11章 その日は鈍色の空だった(1)
十一月になった、曇天のある日。
木々の繁る閑静な住宅街の一角にて。
ガラガラ…ギッ…と鈍い音を立て、巨大なゾエグ公爵邸前に一台の馬車が停まった。
車の側面に記された紋章は社交界ではまずまず知られた、クローネ伯爵家のものだ。使用人が用意した後ゆっくりとその扉が開かれれば、一人の女性が顔を出した。
「ありがとう」
高過ぎず低すぎず、涼やかな響き。平坦だが良く通る声の主は流れるような優雅さで地へと降り立つ。
そうしてふわりと翻りかけた裾を丁寧に裁くと、彼女はさり気ない様子で目前の建物を見上げた。
青と赤、誰もが注目する異色は今日も深く透明で美しい。
そこに揺らめくのは緊張か、はたまた決意か。
(…ついに、この日がやって来た)
思わず立ち止まりそうになる。が、不審に思われないようフェルシアは慎重に歩を進めた。
意識するのは作法だけだ、と己に言い聞かせて。
そのまま何も言わずとも一階の奥へと誘導される。
侍女と共にメイドの後をついて行き、やがて辿り着いたのは質素な一枚扉だ。見慣れた廊下の突き当り、どこか侘し気に佇む様は「この先には何もありませんよ」と人に伝えるようだ。
それをメイドがコンコンと叩けば小さく応えがあって、間もなく来客二人はその内側へと通される。
入室するとフェルシアはゆっくりと部屋の中央、そこにある寝台へと歩み寄った。いつもの如く、数歩歩くとふっと力抜けるように座り込む。
床上であろうが少しでも彼女に近しくいたい…その想いを体現する定位置だ、姉の横に縋りつくための。
鍵を閉め、それを監視する世話係や侍女もいつも通りだ。またやっている…と、それ以外特に考えていなさそうだが。注意のため背後に神経を澄ませ続ける。
目の前、姉の様子は昨日と変わりなさそうだ。浅いが規則的な呼吸を聴きながら、待つ。
その瞬間を。
必ず守ると…心の中で三回祈りを重ねた、その時。
コンコン
小さく硬質な音が響く。
するとすぐに室内の気配が動いた。
「はい…?」
メイドの怪訝な声。何故ならここを訪れる人間はほとんどおらず、交代の人員が来る時間でもない。
侍女も視線を寄こしたので一時自分から全ての視線が剥がれる。
その隙にスカートの下で足を組み替えた。
「アラン様からフェルシア様に伝言だ。直接言うように指示されているんだが」
使用人達にとっては聞き慣れない、しかし自分にとっては覚えのある声がして密かに驚く。
メイドと侍女も目を見合わせていた。口ぶりからして邸の男使用人なのだが、「直接」という部分を捉えかねている。
「…それは…本当でしょうか?」
この扉の外に衛兵はいない。一見不用心にも見えるが、この敷地入り口から続く厳戒態勢と、リーシャの存在を知る者は限られ、関係者以外へは接近禁止令が敷かれていることによるのだろう。
そのため来訪者と直接話さざるを得ない状況にも彼女たちは戸惑っていた。
「当然だろう。…困ったな、もしこれが伝わらなければ私は君達のこともアラン様に報告せざるを得ないんだが」
けれど今の二の句を聞いてすっかり気持ちが傾いたようだ。
あの嫡男に自分達について報告される。それはただ暇を出されるよりも遥かに恐ろしいと分かっているからだろう。
「…分かりました。お待ちを」
もしこれが不審者で、後に領地にいるゾエグ公爵に罰されるとしても。近衛に勤めるため未だタウンハウスに滞在するアランの方が恐ろしく思えたのか…。突如理不尽な選択を迫られる彼女達に少しだけ同情していると。
不審感たっぷりな言葉の終わりに、カチャリと音がして。
それはとても稀有な光景だった。面会の途中でも常に閉ざされていた施錠が開かれたのだ。
そうして女性の手がノブを引けば、扉の向こうに一人の姿が現れる。
逆光で全容は見えにくいが…。同じく振り返っていたフェルシアの目には、確かに見慣れた顔貌があった。
「やあ、ありがとう」
「いえ。それで、伝言とは………ッ!?」
喋ったかと思えばすぐ、息を飲む音が聞こえて。
それを視界の端に捉えつつフェルシアも飛びかかる。室内のもう一人へ向けて。
「あっ……、やめ………!!」
難なく背後を取って細い肢体を搔い潜る。相手は襲撃に慣れず訓練すら受けていない一般人だ。
両腕を避け首元を捉えるのは息をするように容易かった。
「動かないで。動けば苦しいですよ」
「そうそう。ちょっと静かにしていればいいんだぞ。すぐに終わるからな」
あちら側の人間とはいえ非戦闘要員への流血沙汰は躊躇われる。こんなことをしておいて何だが大人しくして欲しい。そう願って発言すれば、飄々とした声が重なりそちらを見た。
数歩離れた先でメイドを捕える姿は従者の格好だが…整った茶色の短髪、そしてその下には。
「…まさか、貴方が来るとは思いませんでした」
拘束されすっかり怯えたのか、震えて大人しくなった腕の中を確認しつつ口を開く。
「よっ、久しぶり。元気そうだな?」
「はい。私は問題ありません」
そちらもお変わりなさそうですね、と。
続けて言った己へニッと笑ってその従者役、テッド・レイン少尉が答えた。実習以来会っていないので、一週間と数日ぶりの再会だ。
捜査の許可が出たのでゾエグ邸へと立ち入る、その決行日時と簡潔な指示を伝えられた時には、思いもしなかった人選だ。
「よし。じゃあフェルシア、これな」
「はい」
笑顔に頷けば、携えていた荷物を探った彼からポイポイッといくつか物を投げられた。それには縄も含まれていて、お互い手筈どおり使用人二人を拘束する。手も脚も、きっちりと縛り終えてから立ち上がり、テッドと目線を交わし合って。
「いつでもどうぞ?」
微笑み、余裕そうな態度に場違いなものを感じながら。予定通りこの瞬間を迎えられたことへ感謝して。
フェルシアは壁の一面、室内唯一の窓にタタッと走り寄る。
軋む窓枠を押し上げ、右手を伸ばすと腕ごと外に付き出した。
そうして手を左右に揺らす。一見ただ手を振っているだけにも見えるが、果たして。
(お願い……!)
落ち着かない気持ちとは裏腹に、見えやすいよう大きく腕を動かした。三回の、決められた回数を。
それが終わると手を引っ込めて一息吐く。…後は待つだけだ。
室内を振り返ってまたテッドの方を見ると。
「……………」
彼は打って替わって神妙な顔つきで下を……寝台に横たわる彼女を見ていた。
「あの…?」
「…なあ。この娘がリーシャ…だよな?本当に大丈夫か…?」
血色の無い肌にピクリともしない瞼、骨の突出が目立つ肩や顔、浅表性の呼吸。
…自分はとうに慣れてしまったが、確かに驚かれるのも無理はない。
「はい。お伝えした通り、意識がないほかは安定しています」
「…そうか。分かった」
絶対に守るぞ、と。改まって真剣な顔になった彼に合わせて頷く。
間もなく窓の外、門のある方面がなにやら騒がしくなってきて。数分後、バタン!と乱暴に扉を破るような音がした。
続いてバタバタッと複数の激しい足音が響く。
「来る。用心しろ」
「はい。絶対にここを動きません」
そうして悲鳴が響き始めた屋内でここへやってきたのは…。
「おい、ここは…、…ぐあっ…!」
ゾエグ家の執事だった。
上級使用人の一人だ。フェルシアが面会中と知っていて確認しに来たのだろう。無残にも、入り口へ陣取っていた彼の柄に倒れる。
「まずは一人、か」
まだまだ来るはずだ。現在ここに駐留しているのはアランと使用人以外に、警備要員や領地騎士もいる。そしてこの部屋は知る人ぞ知る、一家の次に確保すべき被検体がいるからだ。
そうしてフェルシアも油断なく剣を握り直した。これは先ほどテッドから寄こされた中にあった一振りである。
切っ先の尖った真剣。先月行軍の時に配られたものと同じだ。
薄暗い室内で、目的のために研がれた刃がわずかな光源を反射し光る。
(いざとなれば、やらないといけない)
人を斬ったことはない。
けれどその方法は熟知している。学院で対人を中心に訓練するのは何のためか、ちゃんと知っている。
軍があるのは、自分達が日々安心して生を営めるのは何故なのかを。
ぐっと、目的意識を明確にして構えた。
剣を教えてくれた父はもういないけれど。奪うのならば、誇りと責任を持てと述べた厳しい声。
その声を思い返し、守るべき存在を背にして。
「……!誰だ!お前ら…!!」
現れた姿を見た瞬間、黙って踏み出した。
「……ッあ!?」
トスッと軽い音を立てた一撃。対する体が揺らぐ。
そうしてあえなく地に伏す光景へ、その者と同じ服を着ている彼が口笛を吹いた。
「お見事。やっぱりやるなあ」
倒れた男から血が流れることはない。今のは打ち込んで首元に衝撃を与えた、それだけだから。後に捕まえられれば充分なのでもともと命を奪う予定はないのだった。
それからは、続々と狭い入り口を抜けようとする騎士が現れる。
室内で複数が入り乱れるのは危険だったので、すぐにテッドが廊下へと躍り出た。姉さんに付いていてやれ、もし取りこぼしたら頼むと言い残して。
それへ短く頷いてしばらく外の気配を伺っていたのだが。
喧噪の中、それからはついぞ侵入者がこの病室を訪れることはなかった。
「…全員捕らえろ!反撃する者には容赦するな!」
ものの数分で、またしてもよく知った声が目の前の廊下へと響く。
(オリヴィエ少佐…!)
ぶわっと、気持ちが溢れるような感覚。
あの人が来たならもう大丈夫。当然のようにそう思う自分が止められなかった。
姉に寄り添いながらも、扉を破って駆け出したくなる。
ぐっと我慢しもう一度寝台を振り返りながら、早く、早くその姿が見たいと急く。
「テッド!そっちはどうなっている?」
「問題ありません!」
「よし、そのまま待機だ」
大きく響き合う声。外の気配を探るがすでに争いの音は少ない。
抵抗しているのは一部なのだろう。それでも邸内の鎮圧は予想以上に早かった。
きっと綿密な作戦が練られていたのだ、それほどまでに考えてくれたのだと己惚れても良いだろうか。
上階へと順に制圧する手筈なので、どこかで聞こえていたザカリ―らしき声は更に遠ざかっていく。知っている声を聞いていると安心する、そう思っていると。
真っ直ぐに駆けてくる靴音が聞こえてきた。
それは何の躊躇いもなくこの扉まで辿りつく。
「フェルシア、大丈夫か!」
「少佐……!」
足音で分かっていたので、開かれた扉と同時に構えを解き、彼女も歩み寄る。
目が合った瞬間に酷く懐かしく感じた。
たった十日会わなかっただけなのに。どうしてだろう?
珍しく感情に波立つ瞳が深い安堵に揺れる、そんな一瞬の移ろいを目の当たりにして。
フェルシアは泣きたくなった。




