9章 (3)
「君の姉君、リーシャ嬢は今どうしている?」
ふと投げられた問いにフェルシアは身構えた。警戒というより、戸惑いにだ。
これは…どう答えるのが最善なのか。
「姉の体調は一応安定していて…。面会は日にわずかなものですし、顔を見るだけで話はできないのです」
つい俯いてしまった。かなり弱っています、とはついぞ言えなくて。
声で気落ちしていることは伝わったのだろう。対する二人は一瞬押し黙った。
(酷い重症で…、なんて言ったら気を遣わせてしまうでしょうね…)
彼らに協力することで自分が失う可能性について話すのは躊躇われた。できることは全て協力したい、あの家に遠慮などして欲しくないと、そう思っているから。
「あの、よろしければ教えてください。少佐は…そちらはこれからどう動くおつもりなのでしょうか?」
話題を変える。自分の話は粗方済んだはずだと。
「ああ。今は材料を揃え終わって証拠固めの段階だ。君や、研究に関わった者の内部証言で人体実験の裏付けも間もなく終わるだろう。他にも嫌疑はあるが、一旦はその内容で追及するのが早い。あとは細部の整理と、捕縛と捜査へ踏み込むために陛下の許可が必要になる。それら全てを確認次第動くつもりだ」
実際には警察権を持つ別部署と連携して包囲網を敷く、そう締めくくった彼に希う。
「では、折り入ってお願いがございます」
こうして願うのは二度目だ、と既視感を感じながら。変わらず静かに促す瞳へ気持ちを寄せた。
「もしも邸に立ち入る際は、私も伴って頂けませんか?決して邪魔はしません。…少しでも姉の側にいたいのです」
姉が人質であることは話したので不自然な希望ではないだろう。
これから起こる争乱や証拠消しの折に姉が殺されてしまうのではないかと、心底恐れるからこそ。
自分だけはその手を握っていよう。
最後まで必ず側にいる。それが一人で決断したことへの、せめてもの償いだ。
己の目でちゃんと見届けるのだ、という思いがただただ胸を占めていた。この気持ちはおかしいだろうか。
緊迫した眼差しをどう思ったのか、果たして相手は当然のように微笑み。
「もちろんだ。ゾエグ公の捕縛と同時に、君達姉妹の安全も限りなく優先する。決行日については、通知の手筈が整ってから知らせよう」
「ありがとうございます」
しっかりと言葉をもらえて安心した。彼ならば任せられる。
そう安堵して目を伏せると。
「公爵のその他の嫌疑についてだが…。他の犯罪行為や容疑に心当たりはないか?」
犯罪行為。それは公爵という肩書から最も忌避されるべき表現だが、最早虚しいくらいに似合ってしまっている。
「それは……心当たりならいくつか…。例えば私は、この実習に際してリチャード王子について探るよう指示されています。少佐もお察しの通り危害を加えるおつもりでしょう」
「ああ。撒き餌に食いついてくれて助かったよ」
そう言った声には何の衝撃もなさそうで。フェルシアは瞠目し尋ねた。
「食いついたとは。…まさか、始めから私を差し向けさせる算段だったのですか?」
「それもあるな。必死になって捜索しているようだが、何も掴めていないようで何よりだよ。それに君は探す気などなかったようだが?」
フッと笑ってそう言われ、一つ目を閉じてから。
(見抜かれていたことは、完敗だわ。けれど…)
瞳を開き、もう一度斜めにある優雅な顔立ちを見る。そこには人を食ったような表情があった。
「確かに探る気はありませんでしたが…、軍事機密を持ち出したかもしれません」
「自分でも分かっているんだろう?そんな隙は無かったと」
結局は学生に相応しい環境を与えられている…と結論付けてしまったことが悔しい。たったそれだけのことに何故だか反発が湧き上がった。
「少佐がお気づきでないだけでありました、と言ったらどうでしょう」
「それは大変だな。情報管理を徹底するよう指導しなければ」
白々しい言い方だ。フェルシアの言葉なんて砂粒ほどのダメージすら与えていないのが分かる。
(ああもう―――)
「はいはい!二人とも、脱線しないで下さい」
すっかり黙っていたルルリエが割って入る。やや呆れた表情で、今の無意味なやりとりはさすがに記録放棄したようだった。
「もう、仲が良いのは分かりましたから。…少佐、他にもありましたよね?続けてください」
「ふ……ああそうだ、フェルシア。ゾエグ公爵の邸で不審な人物を見かけたことはないか?例えば夜に」
まだ少々笑みを含んでいるのは気になるが…、その問いにはすぐにピンと来た。
彼はあのことを聞きたいのだろう、と。
「…何度かあります。遅い時間にあの邸宅を訪れた時です。裏口に停まる馬車と、マントを羽織ったご婦人らしき人影を。顔は見ていません、すぐ扉に隠れて見えなくなりましたから」
でも、と思い返す。あの影があった夜は決まって公爵に呼び出されることはなかった。いつも密やかな邸内が一層静まり返り、まるで使用人さえ歩くのを禁じられたような重い雰囲気。
「…それが誰か、知っているか」
「実際に顔を見ていないので、なんとも…」
ちらほらと使用人から漏れた噂をかき集めた憶測なら提示できるが、彼が求めるのはその程度ではないだろう。到底憶測で論じられる内容でないからこそ、慎重に返した。
「分かった。今後その『ご婦人』に関して何かあればまたぜひ教えてくれ」
「分かりました」
やや険しい表情を保つその端正な顔に。これに関する心労はいかほどのものだろう、と。多少共感してしまいながらながら眺めていると。
「少佐、まだ話が続くのであればインクを取って来たいのですが…」
そう伺う声がして。
ルルリエの手元を見れば、小冊子ほどの数の書類と数個の空壺が机にあった。
「そうだな…。もうこんな時間だし、一旦休憩にするか」
午後に、ここまでの話について整理したいと言われ頷く。確かに、一方的に喋った内容が多かったのでその方が良さそうだ。
そうして、退室したルルリエに続いて自分も扉を押そうとしたのだが。
「フェルシア。ちょっと良いか」
そう呼び止められて。すぐに振り向けば、ライナスが近寄ってきた。
「話すのも疲れただろう。体調は変わりないか?」
そう瞳を覗き込まれて、気付く。彼が己の気持ちを推し量ろうとしていることに。
「少佐…?お話することは大丈夫です。上手くお伝え出来たかは分かりませんが…」
「いや、それもだが。…君の怪我のことだよ」
無意識に首元へ手を添えた。この醜い痕についての続きなのだ。
そう気付いて見上げれば、苦し気な表情があって息を飲む。
「本当は今からでも姉君を助けて、君と共に安全な場所に避難させてあげたいのだが。まだまだ力不足で本当にすまない」
「そんな……」
謝って頂くことはありません、と言おうとして押し黙る。彼が心からもどかしく思っているのが伝わるから。
助けようと思ってくれただけでも信じ難く、更に実際に手を差し伸べてくれた行動力には感謝しかない。
「そう思って頂けるだけでも私には充分なのです。きっと姉も喜びます」
「…頼むからまだ満足しないでくれ。全てを任せると、引き受けたからにはできることは全てさせて欲しい。君の勇気に報いたいんだ」
(勇気……。ずっとそれを言って下さるわ)
昨日も聞いた言葉だが、そんな自覚はない。自分の中にはずっと震える子供が泣いている。だけど。
「私に勇気があるとすれば、それはきっと少佐の影響だと思います」
思い切って告げれば、煌めく夜空色がぱちりと瞬いて。とても綺麗だ。
「この短い間で私に色々なことを教えて頂き、話を聴いて下さったことには感謝しかありません。姉が助かるかもしれないという夢まで見せてもらえて…。八年間、全てが無駄ではなかったのかもしれないと思えました」
「フェルシア、それは」
「貴方様を少しでも理解できたような気がして、お願いしようと思えたのです。どうか理解させて下さったこととこのたびの機会に感謝を。…大きく背中を押して頂きました」
思ったよりも滑らかに言葉が出てきて自分でも驚いた。そうしてずっと彼に抱いていた思いをはっきりと感じながら頭を下げる。
…ここで少しでも笑うことが出来れば、もっと気持ちが伝わっただろうか。
けれどそう願ったとて。長い時をかけ凝り固まった表情には期待できそうもない。
諦めて顔を上げようとすると。
「夢で終わらせるな。君達は絶対に助ける」
「え………」
思いがけず力強い声に、目を丸くする。
「…頼むからそこで驚かないでくれ。俺はそんなに信用がないか?」
「そんなことはありません…!」
うっかり勢い付いて返事をしてしまった。
似合わない。この人にそんな台詞は。そう思えば勝手に口走っていた。
「少佐のことは信じ―――……たい、ので…」
しかし声は徐々に揺らぎ、語尾はたどたどしくなってしまって。いつになく目が泳ぐ。
しまった。本人を前にして、否定も肯定もない答えをするとは…。
果たして、それを聞いた表情は一瞬呆けたものになったが。
「…ははっ……、君は正直だな…!」
笑われている。
そう気付いた時には遅くて、出たものを引っ込めるなんてもう出来やしない。
ややこちらから逸れた横顔に驚きと、何故だか恥ずかしさが湧いてきた。
「いや……うん、…分かった。ふ…」
「……………あの。笑い過ぎでは」
打って替わってじとりと見つめる。それへもっと感じ入ったのか、今度は耐えるように咳払いをされてまた落ち着かなくなる。
確かに言い切れず本心が滲んでしまったのは否定できない。それへ不快になられるでもなく、笑われる…とは…?
うう…と心中で唸るフェルシアを尻目に、ライナスはいつの間にか普段の微笑みに戻っていた。
「…やっぱり君には勇気がある。俺はそれに答えられるよう努力するよ」
「……?」
どう繋がるというのだろう、という疑問がそのまま顔に浮かんでいたのかもしれない。
「誰かを信じるのは凄く勇気がいるだろう?覚悟してそれに挑戦している。そのことがすでに素晴らしいよ」
覚悟。その確固たる響きに思いあたるは。
犠牲者をなくしたいと。姉を守りたいと誓った気持ちなのだろうか。
それが…勇気?
「そうなのでしょうか……」
「そうだよ」
見上げる瞳は冬空に星が瞬くようで。…とても、凪いだ心地にさせてくれる。
それで正解だと。心の中まで見通して褒められているようで。
(……この人はやっぱり、すごい)
一人では、ここまで気付くことはなかった。
夜明けのように、閉じられた世界に差し込む朝日は、ただただ眩しくて。
彼といると新しい発見ばかりだ。もう…数え切れないほどに。
思考に満ちるそれらを余さず留めておきたい。
備忘録として綴じるのだ。日記でも何でもいい。
一生忘れたくない、この気持ちを。
それくらい大切にしたいと、溢れてなおきらきらと降りつもる想い。それを与えてくれた彼と共にある、この時の全てを。
この時、フェルシアは事件の後にまず一番にしたいことを思いついた。
「それと、君の人生に無駄なことなんてない」
はっきりと響いた声へ我に帰る。
「フェルシアが諦めず努力し続けたから、今日があるんだ」
それを自覚しなさい、と言われて。
ああ、視界が歪みそうだ。貴方は。
(どうしていつも私が欲しい言葉をくれるんだろう…?)
心の中でさえはっきりと求めたわけではない。それなのに、その美しい一音一音が知らなかった奥底を揺さぶって止まない。
座り込み泣くばかりだった少女はやっと顔を上げたばかりだ。
薄紅色に腫れた目元を眺めていると、横から大きな手が伸びてきて。
「こうすればいいんだよ」と教えてくれるような仕草に、見よう見まねでそっと彼女を撫でてあげれば…。
「……はい。ありがとうございます、オリヴィエ少佐」
涙を止めた少女がかすかにだが笑った…。その儚すぎる微笑みには、しかし確かな安堵があって。
冬日のささやかな陽だまりにも似たそれは、とても暖かくて美しい。
そう丁度、目の前のこの人と似ていて…。
「………?」
あれ、と気付く。いつしか目の前の笑顔が目を瞠って固まっていたから。
何か変なことを言ってしまっただろうか?
けれどそう思ったのは一瞬で、端整な顔はすぐに表情を改める。
「いや…。だが、無謀なことはしないでくれ。これからも危険を感じたら迷わず身を守るんだ」
そういえば始めはその話だったと、頷き応える。
「頼む。君にはそれができると俺は信じている」
まただ。
こんな自分をもう信じていると言う。それは聞き間違いなどではなくて。
心に美しい花が満ちるような気がして、すでに山盛りの淵に慌てて手を添える。
語りかける姿勢の全てが、本心からの言葉だと訴えているから。
彼が言うなら、そう思いたくなる。
(この人が信じる私を、信じてみたら…)
これも一種の自信ではないか。そう思わせるだけの堂々とした声音、真っ直ぐな視線へと。
「はい。私も少佐の信頼に応えるため、努力します」
やはり湧き上がる素直な気持ちのまま、フェルシアはライナスを見上げてそう誓った。




