書類を一枚、机の脇に置く。
「あの、館長」
「うむ」
「森田は、感謝状を、その」
「ふむ」
「……『行政的な間違い』だと、思っているようでして」
ベルナルドは口をゆっくりと開いた。
——ふっ。
短い笑い声だった。
マルクスが目を見開いた。
「マルクス君」
「は、はい」
「これ以上、説明しなくて結構です」
「……はあ」
「彼は、彼のままで、よろしい」
マルクスは何かを言いかけて、やめた。
肩をすくめて、館長室を出ていった。
***
朝陽は第二書庫の作業机で、感謝状を広げていた。
宛名の文字を、もう一度、目で追う。
森田朝陽 殿。
前職では、自分宛の正式な書状を、一度も受け取ったことがなかった。
それがたぶん、慣れていないことの正体だろう。
手は止まらなかった。
朝陽は感謝状を丁寧に折りたたんだ。
手帳を取り出して、最終ページを開く。
そこに、新しい一行を書く。
——もらった書類:一件(大臣府感謝状)。後で館長にご相談する必要あり。優先度C。
優先度はC。
館長にご相談すれば済む話だ。
書き終えて、感謝状をその手帳の最終ページに、丁寧に挟んだ。
手帳を閉じる。
朝陽は雑用係の業務に戻った。
書庫の床を掃き、書架の埃を払い、本を運ぶ。
——やるべき課題は、まだ百以上ある。
——ひとつずつ、片付けよう。
***
その日の夕方。
朝陽は作業机で、手帳をもう一度開いた。
今日のページに、進捗を書き込む。
——本日の進捗:命名規則統一、十五冊。残り、千八百冊。
——明日の予定:朝、第三書庫の点検。午後、第二書庫の続き。
朝陽はペンを置いた。
窓の外で、夕日が書架の背表紙を金色に染めていた。
手帳を閉じる。
——明日も、課題をひとつずつ、片付けよう。
第二書庫に、夕方の薄い影がゆっくりと伸びていった。
第4話をお読みいただき、ありがとうございました。
王宮の文書管理大臣府から、わざわざ正式な感謝状。それを受け取った朝陽の反応は――「これ、私宛じゃ、ないですよね?」。
本作は「読者だけが朝陽の偉業に気づいている」という共犯構造で成り立っています。マルクスは気づきました。館長は最初から知っていました。読者の皆さまも、もちろん気づいています。
ですが、本人だけが気づかない。気づかないまま、優先度Cの一行として手帳の最終ページに記録される。
この乖離を、楽しんでいただけますと幸いです。
次話は、朝陽の「何もない一日」を淡々と描く回です。連載5回目の小休止。ですが、朝陽が次の章でやらかすチェックリストの種が、ここで蒔かれます。
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