第3話 すみません、何かまずいことしちゃいました?
地味な作業をひたすら積み上げていたら、ある日、地雷を踏んでいた――。
社会人なら一度は経験のあるあの感覚を、異世界でやる回です。
雇われて、三日目の朝だった。
朝陽は雑用係として、書庫の床を掃いていた。
本を運び、お茶を淹れ、また床を掃く。
仕事の合間に、手帳を開いた。
——三日見て、ひとつだけ確信に近づいた。
——課題リストの十二項目目。登録番号の体系の不統一。これだけは雑用係の手が空くたびに、空き時間で潰していける。
——前職でも、新しい現場では必ずそうしていた。
***
第二魔導書庫では午前の早い時間から、マルクス・ヘルダーが机に向かっていた。
茶色のぼさぼさ髪。無精ひげ。司書のローブの下に、シャツとベスト。
机の上には未処理の書類が山積みになっていた。
「お前さん、新人か」
マルクスは顔を上げずに言った。
「はい、森田です」
「雑用なら、向こうの書庫の埃を払ってきてくれ」
「分かりました」
朝陽は頭を下げる。
「あの、ヘルダーさん」
「なんだ」
「ひとつ、よろしいでしょうか」
マルクスがようやく顔を上げた。
「言ってみろ」
「この書庫の本ですが、登録番号の書式が棚ごとに違っているようなのですが——これは何か、理由があるのでしょうか」
マルクスの手が止まった。
椅子の背もたれに、体重をゆっくりと預けた。
ため息が出た。
「……あー、それな」
ため息は長かった。
「皆、忙しいからな。誰もやらないんだよ」
「なるほど」
朝陽はそれ以上は追及しなかった。
「であれば、雑用係の仕事として空き時間にいただいても、よろしいでしょうか」
「は?」
「新規登録の混乱を防ぐためにも」
マルクスはしばらく、朝陽を見ていた。
(……いやお前、一人でやるのか? 二千冊あるんだぞ?)
口には出さなかった。
代わりに、肩をすくめた。
「やりたければ、やれ。俺は止めない。ただし、無理するなよ」
「ありがとうございます」
***
朝陽はその日の昼から、作業を始めた。
手帳の新しいページに、表題を書いた。
——命名規則統一プロジェクト
——やることはシンプルだ。
——例外を見つけて、ルールに沿わない本を別棚に分けるだけ。
第二魔導書庫の本は約二千冊。
朝陽は一冊ずつ手に取った。
背表紙の書式、登録番号の桁数、頭文字のつけ方、内部の目録ページの有無——四つの観点で照合していく。
ルールに沿う本は、元の棚へ。
ルールから外れた本は、作業机に積み上げていく。
雑用係の仕事は、合間に挟んだ。
床を掃き、お茶を淹れ、書類を運ぶ。
半日で二百冊。
朝陽はまた、棚へ向かった。
***
三日目の午後。
朝陽の手が、第二書庫の中段の棚で止まった。
一冊の本だけが、棚の中で別の素材だった。
他の本は、革。
これだけが布張りだった。
朝陽はそれを引き出した。
作業机まで運ぶ。
背表紙の登録番号を確認する。
書式が違っていた。
桁数が違う。頭文字のつけ方も違う。
——分類保留棚行き、の判定だ。
朝陽は手帳を取り出しかけて——
止めた。
昨日ヘルダーから教わった基本ルールが、頭をよぎった。
——分類保留棚に運ぶ前に、目録ページの有無は必ず確認する。
朝陽は本を開いた。
頭の一ページ目。
頭の二ページ目。
ない。
——目録ページがない。
王立図書館の蔵書には、頭の二ページが目録として割り当てられている。
それすら、ない。
——どの系列の、どのルールにも属していない。
朝陽は手帳に書いた。
——分類不能・一冊・第二書庫中段・要・館長確認
ペンを止める。
それから——
念のため、と思って、本の中身に目を走らせた。
***
最初のページから、読めない文字が並んでいた。
四角い古代文字。
ところどころに、図形が混ざっている。
円。
多角形。
線。
線の交差点に、小さな点。
——これは、たぶん、魔導陣……だろうか。
朝陽は魔導陣を見たことがなかった。
ただ、線の整い方と対称性の感じが、明らかに『設計図』の系統に見えた。
仕事柄、配線図やレイアウト図を何百枚も眺めてきた目だった。
ページを閉じる。
表紙の内側。
小さな刻印が、銀色に光っていた。
「宮廷魔導師団 機密」
——……これは。
——自分の判断で判定してはいけない、種類のものだ。
朝陽は本を抱え直して、ヘルダーの机へ歩き始めた。
***
マルクスは、午後の事務処理に追われていた。
未処理の貸出記録。回収待ちの督促状。新規登録待ちの古文書の目録作成。
机の上に積まれた書類の山を見て、また、ため息がひとつ出た。
——今日も、家には明るいうちには帰れんな。
視界の端に、新人の姿がちらちらと入っていた。
朝からずっと棚の前で、本を一冊ずつ確かめていた。
昼を過ぎて、午後を過ぎて、まだ続けている。
(……変わった奴だな)
ペンを動かしながら、マルクスは思う。
(雑用係として、真面目すぎる。続くのか、こいつ)
足音がして、机の前で止まった。
「ヘルダーさん」
顔を上げた。
新人の腕に、一冊の本があった。
「分類のつかない本がありまして」
「ふぅん」
「私の判断で別棚に分けてよいか、迷っております」
新人は本を、机の上にそっと置いた。
マルクスの目が、それに落ちた。
布張りの背表紙。
古い書式。
目録、なし。
(……まあ、たまには混入もあるな、こういう、素性の知れない本は)
胸ポケットから、布の手袋を取り出した。
古文書を扱うときの手癖だ。
開いて、表紙の内側を見る。
——
蝋燭の明かりが、ちらりと揺れた。
銀色の刻印が、はっきりと目に入った。
「宮廷魔導師団 機密」
マルクスのペンを持つ手が止まった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
(——これは)
(これは、まずい)
(まずい、なんてものじゃない)
(百年前から行方不明扱いの、極秘実験記録……じゃないのか?)
額に、汗がにじんだ。
「……お、お前」
声がかすれた。
「どこで、これを」
「第二書庫の中段で、命名規則から外れていたので——あの、何かまずいものでしたか」
「……」
マルクスは深呼吸をひとつした。
「動くな」
「はい?」
「いいか、新人。動くな。何もするな。その場に、立っていろ」
「あ、はい」
新人はその場に突っ立った。
マルクスは本を両手で抱えた。
走り出す。
廊下の途中で、振り返った。
新人がまだ突っ立っている。
「あの、お茶、どうしましょうか」
「あとで、いい!」
***
館長室。
ベルナルドは、書類から目を離さなかった。
「マルクスかね」
「館長」
マルクスは本を、机の上に置いた。
ベルナルドの目が、初めて書類を離れた。
布張りの背表紙。
表紙の内側の刻印。
ベルナルドのしわだらけの手が、ゆっくりと本に伸びる。
ページをめくる。
何ページかめくった、その途中——
ベルナルドの口の端が、ほんのわずかに上がった。
含み笑いだった。
ただし、すぐ消えた。
マルクスはそれに気づかなかった。
ベルナルドはページを戻して、表紙の内側をもう一度見た。
それから——
深く、長く息を吐いた。
「——百年前の宮廷魔導師団の、極秘実験記録ですな」
「……行方不明扱いになっていた、あの……?」
「ええ」
ベルナルドは、椅子の背もたれに体重を預けた。
左手の中指の銀の指輪が、暖炉の明かりににぶく光った。
「王宮に通報します」
「……」
「これは私たち個人で扱える代物ではありません」
ベルナルドは伝令を呼んだ。
走り去る伝令の足音が、廊下に響いた。
マルクスは立ち尽くしていた。
「マルクス君。ご苦労でした」
***
翌日の朝。
王立図書館の正面玄関に、馬車が三台、止まっていた。
蹄の音が、静かな朝の図書館に響いた。
最初に館の中に入ってきたのは、黒衣の役人たち、五名。
足音がしなかった。
続いて、白髪の五十代の男。
深い色の正装。胸に王宮の紋章。
鋭い目つき。
その隣に、長身の魔導師。
金髪を後ろで束ねている。緑の鋭い目。
白と銀のローブに紋章。
——館内の空気が止まった。
受付の司書。
書庫の司書。
目録室の見習い。
全員が手を止めた。
息を呑んだ。
誰一人、声を出さなかった。
蝋燭の炎だけが、ゆっくりと揺れていた。
そんな中、廊下の奥から、コツ、コツ、と別の音が聞こえてきた。
朝陽が相変わらず、廊下の本棚の埃を払っているはたきの音だった。
白髪の男は、朝陽を一瞥した。
雑用係には目もくれず、ベルナルドの方へ歩み寄る。
「ベルナルド殿」
「文書管理大臣、閣下。それから——ハンメルト宮廷魔導師、殿」
ベルナルドが深く一礼した。
若い魔導師は、わずかに首を傾けて応えた。
それだけだった。
「あれを発見した者を、ここへ」
「……かしこまりました」
ベルナルドは振り返った。
「ヘルダー君」
「は、はい」
マルクスが、廊下の柱の影から跳び出した。
「お呼びしてまいります」
マルクスは無言で、廊下の奥へ走った。
朝陽がはたきを持ったまま、廊下に立っている。
「あ、ヘルダーさん。お疲れさまです。お茶、淹れますか」
「お茶じゃない」
マルクスは朝陽の肩を、両手でつかんだ。
「お前さん、ちょっと、来てくれ」
「……何か、ありましたか」
「全部だ」
***
応接室の扉の前。
朝陽ははたきを、廊下の脇に置いた。
「あの、今、お茶を淹れている途中だったんですが」
「お茶は、いい」
マルクスは扉を開けた。
応接室。
白髪の男。
若い魔導師。
ベルナルド館長。
三人の視線が、扉から入ってきた朝陽に向いた。
朝陽は深く頭を下げた。
「失礼します」
文書管理大臣はしばらく、朝陽を見ていた。
何度か、口を開きかけて止めた。
「……これを見つけたのは、君か」
机の上に、布張りの本が置かれていた。
「あ、はい」
朝陽は頭を上げて、その本を見た。
——勝手に中身を、見てしまった。
「あの、すみません。何かまずいことしちゃいました?」
応接室の空気が、ひと拍止まった。
文書管理大臣はもう一度、朝陽を見た。
「……君は、何者だ」
朝陽は自分の所属を申告した。
「森田です。雑用係の」
***
朝陽は頭を下げていた。
文書管理大臣の視線が、隣のハンメルト宮廷魔導師に飛んだ。
若い魔導師は答えなかった。
頬がわずかにひきつる。
そのひきつりは、すぐ消えた。
文書管理大臣の視線が、今度はベルナルドに飛んだ。
ベルナルドは視線を、窓の外へ逃がした。
口の端が、ほんのわずかに上がっていた。
含み笑いだった。
ただし、誰もその笑みを見ていなかった。
廊下の柱の影から、マルクスが室内を覗いていた。
(……いやお前さん、何してくれてんだよ)
朝陽はまだ、頭を下げていた。
「あの、ご面倒をおかけして、申し訳ありません」
文書管理大臣は答えなかった。
口を、ゆっくりと閉じた。
ベルナルドが、暖炉の薪をひとつ足した。
ぱちん、と薪がはぜた。
***
この日、王立図書館では、何ひとつ特別なことは起こらなかった。
ただ、雑用係の森田朝陽が、命名規則から外れた一冊を、ルール通りに館長へ届けただけだった。
だが、王宮の駒は、その日から静かに動き始めていた。
***
その夜、朝陽は宿舎の机で、手帳を開いた。
「命名規則統一プロジェクト」のページに、新しい行を書く。
——一冊、館長お預かり。王宮で、対応中
——自分の分類が間違っていなければ、それでいい。
——……何も特別なことは、起きていない、ということだろう。
朝陽はペンを置きかけて——
もう一度、取った。
明日のページに、新しい行を書き加えた。
——明日も、続行。残り、千八百冊。
それから、蝋燭を吹き消した。
二つの月が、窓の外で低く傾いていた。
第3話をお読みいただき、ありがとうございました。
命名規則を統一しようとしただけ。例外を別棚に分けようとしただけ。なのに、百年間誰も見つけられなかった国家機密が浮上してしまった――。
本作が大事にしているのは、朝陽が「偶然すごい本を見つける」のではなく、「業務手順そのものが構造的に偉業を生む」という設計です。雑用係の地味な手順が、王宮の駒を動かしてしまう。彼自身は、そのことに最後まで気づきません。
「すみません、何かまずいことしちゃいました?」――この一言が、本作で何度も繰り返される構文の起点になります。覚えておいていただけると、後半でちょっと嬉しいことがあります。
次話は、王宮から雑用係宛に「感謝状」が届く話です。朝陽の反応にご注目を。
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