13章 (4)
『…白銀の髪を靡かせ、青の瞳で影を映すその姿はそっくりだったであろう。遠く祖先のセラン神に。』
時が止まった。
同時にピクリともしなくなる己の手が、その瞳が。
通気の乏しい室内では、髪の先一本さえも揺れていない。
「…………」
我に返り喉をゴクリと上下させるが、口中はすっかり乾いていた。
…こんなものはただの筆者の妄想だ。推測表現であり、もはや書かれている全てが怪しい。
辺境伯領を神が降りた地だと主張しているような本だ、だからそう願っているだけ。
きっと全部嘘だ、今の部分だけでも。でも…。
(どうしてここであの声が浮かぶの…?)
最後に聞いた父の台詞。
『フェルのひいおじいさんには羽根が生えていたんだぞ!』と、聞いたこともないと、そんな大嘘を堂々と吹き込むなんてと自分は怒った。
あれがまさか…真実だったと?
思い返せば分からなくなった。さすがに「ひいおじいさん」は近すぎると思うが……、もしこの記述が憶測でない場合は。
本当に昔の祖先が空を飛んでいたら?
伝承によれば神族には様々な能力があったと聞く。
自在に空を駆け、指先一つで巨大な渦潮を描き、息を吹けば激しい嵐が巻き起こったと。手を払えばそうした数々の異能が閃き、今で言うところの魔獣を瞬く間に滅したという。
そんな血が己に混じっている?
信じられるはずもない。
(でも、そう仮定すれば説明がつく…かもしれない)
人とは異なる世界を映す瞳、魔素に耐えうる体質、昔から異質と驚かれる身体能力。
古より北の地に根付き、神名の花と呼応する自分達の存在そのものが…確かに神の末裔として代々あの地を治めてきた証拠のようで…。
そう思考する間も、フェルシアの両目はじっと文字に張り付いている。
だから気付かなかった。白銀のゆらめく闇の中、その背後から伸びて来たものに。
トン…
「っ……!」
「悪い。フェルシア?…大丈夫か」
バッと反射的に振り返れば、見られていた。この淀んだ空気を打ち消さんと真っ直ぐ射抜く紺藍の瞳に。
自分と全く違うその輝きはどうしてか心配の色を湛えている。
「あ…………、すみません」
「何か見つけたのか?」
「いえ。…少し読んでみたのですが、何もありませんでした」
静かに、しかし素早く手元の項を閉じた。ライナスには見えないように。
こんな嘘のような話はとても聞かせられない。
不覚にも驚いたものの、改めて考えればとんでもない与太話だと、打ち明ける気にはなれず視線を落とし答える。こんな所で資料として保管されていることに気味悪さはあるが…。
返答を受けた彼は慎重な表情を崩していない。
「そうか…。こっちも肝心なものはなかった。ただの医学書ばかりだったよ」
ここは伝承や神に関するものか…、と頭上を仰ぐ気配を背にさりげなく棚の隙間を探した。
すると。
「…で?それには何が書いてあったんだ?」
「!」
心臓が跳ねた。
瞬く間に眼前へ大きな手が添えられていたからだ。正に今、例の本を書架へ押し込もうとしている己の手の上に。
「……ライナス様?あの」
「どうした?」
乾いた感触に、ぐっとわずかに力を込めてみるがびくともしない。
これはまさか。
「…………」
フェルシアは早くも後悔に襲われた。何故か背後の人はこの本に興味を抱いてしまったらしい。
「自分が神族の血を引いているかもしれない記載」だなんて、そんなもの、さらりと伝えて流してしまえば良かった。
「……なあ、君は気付かないだろうが」
一瞬落ちた沈黙を遮る、密やかな声。
「酷い顔色をしているよ」
「それは………」
そんな自覚はまるでなかったが、あり得る。しかし灯りの乏しい中、しかも横顔にも満たない姿で判別出来るとは…。
やっぱり彼も目が良いのだなと考えたところで。
「…というのは予想だ。さっき一度呼んでも気付いていなかったし、君がここでそれほど集中するのはおかしいだろう?」
「え……?」
「必ず俺を頼ってくれるんだろう。どうした?」
また驚く。気付かなかったと。どうりで直接肩を叩かれたはずである、不審がられていても仕方がない。
しかし。
またまんまとひっかかってしまった…?と伺うように見上げればちゃんと伝わってしまったらしい。
「…ちゃんと予想は当たったぞ。ほら」
「……!」
すっとその瞳が降りてきて息を呑んだ。
拳一つ分、今までになく近い距離。暗闇にあってもわずかな灯りを取り込んで瞬く夜空に。
「ああ、やっぱり顔色が悪…」
「…どうぞ。読んでみて下さい。妙な文章があっただけなのですが」
気付けば俯き、両手を彼に向けて押し出していた。無意識に表情を隠す仕草となり、視線が遮られれば少しだけ緊張が緩む。
「?…ありがとう」
一拍してから声がかかり、手の中のものがなくなった感触にほっとしてから。彼女はさりげなく二歩後退した。
そうしてやっと顔を上げれば、例の質素な表紙が開かれるところだった。同じく目次から確認し始める手元に、見て欲しいページを指そうとして。
果たして、彼は『セラン神』についてどう感じるのだろうかと。そう思った時だった。
「………?」
なにやら近くが騒がしい。というか、壁を挟んだ隣部屋から聞こえた。
カシャン!と硝子の割れるような雑音と「早くしろ!」と命じる隊員のものらしき怒号。
「…誰かいたな。行こう」
「はい」
二人して書庫を出て、一旦廊下を経由すると突き当りにある最後の部屋に入った。
入室して早速ライナスが尋ねる。
「どうした?」
「隊長!こいつも研究者のようです。…何か知っていそうですが」
部屋の奥にある広い木製机、その向こうに刃を突きつけられ蹲る一人の男がいた。囲む隊員が白衣の下の身なりを見て取りそうつけ加える。
もしや役職者かと、ここの扉にあった刻印も含めて検討をつけながら、フェルシアはその男にゆっくりと近付いた。
掲げた灯りに浮かび上がる肩は震えていて、ほかの研究者同様荒事に慣れている様子はない。
「ヒッ…。あ…あんた達、何なんだ?」
「国軍です。研究所の制圧に来ました。…貴方は?」
彼女が簡潔に答えればますます不審げな表情をされる。しかし。
「わ、私はただの研究者で…!…お前、まさかフェルシア・グローリーブルーか?」
やっとこちらがよく見えたのか、研究者の目の色が変わった。
恐怖と怯えが占める中、観察するような興味深げな視線も混じる。
「そうですが。…貴方は本当にただの研究者ですか?ここで何を研究していたのですか?」
しかし問いに合わせ冷たく首に押し付けられれば、表情はまたすぐ怯えに染まる。
「ひっ…!俺は主任研究員だ。でも…し、仕方なかったんだ!全てゾエグ様の指示でしかなかった。逆らえば殺される……!」
自己を守るために多くの他人を犠牲にした。彼はそう言っているのか?
一方的な言い分に怒りが湧き上がったものの、今は情報を引き出さねばと思い続けた。
「具体的に答えて。…研究目標と、その方法についてを。被検体の人々に何をしたんですか?」
その淡々とした声が逆に効果的だったのか、それとも命の危機を感じたからなのか。
蒼褪めた研究員は言い募った。
「も、目標は…人体の進化だ。何年かかろうが構わない。失われた神々の力を人体に吹き込むんだ…、お前みたいにな」
ドクン、と心臓の音がした。
(まさか……、ここの人はセラン神の話を信じている?)
男の言葉だけでは全く意味が分からなかっただろうが、今ならかすかに繋がる。
先ほどの考察本で最も印象に残った、ずっとこの胸を騒がせる奇妙な仮説と。
「……神とはまさか、『セラン神』のことを?」
思い切って尋ねた。ライナス含めた周囲は訝しむ気配だが、静かに見守ってくれている。
「ああ。ああ、そうだ。国内で現存する血統はお前達一族しかいない。それを知ったゾエグ様が捕えてきて……お前達から採取した血液を使って研究を続けていたが、結果は芳しくなく、何度挫折しそうになったことか」
…探究者としての本能か、脅されながらも、男は秘された内容を嬉々として語り出す。
その口を止める者はおらず、話は続いた。
「血液やその一部を移植した者は死ぬか、狂って手に負えなくなったから処分した。全くお前達の血は特殊さ、実験体を摂取した魔獣すら凶暴化させてしまうとは。…ずっと耐えていたのは一人しかいなかったな」
知っていた実情と、知らなかった背景が明るみになっていく。
まさかこの地の魔獣の凶暴化がそこに繋がっていたとは。そしてどうやら、この研究所で生き続けた実験体がいるらしい。
「…私が本当にその末裔だったとして。貴方達はそんなことを続けてどうするつもり?」
「どうするだって?可能性は無限じゃないか。…最も、公爵様は自分の延命にしか興味がなかったようだが」
「……?」
「あのお方は自分が早死にすることに耐えられなかった。家門が代々短命なのを気にしていたからな!」
煽るような声。いわく、ゾエグ家の男系は代々五十にも満たず落命するらしい。
それを知った公爵は若い頃からありとあらゆる医術や民間療法を試した。そしてついに目を付けたのが、古来より国境を守るグローリーブルーの特質だったと。ある筋からの情報提供によりその効能を期待した彼は…大胆にも決めた。自国の要所に構えるその領地を狙うと。
そうして八年前のあの夜、計画は実行され…成功を収めた。複数のサンプルや実験結果、そして血統の子供を奪取するという成果をも挙げて。
滔々と語られた所業に、フェルシアは愕然とした。
そんなことで。
ただ一人が自らの生に執着した、その欲求だけで。
殺された。
両親を含む多くの同胞と領内の関係者が。
そして、今も昏睡する姉と失踪した兄もその被害者であると?
八年間ずっと。自分達はあの男のためだけに弄ばれていたと?
「それ、は………」
あまりにも……自分勝手だ。
それ以外に何と表すのかと。計り知れぬ衝撃を受ける。
かすかな呟きすら続けられず、フェルシアはとうとう黙り込んでしまった。
…すると落ちた沈黙をどう思ったのか、相手が慌てたように話しかけてくる。その内容とは。
「……な、なあ。あいつを探しにきたんだろう?あれはもういない……!先月の実験で…ヒッ」
乗り出した身をまた鋭く制され、その喉から情けない悲鳴が漏れる。
「あいつ……とは?」
頭の中は混沌としていいたが、どうしても聞かなければならないと思った。何故だかその続きを。
彼女は無意識に男へと一歩を踏み出す。
ここにお前まで来たのはそういう意味だろう?と、そう言いたげに感じたから。
「ブラッドだよ。お…、お前の兄妹だった奴だ!あいつは………死んだ、だから」
「……兄様が……?」
零れた音はかすかに震えていた。
「…あいつはずっと、ずっとここにいた。でも先月…投与した薬剤の不適合で…。何度も処置を施したが翌日には死亡したよ。あっけなかったな。ああ、長い間努力しても無駄になるのは一瞬なんだ。まだ姉がいるからこちらへ搬送する予定だったんだがな」
「スペア」。そのおぞましい呼称の意味が分かったところで現実は何も変わらなかった。
再び饒舌になる声は徐々に遠ざかっていく。
立ち尽くした脚はすでに棒のようだ。
(しんだ………)
何も聞こえなくなった、自分の呼吸音すらも。
それか息さえも止めていたのかもしれない。
「ずっとここにいた」、「翌日には」。言葉の一つ一つが脳内に押し寄せ、全てを攫ってゆく。
(兄様が……、あの兄様が)
――――――……死んだ……?
最後に見た姿が思い浮かぶ。
月光に照らされた、隆起し腫れ上がった皮膚と爛れたような鈍い輝き。
大違いだった。普段の優しく頼もしく、時には意地悪で。ちゃんと自分を…、家族を愛していてくれた姿とは到底相容れないと思ってしまった。左胸に見えた赤の歪さは一生忘れられない。
その後、ゾエグ騎士団到着に紛れ姿を消したと思っていた実兄が。
ずっとここにいた?
ドクン、ドクン…と遅れて心音が響き出す。
長くいるらしいこの研究者は事実を語っているようにしか見えなかった。
気付かなかった。否、気付けなかった…と表わすべきだろうか。この陰鬱な囲いの中で姉に泣き縋っている間も彼は、延々と…。
「…兄様がああなったのは貴方達の仕業ですか?」
少しだけ音が戻ってきて、痺れたような喉の感覚が煩わしい。
ここまでくるともはやそうとしか思えなかった。あの夜が実験の一端でもあったなら、兄はすでに何かを投与されていた可能性が高い。
「は…?どれのことだ?」
今までのブラッドへの所業は一つではないと如実に教えられる。
「八年前の夜に。兄様の姿形が…、変わっていました」
「……ああ。あれがセランの効果だ。当主様にその場で作って渡したら、『ああ』なったらしい」
考える、言われた意味を。「その場で」と言うのは八年前の出来事だろう。
『セランの抽出液と新鮮な血液』。
脳裏に浮かぶは先ほど見たおぞましい一文。
あの夜ブラッドよりも先に息絶えた存在を自分は知っている。
花の毒性とは、まさか。
「何でも試したがるあの方には全く恐れ入る。貴重な対象を殺してしまった上、適当にその血と混ぜたものを飲ませてしまうんだからな…」
「!」
飲んだからああなった。
見るに耐えぬ奇形と残った攻撃性は…彼の家族さえ手にかけさせたのだ。
「お前に投与しても同じ効果が起きるだろうな。しかし…姉といい、あの状態で生き永らえるとは。本当にお前達は…」
続く言葉は容易に予想できる。フェルシアが、ぎりっと奥歯を噛んだ時だった。




