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セラン・ブルーと幸福の少女  作者: Annabel
第2部 テュリエール王国編
73/143

番外編2 オペラハウスにて

 これはフェルシアとライナスの関係を見かねた、例のステラの差し金での一コマである。



 後で振り返れば、かの妹君がオリヴィエ家のタウンハウスに滞在したのはたった二週間あまり。しかしフェルシア達にとってはまあ次々と…といった風に、細工を仕掛けられることが続いていた。


 そして今日も今日とて、ステラに背を押され、フェルシアはライナスと二人で馬車に乗っている。



「……あの、ライナス様。本当に申し訳ありません」


「何がだ?」


 カタカタ……と車輪の振動を背景に、フェルシアは「その……」と言い淀む。


 今は夜で、ライナスは仕事を終えた後だ。疲れているだろうに自分などに付き合わせて悪い。

 それに今はシーズンの直前。彼にはもっと他に会うべき貴族やご令嬢がいるのでは?……と、言いたいことは多々あったが、まずはこれだ。


「……ステラ様がどうも誤解なさっているようで……。いつもお手数をおかけしております」


 フェルシアが気まずげにこぼせば、ライナスも「ああ」と軽く肩をすくめた。


「謝るべきはこちらだろう。いつも妹がわがままを言っていてすまない」


「いえ、そんな」


 彼女が視線を上げれば、目の前には思った通りの優しい表情。だがいつもと違い額も露わで、凛々しい姿にフェルシアはどきりとした。今夜のライナスは夜の装いに合わせ、片側の髪をかき上げている。

 そして、対する自分も髪をアップに結っており、互いにいつもと少し違う見た目だ。服と髪型を変えるだけで、車内にはいつもより華やかな雰囲気がただよう。


(まさかまた二人きりで出かけることになるなんて……)


 フェルシアはまた手元に視線を落とし、両手を置いたシフォン生地を見つめた。

 己の体を包む上品な水色のドレス。これがなければ今から向かう建物には入れない。ライナスもジャケットにきっちりとクラヴァットを締めている。


「お疲れではないですか?」


 ライナスは邸に帰った途端、ステラに捕……迎えられていた。疲労が増していやしないかと、そう問うもやはり、彼はいつもの微笑みを見せる。


「問題ない。いつも帰って君の顔を見たら、疲れも吹き飛ぶんだ。今日も出迎えてくれてありがとう」


「そうなのですか……?」


「ああ」


 フェルシアは探るようにじっと端整な顔を見つめたが、結局、ものの数秒で目を逸らした。なぜだろう、この薄暗い車内で、盛装を難なく着こなし、自分を真っ直ぐ見返す紺藍の瞳を見ていると……ひどく落ち着かなくなる。


「今日も二人でいたんだろう?何をしていたんだ?」


 問いかけられ、フェルシアは彼から目を逸らしたまま答えた。


「あ、今日は午後からお茶をして、ボードゲームなどを少し……」


 このところ休日といえばステラに誘われて過ごしている。朗らかで話上手な彼女といると、社交界についてはもちろん、ライナスのことも教えてもらえて楽しい。……彼の話になると、時々戸惑うこともあるが。



 ステラとの対面から数日。

 彼女は自分を疑っているのではなく、――その逆だと。フェルシアはようやく気付いていた。



 始めは、自分をライナスへけしかけ、陰謀を炙り出す計画かと思ったが違った。

 なぜならステラは毎日、フェルシアがライナスといる場面を見た後に……。


『ちょっとよそよそしいわね。もう一歩くらい近付いてお話してみたら?』


『まあ……お兄様があんなに笑うのは貴女にだけなのよ。自覚なさって』


 と言い、ステラと雑談をすれば、


『お兄様のことが気に入ったらいつでも仰ってね。つつがなく嫁入りできるようお手伝いするわ』


『シーズンになればお父様達も少し戻ってくるから、一度会ってみてはどう?きっと気に入られるわ』


 ………と言われ。結局、何の話をしていてもそこへ繋がるのだった。


 しかし、全くもって奇怪だ。

 まさか己をライナスの伴侶に、と考えているとは。


 実はフェルシアは、今日の昼もステラから「お兄様がいかに令嬢から爆裂的な人気があるか」を聞かされていた。だが当人に言えるわけもなく、少し迷ってからふと思い出す。


「そういえば、ライナス様達の子供の頃のお話を教えていただきました」


「子供の頃?どの話だ?」


「えっと、ライナス様が学院に入る前のことで、お二人が領地の森で野犬に襲われたというお話を……」


 そこまで言ってフェルシアはハッとした。……そうだった。この話も途中から『お兄様は昔からとっても勇敢で強くて、私の自慢なの。そんな殿方と一緒になれれば素晴らしいと思わない?』と、いつもの流れに繋がっている。


 小さく咳払いし、フェルシアは短く続けた。


「……ステラ様が驚いて転んでいると、ライナス様があっという間に追い払ってくださったと。とても感動しておられました」


「ああ……そんな事もあったな。確か、あれはステラが風に飛ばされた帽子を追いかけたと思っていたら、木の陰から急に悲鳴が聞こえたんだ」


「……帽子は見つかったのですか?」


 そういえば途中で会話が脱線したため、顛末を聞けずじまいだ。


「ああ。近くの藪に引っかかっていたはずだ」


「なるほど……。それは良かったです」


 そこで会話が止むと、フェルシアは向かいから視線を感じた。見返せば、なぜか興味深そうな顔の相手と目が合う。


「君の子供時代はどうだったんだ?以前、兄妹でよく遊んだと言っていたが……きっと、活発な子だったんだろうな」


「私……ですか?」


「ああ。ほとんど領地にいたんだったか」


 フェルシアは目を丸くした。

 彼とはこういった話を数えるほどしかしたことがない。それなのに既に――「活発な子(おてんば)」と思われている?


 これは淑女として、誤魔化すべきか、それとも恥じるべきだろうか。


「ええ、両親もあまり王都には行きませんでした。私は毎日兄と姉に遊んでもらって、たまに町の子供達とも一緒にいました」


 外では兄に、屋内では姉にまとわりついていた。


「……仰る通り、大抵は外にいたかと。剣の稽古もありましたし。いつも兄に挑んでは負けていましたが」


「ふ……想像できるな。もしかして木登りもブラッド殿に教わったのか?」


「どうして分かったのですか?」


 フェルシアは目を瞠って問い返した。それはライナスには話したことはなかったはず。


「ステラも、昔は俺の後を付いてきて何でも真似したがった。君もさぞ可愛かっただろうな」


「……!そ、それは分かりませんが……兄もよく相手をしてくれたと思います」


 自分はなにをどぎまぎしているのだろう。今の「可愛い」も社交辞令だ。……そうと分かっているのに、謳う声の甘やかさが慣れぬ心を揺さぶる。


「当然だろう。君みたいな愛らしい天使が側にいたら構わずにはいられない。後で馬車を降りたら再現してくれないか?」


 すると彼は真面目ぶった声を面白げな響きに変えた。また、この人は……。


「……ライナス様?」


「はは……。冗談、ということにしておこうかな。そろそろ着くぞ」


 控えめに抗議すれば、いつもの完璧な微笑みにあしらわれる。そうして促された先を見て、フェルシアも居住まいを正した。


 過ぎゆく景色。夜道を駆けながら、二人の乗る馬車はとある豪奢な門へと向かっている。


「人がたくさん……もう始まるからでしょうか?」


「そうだな。それに、人気の題目だから満員かもしれないよ」


 例の門は開いており、馬車の列ができつつあった。それを目で示せばライナスは、初めて見る景色に注目するフェルシアを微笑ましそうにしながら説明してくれた。


「君は初めてなんだろう?じっくりと楽しむといい。だが、人が多いからはぐれないようにしよう」


 振り返り、夜闇にあってもきらりと瞬く彼の紺藍に見惚れながら、フェルシアも「はい」と頷く。そうしてまた、自身の赤青の瞳を窓向こうの景色に向ければ、それはそれで目を惹かれる。


(やっぱり思ってたより大きくて、立派だわ)


 向かうは、王都の中心街に聳え立つ……巨大なオペラハウス。鉄柵の内側、ごてごてとした外装は灯りに照らされ、夜でもとても目立っている。


 昼間にうっかり、自分がオペラを観たことがないとステラへ言ったのが元で、二人してここへ来ることになった。巻き込まれたライナスには申し訳ないが、今はもう、あの大きな建物に何があるのか興味深々だ。

 何ならこうして、珍しくも夜に彼といるだけでも楽しいのだが。


 門を通過した二人の車は、やがて壮麗な玄関に停まった。


「行こう。足元に気を付けて」


 先に降りたライナスからスッと大きな手を差し出される。

 それを見て、いよいよだと高鳴る胸を感じながら。フェルシアはしっかりとその手を取った。



* * * * *



 到着後に知ったが、どうやら今夜が最終公演だったらしい。

 それもあってか、スタンディングオベーションという大盛況で演者の辞す壇上へ、いつの間にかフェルシアも立ち上がって拍手を送っていた。


(凄かった……!歌や演技もだけど、お話が)


 己がパチパチと鳴らす音も聞こえぬほどの喝采の中、彼女は、ほう…と感心する。

 大がかりな舞台装置や過激な感情表現も新鮮だったが、個性的な登場人物に山あり谷ありのストーリーが面白く、最後は余韻を残すような妖しい終わり方だった。


 そうして歓声も鎮まった頃、フェルシアの傍らから声が降ってくる。ライナスだ。


「終わったな……。どうだった?楽しめたか?ずいぶん真剣に観ていたが」


「はい。とても興味深い風刺的なお話でしたね」


 単なる男女の恋愛模様かと思いきや、そこかしこにちりばめられた細工には考えさせられるものが……。


「そうだったか……?」


「え……?」


 フェルシアはつい、目を瞬かせた。そして己も座り直しながら急いで記憶を掘り起こす。けれどやはり、今の彼の反応が腑に落ちない。

 だがライナスがおかしいとも思えず、また見上げた瞳も、どこかまじまじとこちらを見つめていた。


「ちなみに聞くが、どの辺りが面白かったんだ?」


「あ、えっと……始まりの、ヒロインと男性が再会したところで」


「ああ、落とし物を拾ってもらって偶然……」


「指輪ですね。彼女は幼い頃から投擲とうてきの訓練をしていた、という表現が巧みでした」


 ヒロインが参加した夜会の会場にて。狙い通り、小さな輝きはきっちりと懐かしい男性(ひと)の足元に命中した。あれは過去編の、幼馴染としていた投げ輪ゲームの描写と繋がる、名シーンだ。


「あとは……終盤の展開からして、二人の夜会への参加は母親の叔父、あの実業家男性の裏工作があったと読み取れます。何事も、出来事の最後に利を得る者が黒幕であり、勝者だと……。作品全体にそういった現実的な皮肉が込められていて、ただ数分の会話や接触であっても、中々に考えさせられました」


 最後だって笑顔の結婚式風で幕を閉じたが、新郎新婦を取り囲む演者の頭数が不吉だったり、中盤で脇役の一人が妙な身体能力を発揮していたりと違和感が多く、もしかしたら次作を暗に示していたのかもしれない……と、また考え込みそうになっていると。


「……うん。ちょっと待ってくれ」


 静かな声にフェルシアが顔を上げると、そこにはいつもの………否、少し困ったような表情があった。彼にしては珍しく、戸惑いも感じられる。


「フェルシア、今のは普通の恋愛劇だったはずだ」


「え……?そうなのですか?」


 「普通の恋愛」。ライナスが示したのは、フェルシアには全く慣れない響きだった。

 それに男女関係は表向きで、自分はすっかり、メインは社会風刺や人の恐ろしさだとばかり……。


「宣伝を読むか?これを見ても、やっぱり俺にはそこまで複雑には考えられないんだが……」


「は、はい。ありがとうございます」


 そういえばと、ライナスから手渡された一枚の紙。そこには長方形に大きく描かれた主演二人の画、さらにその下には数行のあらすじらしき文が添えられている


『貴族の娘、マリーはとある舞踏会にて一人の青年将校と出会う。どこか見覚えのある面影の彼は、彼女といつかの約束を交わした相手で……成長し別たれても、二つの想いは奇跡を起こす。美しき純愛物語、ここに開幕!』



(……じゅんあい……)



 果たして、彼の言うとおりであった。


「あれが……?」


 ということは、あれは「無事結婚式できました。めでたしめでたし」……が正解なのだろうか?


 ぽかん……とするフェルシアを、いつもの様子に戻ったライナスがなだめるように見つめる。


「確かに脚本家に聞いたわけでもないが……。こういったものは(つぶさ)に観ている人間はそう多くない。全て憶えずとも大筋は理解できるものだよ」


 中には劇場そのものや俳優を目当てにした客も多い。それもあるのか、大体は分かりやすいストーリーになっている、と説明されて。


「そうなのですね……」


 フェルシアは目の醒める思いだった。


 初めての場所で、全てを見逃すまいと。この豪奢なボックス席からじっと集中して観ていたのだが……他人がどのように楽しんでいるかなんて、考えてもみなかった。


 だが、なるほど確かに。この邸とも城ともつかぬ非日常的な内装や、舞台上で煌びやかに装う女優を見て喜ぶ人は多そうだ。


(……でも、さすがにライナス様ほど麗しい人はいなかったわ……)


 ふと、フェルシアは隣を盗み見た。どの角度でも、どんな表情でも優美さを損なわない彼の造作。灯りも控えめな中では、流麗な瞳の鋭さが際立つ。

 己が大好きな顔といえばもちろん兄姉だが、最近はライナスも同じくらい好きだと気付いた。ずっと見ていても飽きるどころか感嘆するばかりだ。


「すまない、分かりにくかったか?」


 こちらを見返し、やや眉を下げる表情にハッとする。ついつい、見つめすぎた。


「いえ……!つい思い込んでしまい、情けないです」


「いや。さっきはああ言ったが、細かく考えてみるのも面白そうだ。そういう楽しみ方をする人もいるし、君もこれから色々観てみるといい」


 そういえば、この劇の元になったのはとある小説だ。内容を確かめるためにも、後で読むといいかもしれない。フェルシアが反省しながら、そう考えた時であった。


 控えの従者がライナスに耳打ちしたかと思うと、彼が「分かった」と答える。


「すまないフェルシア、ちょっと挨拶をしてきても?」


「はい。どうぞ」


 彼女はすんなり頷く。

 オペラハウスとは富裕層の集まる所、必然的に社交場となる。舞台が終わったのでライナスへの取り次ぎが再開されたのだろう。


 そうして、「すぐに戻ってくるよ」と彼がカーテンの向こう、通路へと姿を消せば……フェルシアは広いボックス席に一人残された。


 観客の散り始める場内を見下ろしながら彼女は、ふぅ……と軽く息を吐く。

 ライナスが戻ってくるまで少しかかるだろう。それまで大人しく待っていようと、フェルシアは何となく眼前へオペラグラスをかざした。そうして舞台袖を眺めてみる。

 それと同時にどうしてか…、先ほどの「普通の恋愛」という言葉が思い返された。


(……どちらも、私には縁のないものだわ)


 こうして遥か遠くを見つめるようだと、極厚のガラスを覗きながら彼女は結論づける。なのに、なぜこうも印象に残るのだろう?

 自分と真逆のものだから?それとも、理解できないからだろうか。



 フェルシアに恋愛経験はない。



 だからなのか、「一目惚れした」だの、「貴女は運命の人だ」だの……。劇中の台詞を聞いてはいても、舞台上の違和感ばかりが目について。そうしていつしか、進行の不自然な箇所や、細かな齟齬から要らぬ考察をしていた。


 なんと、あれがただの恋物語だったとは……。


(誰かを好きになる………想像もつかないわ)


 今までステラに促されて読んだ本や、今日のオペラを観て。愛とはとても強い感情だと理解はできても、そういうものかと思うのみ。

 だがそこでふと、フェルシアはさっきまで一緒にいた相手を思い浮かべた。


(ライナス様なら分かるのかしら?)


 好きな人、と想像して一番に思い浮かべる姿。……もちろん、敬愛という意味で。

 けれど、恋愛面はきっと仕事や勉強と違ってかなり個人的な話だ。もし尋ねるのなら、ちゃんと考えてからにしなければ……とそう考えたところで、彼女は既視感を覚えた。


「……………」


 舞台袖の上、向かいにあるボックス席の一つにて()()抱き合う男女がいたのだ。どうして最近こんな光景ばかり見るのだろう。

 フェルシアと同じく高級な席に座っているため貴族だろうが…。


 我に返ったフェルシアは慌ててオペラグラスを下ろそうとした。だが。


「!」


 その直前、密着する影がもつれ合って倒れ込んだのだ。


 危ない、と思ったのも束の間。下になった貴婦人はベルベットの長椅子に倒れ込み。クスクスと妖しげに笑っている。わざと男性を引き倒したのだ。そうして男性の頭が降りれば二人の顔は重なり、女性の笑みも見えなくなった。


(……この席ってそういう使い方………なわけないわよね?)


 このボックス席は、出入口のカーテンを降ろせば仕切られた空間となり観劇に集中できる。贅沢だが合理的な構造だと……単純に納得していた自分がばかみたいだ。

 あれが主目的なわけはあるまいが、確かに邪魔は入りにくそうである。


 もう、とフェルシアはオペラグラスを覗くのを止めた。


 公共の場で堂々と口づけ合う男女。この間カフェで見たのと同じ光景だが……やはり彼らの感覚がよく分からない。自分だってライナスと座っていたが、あのような行為はまるで頭になかった。


 しかし、そこにある関係性は自分達とは全く違う。

 ならばもし、自分が彼と―――



「フェルシア、待た……」


「っ!」



 バッ、と。

 両肩を跳ねさせ、フェルシアは勢いよく顔を上げた。


「……どうしたんだ?何かあったか?」


 振り返ればライナスが怪訝な様子でこちらを見ている。


 瞬間、彼女はひどい背徳感に襲われた。この尊敬する美しい人の前で「人様のキスシーンを覗いていました」なんて、言えるわけがない。それに……。


「いえ何もありません。ご挨拶は終わったのですか?」


「ああ。待たせてすまない。帰ろう」


 こちらへ近づこうとするライナスへ、彼女は反射的にササッと歩み寄った。件のオペラグラスは従者に預け、流れるように差し出された腕を取る。


 しかし廊下に出ればやはり、心配げな瞳に見下ろされた。


「本当に大丈夫か?少し顔が赤い」


「そ、そんなことは。問題ありません」


 自覚はないが、そうなのだろうか。だがきっと、これは先ほど慣れないものを直視したせいだ。心当たりのあったフェルシアは、覗き込むような視線から逃れるように前を向いた。


 早く帰りたい。邸に着くころには、この動悸も治まっているはず。


「フェルシア?もっとよく顔を見せてくれ」


 するといつかのように頬をとられる。フェルシアが驚き目を見開くと同時、ライナスはその正面に回り込んだ。


 温かくて大きな手がそっと、けれど少し強引に俯く顔を支えれば、二人は真っ直ぐに見つめ合った。


「あ、あの?」


「熱はなさそうだが……。気分は悪くないか?」


 いたって健全な問いだ。しかし仕草と距離はあまりにも近い。

 以前カフェで彼と見つめ合った時ほどではないが、いつもと比べると……。またしても慣れない状況に、フェルシアはいよいよ緊張した。


「気分も悪くありません……!あの、ライナス様」


「そうなのか?辛かったらいつでも言ってくれ。寒くはなかったか?待たせてしまって本当にすまない」


「いいえ、そんな……っ……!」


 ライナスが目を伏せて謝りながら、ツ……と頬を包む指先で白い耳下を撫でる。それへフェルシアはピクンと反応してしまった。

 その感覚が擽ったいような、背が震えるような感覚で、どうしようもなくゾクゾクとして……。戸惑った彼女がかすかに震えていると、赤青の視界を占める顔はますます心配げに歪んだ。


「ああ、やっぱり体調が悪いんだな。早く帰ろう」


 そもそもの理由は違う上、今震えたのは彼のせいだ。しかしやっと離してもらえると、フェルシアが安堵しかけると。


「少し我慢してくれ」


「えっ、あ……!」


 ぐいっと腰を引き寄せられて――フェルシアはあっという間に、彼と密着して寄り添う格好になっていた。


 近い。またしても、あまりにも近付きすぎている。


「ら、ライナス様?これは……」


 だが、疑問を挟む合間にも、彼は同伴者フェルシアを半分抱きかかえるような体勢で歩みを再開する。

 対してフェルシアはしっかりと腰に回った腕と半身に感じる体温に戸惑うばかりだ。しかし、はしたないのでは、と上目遣いで抗議すれば、いつもの穏やかな目がさらりと見返してくる。


「君が倒れてはいけないからな。……これが嫌なら、抱き上げて運ぶことになるが」


「分かりました。早く帰りましょう」


 ライナスが有言実行の人であることを思い出し、フェルシアは即答した。一体全体、彼がこんな公衆の面前で自分とくっつこうとする真意は不明だが、恥は最小限に止めるが吉だ。


 その反応に、今度は真上からフ、と吐息が聞こえて。


 フェルシアはあっとまたライナスを見た。すると聞き間違いではなく、やはり彼は――笑っていた。さも愉快そうに。


「……あの。揶揄うのは、やめてください」


 どこからが演技だったのか。思い返してみるが分からない。じとっと見上げる自分を見て、ライナスは更に瞳を(たわ)ませた。


「いや……君はいちいち反応が面白いからな。つい。すまなかった」


 それへ「本当に、『悪い』と思っていますか?」と喉まで出かかる。しかし本音をこらえ、フェルシアはフイッと顔を背けた。


「……お離しください。体調は全く問題ありませんので」


「そうなのか?でも、君を心配したのは本当さ。すぐそこなんだからこのまま行かないか?」


「ですが……!」


 らちが明かない、とフェルシアが再びライナスの方を見た途端。急に彼が耳元に顔を寄せてきた。驚き、息を潜める彼女に落とされる、低い囁き。



「……頼むよ、フェルシア。協力してくれ。さっき会った侯爵夫人がこちらを見ているんだ」



「え……?」



「彼女は前からご息女との縁談を進めてくる人でね。それに前から少し困っていて……今日もそんな調子だから、つい言ってしまったんだ。『今日は意中の人と来ているから、もうその話は控えて欲しい』と……。だから君と一緒に堂々と帰れば、彼女も納得してくれると思うんだが」



 彼が喋るたび、かすかに肌を撫でる熱い吐息。その感触と全身をゆさぶるような低い声に気をとられ、フェルシアは話の半分ほどしか理解できなかった。


(い、いちゅう………?)


 意中……意中の人。つまり、想い慕っている人のことだ。


 彼の台詞を脳内で繰り返し、数秒かけてやっと内容を理解したフェルシアは……おそるおそる顔をあげた。


「わ、わかりました。……馬車に乗るまで、なら」


「……そうか、良かったよ。ありがとう」


 若干の間の後、体勢を戻して「行こうか」と促すライナス。その声に頷きながら、フェルシアは――ちょっとした使命感を感じていた。なぜなら。



(これが『縁談避け役』……!実際にやるのは初めてだけど、私なんかに務まるのかしら?)



 ライナスはどうも他家からの縁談に思うところがあり、困っている。そこでちょうど連れてきていたフェルシアの存在は都合が良い、という事情らしかった。それなら始めから相談してくれれば良かったのに。


 正直、デビューすらしていない小娘じぶんがどれほどの盾になるのかは不明だが……彼が望むのであれば否やはない。そう結論付け、フェルシアは今度こそ納得してライナスと密着したまま歩を進めた。


 もちろん彼女は、ライナスの「意中の人」発言が本当である可能性なんて、始めから考えもしていない。

 それよりも最近読んだ小説のシーンを思い浮かべ、なんだかちょっとヒロインの真似事みたいだと、心を弾ませさえしていた。


 二人は揃ってベルベットの絨毯を踏みしめ、白い大理石の階段を降り、蔦と花を模した金装飾の出入り扉をゆっくりと抜ける。途中、残っていた客達から注目を浴びたが、フェルシアはなんとか我慢した。お役目のため、ライナスのため、と念じながら。


 そうして隣にぴったりとくっつき、腰を抱く彼にもはや安心感を覚えながら。建物を抜け、ようやく公爵家の馬車のタラップを踏むという時、フェルシアはそっとライナスに囁いた。


「……ライナス様。私、ちゃんとできていましたか?」


 彼から離れず、転ばず、堂々と歩けたはず。こっそりと己の成果を確かめる彼女へ、ライナスは満足げに笑みを深める。


「もちろん。君はいつでも最高のパートナーだ。これで、侯爵夫人も諦めてくれたことだろう」


「本当ですか?なら、良かったです」


 ホッとしたフェルシアは「やった!」と内心で歓声を上げ、ライナスの手を取ると、ピョンと軽やかに馬車の中へと乗り込んだ。


 ………背後で「やっぱりこのは騙されやすくて心配だ」と、密かに苦笑するライナスを背にして。



 かくして、フェルシアは。


 社交シーズンを目前にして、あのオリヴィエ公爵といちゃつきながら劇場を後にする様を周囲に見せつけ、まだデビューしていないにも関わらず、この年の夜会中の話題をさらったのであった。

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