12章 (5)
そうして数時間経った頃。またこの病室を訪れる人があった。
「……フェルシア?起きてるか?」
ハッと振り向く。
ノックと共に声の聞こえた方向、己の背後には深い紺藍が瞬いていた。
ライナスだ。外出していたはずだが、もう帰宅したのだろうか?
「あ…、お帰りな…」
お帰りなさいませ。そう言おうと思ったのに。
「そのままで。…ずっとここにいたのか?」
制され、腰を浮かしかけたまま固まった。
「はい。あの、やはり問題でしたでしょうか?」
「違うよ」
すると喋りながら近付いてきた姿は流れるように屈み…、何故か眼下にその顔が。
「……!」
「なあ、ちょっと付いて来てくれないか?」
こうして傍らに膝をつく光景はまだ記憶に新しい。昨夜は自分があまりに泣いていたから、憐れみのあまりに出た行為だと思っていたけれど。
「…………」
またしても驚いたフェルシアは沈黙してしまった。
基本的に自分より低位の者に膝をつく貴族は存在しない。仕事中の仕方ない姿勢や有事を除いて。
声を張るのが手間なら、ただ立ち止まって呼びつければ良いのに。
前々から気付いてはいたが…、彼はどうもこちらと目線を合わせようとしているらしい。
それは気遣い以外に何があるというのだろう…?
もはや間違いようもないと、呆然としていると、ゆるやかに笑われる気配がした。
「それとも、君が立ち上がるまで俺もこうしていようか?」
「すみません、すぐに伺います…!」
「焦らなくていい。ではこちらへ」
慌てて立ち上がれば、彼も苦笑しながら両脚を伸ばした。すぐ逆転する身長差をまた見上げる。
「どちらへ行かれるのでしょう?」
「来れば分かるよ」
導くような言葉だ。なんだろうと興味が湧いて来るが…。
それでももう一度姉を振り返った。特に変わった様子は見られない。
「…大丈夫そうか?」
「はい。姉様も…ずっと見られていては困ってしまうでしょうから」
急変とは不意に訪れるもので、それは自分が寝ている時にだって起こり得るのだ。
当然のことだが今は素直に理解できる。何かあれば呼んでもらえるだろうと。
そうして「近くだよ」と添える言葉を信じ、フェルシアも彼に続き部屋を出る。
室内で微笑ましげに見守る、メイドの視線を背にして。
* * * * * * *
連れられて階段を降り、廊下を歩きながら。
いつしかフェルシアは異世界に迷い込んだ気分になっていた。
そんな己に気付いたらしく、前方から声がかかる。
「何か珍しいものでもあったか?」
「あ…すみません。そうではないのですが、…そうと言いますか」
背後に目があると囁かれる人だ、足を緩めずともこっそり眺めているのが伝わったらしい。
少し恥ずかしくなりながらも正直に打ち明けた。
「…すごく綺麗なお邸だと思いまして。このような素晴らしい所には初めて訪れました」
派手とも豪華とも違う、静かで優美な青の世界。
病室を出た瞬間から、二人は深色の紺碧を基調にした上品な内装に囲まれていた。
きっと邸内は落ち着いた雰囲気で統一されているのだろう、タペストリーや家具など、所々に記された剣盾の家紋が確固たる威風を示す。
また、周囲で控えめに煌めく貴金属は銀か白金製で、沈みがちな色彩に華やかさを与えていた。
(昨日はよく見ていなかったけど、やっぱりこの方に相応しいお邸だわ…)
明るい内に訪れたのに、ずっと姉しか見ていなかったのだなと思い知る。
今まで見たどの邸とも違う、最も実家に近いものを感じた。
色のせいだろうか?もちろんここまで洗練されてはいなかったけれど。
「ありがとう。確かに自分でも気に入ってはいるが…こだわっているのは主に母と妹だよ。自分ではよく分からないんだ」
「そうなのですか…?ではお二人とも、とても素敵な趣向をお持ちでいらっしゃるのですね」
「次に会ったら伝えておこう。でも君が気に入ってくれて良かったよ。しばらくここに住むのだからな」
意外すぎる一言に、思わず聞き返してしまった。
「あの……?…住む、とは…」
「…ああ。その話もこの先でさせてくれ。もう少しだ、こっちだよ」
いつしか止めていた歩みを再開する。
疑問と共に導かれるまま青の廊下を抜け、広い庭へと続く両開きの扉を抜けて。乾いた秋風に揺れる、花壇の紅葉を過ぎた先で。
(わぁ……、すごい)
晴天の下、低木の影から視界に現れたのは…見たことはあれど、今まで近付く機会はなかったものだった。
「父が建てたんだ。外から見るのも良いが、中も綺麗だからいつでも来ると良い」
ライナスに先導されるまま、どんどん距離が狭まるそれは。
背の高い、透明な三つの円柱をぎゅっと束ねたように繋がったデザイン。天井部は全て丸く、支える柱と格子状の枠はまるで巨大な鳥籠のよう。その間の壁や扉は全てガラス製で、内側の景色がよく見える。
これは……。
「…温室に入るのは初めてです。とても美しいですね」
それさえも鏡面のように輝く、ガラスの入り口を開けてもらいながらも感嘆する。
温室とは。鉄枠と硝子壁を基本構造とし、内部を何らかの方法で温めることで機能する建物の一種だ。
熱源は入れずただ大がかりな装飾や風除けとして使われていることもある。けれど、それではこのように、寒空のもとで花の咲き乱れる風景は生み出せない。
ぐっと下がった気温に反し、春日のように色とりどりの光景が視界に映った。
「花の手入れも難しいでしょうに、凄い…」
「気に入ったか?」
「はい。ここの庭師の方は非常に優秀ですね」
好きかと尋ねられて素直に頷く。まだ慣れないけれど彼にはちゃんと応えたい。
花壇のみならず、天井から吊るされた蔦花も面白いと仰いでいると。
「フェルシア、こっちにおいで」
そこかしこで陽光を反射する空間の向こう。目先にある花垣の上に黒い頭が覗いていた。
促されるまま、白い遮りを避けて進むと、そこには…。
「これは……?」
きっとこのために花木を避け、場所を空けられているのだろう。
正午過ぎ、採光は抜群でとても明るい温室の中央には、丸いテーブルと椅子を中心にティータイムの準備がなされていた。
白いクロスの上、ティーセットや皿が整然と並べられている。
けれどそれらに囲まれて、最も輝き目立っているのは曇り一つない銀製のスタンドだ。数段重ねの上にそれぞれ美しく軽食が乗せられ、どこか見覚えある繊細な配色には芸術性すら感じる。
「昼食も食べずに籠っていると聞いたよ。少しだけでいいから付き合ってくれないか?」
ここまで連れてきて騙し討ちのようだが、と苦笑されるけれど。
フェルシアは気付けば頷いていた。ライナスは昨日今日と忙しい中、一緒に過ごそうと気遣ってくれただけだ。
「もちろんです。ご迷惑をおかけしており申し訳ありません」
「誰も迷惑だなんて思っていない、心配しているだけだよ。君だって明日からも元気に姉君を見舞ってあげたいだろう?」
「……はい」
姉のことばかりですっかり失念していた。そういえば昨日の朝から何も食べていない。
今朝目覚めてからも食事の声かけを辞退した。それを見かね、ついに聞き及んだ彼が声をかけにきたと……、これはもしやそういった状況なのだろうか。
さあ座ってと促され座る。ここは光に満ちた空間だが、シェードが張られているため陽射しはとてもやわらかだ。
周囲の使用人が静かに働き始める中、目の前のカップへと紅茶が注がれる。
すると紅い液面に己の姿が映り込んだ。切り揃えた毛先を揺らし、こちらを見つめ返すデイドレス姿が。
(…これ、似合っているのかしら?)
ふと、そのことが気になってしまう。
今朝リリィに準備してもらった。目の前でゆっくりと開いたクローゼット、そこに並んでいた無数の内の一枚のことだ。
ひしめくフリルやリボンを前にして、内心慄く己を察したのかそうでないのか。
黙っていると、横から「どちらがよろしいでしょうか?」と次々尋ねられたことを思い出す。それへなんとか右、左と答えてこうなったのだが…。
フェルシアは改めて映った姿を眺める。
頤の下、綺麗に結ばれた白いスカーフ。
それから視線を落とせば、水色のストライプが入った襟付きの生地。ブラウスのような、肩からすとんと落ちる長袖にフリルはない。
ウエストに締めたリボンとスカート部分は青で、動くたびに縁のスリットから白のシフォン生地が覗いていた。
…首に痕がついてからもう二週間経つ。回復してはいるがまだ浅黒く見えるので、包帯の代わりに首元を覆ってもらった。
そうしてあっという間に、こうして座る自分の出来上がりである。
対するライナスは今日も隙がない。
彼女はカップを持ち上げながらちらりと向かいを見た。陽光の下、今日も今日とて美しい人を。
艶やかに整った髪と容貌はいつも通りだが、昨日と違いグレーの濃淡を活かした装いをしている。ジャケットと、スモークグレーのシャツにクラヴァットを締め、瞳の色に似たスラックスを履いて。今日は珍しく黒い手袋をしていた。
昨日も思ったが、いつも制服姿しか見ないので新鮮だ。貴族らしい雅やかな雰囲気が増している。
この眩さを目の当たりにして、優雅な笑みに釘付けになる人は多いだろう。…今の自分のように。
そうして改めて完璧な姿を前に、雰囲気を乱すことはするまいと姿勢を正した時だった。
突然、目が合う。
「…やっぱり、食べられないか?」
「………!」
そうだ、今カップを持ったところだったのだ。呆けていた、彼に見惚れて。
「いえ。頂きます」
もうやってしまった。慌てて、だが優雅さを損なわない程度の素早さでカップを傾ける。
やや冷めてしまったものの、良い香りとすっきりとした後味が口内に広がった。
続けてフェルシアは近くにあるサンドイッチを手に取る。ハムとレタスのシンプルなもので、きつね色の丸パンの中に行儀よく具が詰められた一品だ。
小さく口を開けてそれを含めば、どうしてか…食べたことのある味だった。さっぱりとした風味で、美味しい。
不思議な安堵を感じつつ、彼女がゆっくりと咀嚼してみせれば、向かいからもスタンドへ伸びる手があった。そうして二人きりの穏やかなティータイムが始まる。
ちまちまと、それは傍から見れば小動物がつつくようなスピードだったが、当人にとってはいつも通りだ。フェルシアは徐々に空っぽだった胃を満たしていく。
その後は会話を求められず、食べるのに集中していると。……いつの間にか、食べ終わった彼がこちらを見ていることに気付いた。
お茶を飲みながらのさりげない視線と、また目が合う。
反射的にピタッと手を止めてしまった。
「ああ、すまない。続けて」
すると自然に目を伏せて促される。けれど。
ゆっくりしてくれと促すその穏やかな声が、瞳が。…あまりにも優しくて。
唐突にまた、気持ちが溢れそうになっていた。
(…私……泣きたい………?)
それへなんとか「はい」と答えるのだが、急速な感情の流れについて行けない。
一体どうしたというのだろう、この苦しさは何故だろうと。
口に入れたものを、こくんと飲み下す。
似ていた。あの夜、彼の前でスープを飲んだ時の感覚に。
でも、今はそれよりももっと苦しくて……あ、と気が逸れる。
思い出した。あの時やや血相を変えた姿も。
彼はこちらをよく見ているが、逆にそれ故の反応で驚いたこともあったと。ふと思い返していると。
「…何だか、楽しそうじゃないか?」
まただ、懐かしい言葉。
「いえ、気のせいでしょう」
「そうかな」
もう笑われている、何故?
それでもフェルシアは顔を澄ませながら言い張った。
「そうです」
何となく意地を張ってしまう。さっきは素直になれたのに。
けれど、この子供じみたやりとりでも。
昨日自覚したばかりの高揚が心にあるとやっと気付いた。
彼とこうしていると。ゆっくり、他愛ない言葉を交わしていると。
…とても、安らぐ気持ちになれるのだ。
悩んでいた時に寄り添い、こちらの痛みや恐れをも危惧し、止まらぬ涙を拭ってくれて。
例え一時だとしても。彼に促されれば、すっかり興味を失っていた食事がすんなりと喉を通った。
今はそれさえも静かに見守ってくれていて……とても。
深く感動しながら、突然ぱちぱちと瞳を輝かせ始めたフェルシアへと。
それを見ていたライナスが溜息のような声を零した。
「……やっぱり綺麗だな」
「……?」
「いや、君が」
ますます疑問が深まって続きを待つ。すると。
「君の瞳がとても美しいと思ったんだ。太陽の下でみるとよりいっそう透明で…複雑な色なのが分かる」
「……眼…ですか…?」
双眼をスッと細めて射抜かれ、どう答えるべきか戸惑った。だって彼の方が余程麗しい。
「右も少し紫がかっているんだな。どうりでその服が似合う」
さらりと今日の格好をも褒められてしまった。
これはどうすれば…、先ほどアマルに言われた時もだが、こんな風に真正面から述べられた場合はどう返せば良いのだろう?
(『光栄です。ですが今日の貴方様の方が輝いてございます』?『とんでもございません』?『お話が上手でいらっしゃいますね』?)
「……………」
「…フェルシア?」
散々習った返しの言葉は、どうしても彼のくれた賞賛には似合わない。
口を噤み固まっていた彼女はついに意外な台詞を口走った。
「あの。…お聞きしても良いですか?」
「…うん?どうした」
「こういう時は、どうお返しするのが適切でしょうか。相手の方が本当にそう思っていらっしゃると、感じるような時は。…定型的な言葉では、それではとても……申し訳ない、と思ってしまう時は…」
じっと正面を見上げて真剣に請うた。
ちゃんと応えたいのに、どう伝えれば届くのか分からない。ならば本人へ確認すれば良いではないかと。
彼ならきっと相応しい答えをくれるだろうと、それが合理的だと思ったから。
するとそんな己を、一対の紺藍がしばし見つめて…小さくニヤリと緩んだ。
「へぇ…やっと助けを借りる気になったのか」
「?」
「こっちの話さ。そうだな、…では今から俺が言うことを復唱してみてくれ」
「はい」
不可解な言葉も忘れ、すんなりと答えをくれるらしいと胸を高鳴らせる。素直な、強い期待。
「ありがとうございます。そのように思って頂けてとても嬉しいです」
「ありがとうございます。そのように思って頂けてとても…嬉しい、です」
「心から感謝致します。…続けて言ってみるといい」
途中つっかえたのを見て取って言われる。これは…。
「―――ありがとうございます。そのように思って頂けてとても嬉しいです。心から感謝致します」
合っているはずだが、果たして。
「ああ、喜んで貰えてとても嬉しいよ」
目の前に咲いた溢れる気持ちが。
とても眩しくて綺麗で…、フェルシアの両目にはきらきらと輝いて映った。
ああこの人はと、胸が詰まる感覚。
もう何度目か分からない息苦しさを抱え、言葉を教えてくれたことへも感謝しながら。
また見てしまえば目が離せなくなると、少し前に意識したことも忘れて。
彼女はその笑みに見惚れ続けた。
参照:8章(2)




