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セラン・ブルーと幸福の少女  作者: Annabel
第1部 再会編 ※工事中。上から順に読んでいただいて大丈夫です
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12章 (2)

「………あの……?」


 違和感のある感触にフェルシアは瞬いた。

 それは、とあるものが上に乗っているからで…。


「…ああ。すまない、つい」


 頭を撫でられている。


 そう気付いた途端、大きな手はすぐに引っ込められていた。

 離れた瞬間、かすかな寂しさを感じて目を瞠る。どうしてだろう。


「…忘れてくれると助かる。いつも妹にしていたからだな」


 呟くように説明された内容は実に長兄らしいものだった。

 彼ら兄妹の歳はさほど離れていなかったはずだが、昔の話だろうか?

 いつも堂々としている人が気まずげに目を逸らすという、その稀有な姿へ驚きつつ尋ねる。


「ステラ様に、ですか…?」


「君と背丈が似ていてとても懐かしくなった。…昔そうやって、泣いているのをよく慰めてやったから」


 また、まだ見ぬ彼女のことを知ったが。

 そこで、あれ?とフェルシアは疑問を感じる。


 今の言い方は……と考え、両の頬に感じる違和感を。


「私………」


 ツゥ…と線を辿るような感触は髪のそれとは違う。


 静かに白い肌を滑り、顎の曲線をなぞって。唇の真下でゆっくりと震え……落ちたもの。

 ポタッと膝上の紺碧に零れ、薄い膜を保った透明はすぐに消えて。そうして布地に黒い染みを残した。



 ポタポタッ…



 次々と増えていく眼下の黒点。フェルシアはそれを不思議に思って眺めた。


 また借りものを汚して申し訳ない、これは何だろうと。

 この光景を自分は見たことがある気がする…でも咄嗟に思い出せない。だから隣の彼に尋ねようと、俯いていた目線を上げたのだが…。


(前が見えないわ…)


 見えない。見たいものが。

 側にある端整な顔が。


 あっという間にぼやけた視界が邪魔をする。ゆらゆらと不規則な隔たりで覆い隠されるよう。


 ああこれは。


……泣いている。誤魔化せないほどに、どうしようもなく。


 いつからだろう?

 少なくとも彼が手を伸ばしてきた時にはもう滲んでいたらしい。

 そして今や決壊したように溢れてしまっている。そう自覚すれば大きな衝撃を受けた。

 あの日からもう泣くことはない。そう決めたのにと。


「すみません、…わたし……」


 声が裏返ってその先は続けられなかった。みっともない、成人も近い歳になってこんな姿を人に見せるなんて。

 一体、自分はどうして泣いているのだろう?


 今はもう安心できる場所に姉といて。強く頼れる人も隣にいて。

 しかも姉にはまだ前途があると知れた。昨日までに比べればとても前向きな状況だと理解している。それなのに。


「いいさ。大丈夫だ」


(泣くのは苦しい時だけではないの?)


 分からないと俯く。涙が溢れる時そこにあるのは後悔や痛みだと思っていた。


 驚愕のまま滂沱する己を見かねたのか、彼が何かを差し出してくれる。


「そんなに泣くとその綺麗な眼まで溶けて落ちるぞ。ほら」


 そうして手渡されたのは、感触からしてハンカチだった。

 前がろくに見えないので指先の手触りから判断するしかない。


「…はい、……ありがとう…ございま……!」


 徐々に喉が腫れ上がるように詰まって、苦しくなる。これではちゃんとお礼が言えない…。


 なんとか嗚咽を堪えながら情けなく思っていると、スッとかすかな風を感じて。

 見れば、絶えずぼやける視界の隙間でこちらを見上げるような影があった。それから聞こえた声も記憶より近くて。

 気付けばまた、頭の上を優しく滑る感触がしていた。


「…今までよく頑張ってきたな。今日だって君がいなければ姉君を助けることはできなかったよ」


 どうしてか止まらない涙、そして返事すらできない自分へかけられる温かな声が。

 青くぼやけた世界に沁み渡る。


「君は強い。幼くして困難へ諦めずにいたことは、とても真似できるものではない」


 そんなことはない。

 姉がいなければ、ライナス達がいなければ。


 もう他人と関わろうと思えなかった。

 想ってくれる気持ちに気付けなかった。

 姉と向き合ったあの夜は無かった。


 ……今、貴方とここにはいられなかった。


(ああ、私。…今なら)


 すっかり立ち竦んでいた背に声をかけ、自らを以て示し続けてくれたこの人になら。


 心の中でいつしか立ち上がった少女の瞳にもう涙はない。

 静かに、星空のようにたくさんの感情を孕んで輝き出す。力強く。


 思い出した。基地で見た人々を日向のようだと思ったことを。

 そしていつの間にか自分も迎え入れられていて、帰りたくなくなったことを。そこはたくさんの感情で溢れていて、最後には違和感も忘れて過ごせるようになっていた。


 目の前のどこか故郷を感じる、新しいのに懐かしい唯一無二の色。

 この瞳がいつも見守っていてくれたことも。


 学院で再会した時の笑顔を思い出す。

 あの日から一月余り、本当に色々あった。その中で彼はできる限り関わろうとしてくれて、いつも不思議に思ったものだ。

 学生など部下に任せて放っておけば良いのに。直接監視したいのだろうか?と。


(それよりも私のことに気付いていたから。…きっと知ろうとしてくれていた)


 あの宿場町で。フェルシアが鋭く問われて答えられなかった時。


 酷く疑わしい立場なのに、それでも事情を聞き出そうと努力してくれた。選べずに悩むばかりだった自分を連れ出し、教えてくれた。

 自分がどれだけ狭く閉じこもっていたのかを。木漏れ日がゆっくりと広がって…そうして暖かく、ただ座っていても赦される場所もあると。


 肩に押しつけられ震える額。

 感謝し、いつでも戻って来いと言ってくれた。腕の中で鮮やかな夕焼けに染まったたくさんの気持ち。


 あの頃は言いたくても躊躇ってしまった。

 けれど今日の昼に再会し確信した想い。


(私にとって、この方にこそ相応しい)


「…あの」


 意を決し、口を開く。


 こんな有様で何をとも思うが。それでも言いたい。

 みっともなさが増してでも、今伝えたくてしょうがない。


 …口元がおぼつかないので、それをちゃんと聞き取ってもらえるかは不安だ。

 しかし己の声に反応した手はもうぴたりと止まっていた。


「どうした?」


 静かだけど慈しみに満ちた響きに。

 何でも言ってくれと、背中を押された気がしてフェルシアはそっと顔を上げる。

 目の前で少し驚く気配がした。



「…よかったと、思ったのです。私、――――――貴方を信じて良かった」



 まだまだおぼろげな視界、それでも確かで安心する色だけを真っ直ぐ見つめた。

 赤と青。どこまでも透明な瞳に彼女にとって唯一の姿が映り込む。


「これまで一人になることがずっと…怖くて。一番苦しいのは姉様なのに、結局私は何もできずに縋っているだけでした。毎日…焦るばかりで…」


 必死に取り繕いながらも心の内はとても不安定だった。姉から見てもどんなに頼りなかっただろう。


「…そんな私に声をかけてくれたのが貴方でした。昔の…あんなことを覚えていて、助けるとまで言って下さった。あの時の驚きは生涯忘れません」


 窓の外も、室内でも。絶え間なく流れ落ちる雫が灯りを反射し輝いている。

 けれどこの頬に溢れているのはただ涙だけではなかった。 


「何かを成し得なくとも、自分であることが。…そのままでいて感謝されるなんて、私は…はじめて知って」


 そしてそれは、自分だけに当てはまるのではなくて。

 姉もそうなのではないかと思えて。


 喋れなくともずっと支えてくれていた。彼女がいたからこそ自分は今日まで生きようと思えた。

 その姿へ独り善がりではなく、「ありがとう」と言うべきであったことに。


「気付かせて下さいました。…私は姉の痛みを無駄にしたくないと。もし…もし彼女に何かあっても、私は生きねばなりません。あの時私を守ってくれた皆の想いもあるから」


 両親のみならず、祖父母や親戚と共に使用人や領民の多くが命を落とした。あの夜、姉妹が確保されるまでに消えた命は存在を計ることなんて到底出来ない。


「でも私は…本当に…強くなんてなくて…。まだ自分に勇気があるとも、思えません」


 …まだはっきりとそう認めることは難しい。これまでの八年間はフェルシアにとって、とてもとても長かったから。けれど。


 今までの全ては無駄ではなかったと言ってもらえた。


「だから……ライナス様を…信じようと、信じたいと思わせて頂けたからこそ、ここまで来られました。自分のことだって、貴方がそう言ってくれるならと…。今日も『絶対に大丈夫だ』って思えました」


 この短い間で、胸の内側へ積み重なった気持ち。

 それらを何度も不意に揺さぶられた。絡んで絡んでやっと、ようやく少しずつ吐き出せた言葉たち。



「ずっと。…ずっと私を気にかけ、支えて下さったことに。深く感謝致します……」



 引き攣れる喉を抑え、ようやく口を閉じたフェルシアはまた下を向く。これが今言いたいと思った全てだった。

 今度は自分に膝をついてくれるライナスに、深く敬意を表するため腰を折る。

 前にもこんな風にしたことがあった。本当に彼にはどれだけ感謝しても足りない。



(私、一生涯貴方に感謝します)



 …彼にとって今回の救出は仕事の一環だ。この想いを深刻に捉えて欲しくなくて、心の中だけでそう付け加えた。

 それほどに今こうしていることが奇跡なのだ。あの夏の日には迷惑をかけてしまったけれど、自分にとっては……などと、考えてしまっていると。


「フェルシア、頭を上げてくれ」


 まだ満足はしていなかったが、彼女は素直に姿勢を戻した。そうして再び静かな(おもて)と向かい合う。

 すると……フ、と笑われる気配がした。


 …しまった。きっと自分は今、とんでもなく不格好な顔をしている。

 頭を上げてしまえばまた顎までを雫が伝って…きっと今まで見せた中で一番酷い見た目をしている。こうして泣くのは久しぶりで、鏡もなければそうとしか想像できなかった。


「急に何を言い出すかと思えば。まだまだこれからだろう?」


 ぼうっと、意味もわからず反芻していると。


 ふと、今度は頬に添えられるものがあった。

 柔らかに触れたそれは、音もなく冷えた雫を(さら)う。


「まさか君からそんな言葉が聞けるとは思ってもみなかった。…ずっと、俺は君に酷な選択をさせていたから」


 悩んでいただろう、こちらに応えてくれた後もしばらく、と苦し気な声。

 気付いていたのだ…、宣言の後も割り切れずにいたことを。自らの決断を背にしてなお揺れた心を。

 そう思いながら聴き入った。


「こちらにできたのは持てる選択肢を示すくらいだった。それでも可能性を見出して選んだのは君だろう?あの時、そちらの事情を聞いて改めて決意させてもらったんだ。任せてもらう以上絶対に君達を助けると、……これはまだ道半ばだが」


 ぱちりと、また一つ瞬く。


「…もう充分助けて下さいました。今日の出来事だけでも私は本望です」


 もちろん姉の今後やまだ不気味な研究が続いているのは気がかりだが…、これ以上を彼に望むのは贅沢が過ぎる。

 今すぐは難しくとも、自分だけなら事態の終息と共にこの邸から出してもらって構わない。


「あのな…」


「……?」


 少し困ったような、呆れたような声が心から不思議だった。


 既視感。…「まだ満足しないでくれ」と言われたあの時のような。

 けれど今までに与えられたものは、何ものにも替え難い。加えて姉まで保護し治療してくれると言うのだから。


「君はもっと欲を出せ。そして少なくとも俺は全く現状に満足していない。そうだな……しばらくは、それに付き合ってくれないか?」


「付き合う、ですか…?」


「ああ。こちらを信じて、ここまでついて来てくれたことには本当に感謝している。…やはり結論は変わらないな。君は強いよ。気丈に姉君を守り続けて、今日も立派だった」


 もうこちらが認めるまで繰り返すつもりなのだろう。

 誰にも反論させない、と示す強い眼差し。それはフェルシア自身にさえも。


「だからそんな君にお願いがあるんだ。姉君の治療も含めて、この件ばかりは俺が目指すところまで一緒に来てくれないか?」


 どうかな、と。

 そう問われれば。


「はい。分かりました」


 ここまできて、否やなどあるはずもなくコクンと頷いた。するとやや意外な反応をされる。


「具体的にどうするのか、聞かなくて良いのか?」


「はい。…私、知っていますから」


 貴方のことを信頼に値する人だと。

 優しく強く、理由なく行動する人ではないと。


 あの日からずっと。自分のことを考えてくれた人を信じないでどうする?


「貴方様がそう言うのなら、それだけで充分です」


「フェルシア、それは……。まあいいか、これ以上はまた明日にしよう。今夜はゆっくり休むといい」


 君の部屋も用意してあるから、と。

 その言葉へまた頷きながら、一瞬感じた逡巡について考えていると。


 フェルシアの右手、握ったまま使われる気配のないそれが優しく取り上げられ、ふわりと頬に添えられた。


「……!」


「…せっかく渡したんだから、使ってくれ」


 柔らかな想いをあてられているようで、とても心地良い。声と同じく慈しみそのものの仕草。

 けれど彼は気付いていないのか。慰めようとしてくれているのだろうが……せっかく止まっていたものがまた溢れてきそうだった。

 子供の時以来だ、誰かが涙を拭いてくれるなんて。


 自分の弱さを肯定し、包み込んでくれるような感覚。


 それで思い出した。

 昔怪我をしたり、何か失敗するたびに慰めてくれた存在を。

 自分よりずっと力強い手。打ち合いでは手加減なんてしてくれなかった。けれど転んで俯いているといつも手を差し伸べてくれて。


(…そうだわ。ずっと誰かに似てると思ってて…)


 やっと分かった。

 全部がそうではないけれど、時々、確かに重なる面影があって。

 そしてそれは。自分にとってとても。



(―――嬉しい)



 それはいつかの冬日に消えるように沈み、凍りついていたもの。

 芽吹いて開き、光り出すような感覚が満ちればまた、心の霧が晴れたようだった。


 そう、そうだ。

 忘れていた。何と表現するべきなのかを。


 いつも気にかけ、気持ちを示してくれて。

 微笑み、背中を押してくれて。

 姉を助けてもらって…今、涙を拭いてもらっていることも。


 全部、彼が自分に向けてくれるものが…とても。


 ふと、涙が止まったことに気付いた大きな手が離れる。

 丁寧に拭われた肌はもう乾き、その上では赤と青が宝石のように輝いていた。

 そして。


 フェルシアは常々感じていたことと、たった今自覚した気持ちを打ち明けるべく、震える唇を開く。



 ライナス様は、似ていますね………と。


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