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セラン・ブルーと幸福の少女  作者: Annabel
第1部 再会編 ※工事中。上から順に読んでいただいて大丈夫です
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9章 夢のように満ちて(1)

「おはようフェルシア。あら、さすがに寒くなってきたものね」


 廊下ですれ違った相手からそう声をかけられ、「おはようございます」と答えた。


「もうすっかり秋だわ。私もしっかり暖かくして過ごさないと」


「はい、更に寒くなりますから」


 少しだけどきりとしながらも相槌を打つ。なぜなら彼女の、ルルリエの目が早速己の首元…を覆う黒い布地へと留まっているからだ。しかし表には出さず返答を続ける。

 そして懸念は杞憂だったらしく、話題は直ぐ業務上のそれへと移り、いくつかやりとりを交わし「また後でね」と笑った彼女は行ってしまった。


(良かった。ちゃんと隠れているみたい)


 離れていく背に密かに胸を撫で下ろすと、フェルシアは振り返って再び歩き出した。

 思い出すのは昨夜酔ったアランに絡まれた後、つい数時間前の今朝のことだ。



* * * * * * *



「……………」


 身支度のため座った化粧台の前で、フェルシアはげんなりと正面を見ていた。

 そこには白いシャツ姿の少女が映っていて、その襟上には…赤黒い痣。あの気まぐれな手に絞められた結果が色濃く残っていた。

 線状に腫れたそれは首輪にも似て、フェルシアの現状を表わすようで忌々しい。

 そっとそこに触れてみる。やや痺れるような違和感があるのみだが、あの時の感触が蘇ってきてすぐに手を離した。あのことは忘れたいし、それよりも。


(……どうしよう?)


 考える。

 ここで一番問題なのは、自分はこれから実習へ行かねばならないことだ。


 昨日あの夕闇の中で。ライナスと約束した。残る二日間で急ぎ話し合って、現状について協議すると。

 今月が終われば軍部で過ごせる機会などもうない。だからできることはしておきたい、いや、しなければならない。

 しかしこのままだと制服の詰襟からも痕が半分ほど露出してしまうのだ。それだと周囲を驚かせてしまうので、なんとか隠す必要がある。化粧では不確実だし、包帯で怪我を問われるのも避けたい。


 そうして数拍考えて。木の葉舞う窓の外を一瞥した彼女は、ようやっと待たせていた侍女に声をかけた。

 「黒くて首元の長い上衣を持ってきてもらえませんか?」…と。



* * * * * * *



(見えないのは良いけど、暑いかも)


 フェルシアは暑さが苦手だ。だからなのか体調を崩すのは夏場が多かった。

 やっとその時期を過ぎて過ごしやすい気温になったというのに。一体自分は何をしているのだろう。


(…もっと注意しなくちゃ。私はまだ大丈夫。姉様も)


 昨日の一件は偶発的なものだ。ゾエグ公爵にとって姉は実験体であると共に、自分を駒とする原動力としても存在している。

 …命を奪わずとも痛めつける真似は今まであったが、決定的に手を下すには時期尚早だ。


 見慣れた扉の前で立ち止まり、ふう…と一息吐く。

 この状況を変える。この先で待つ、彼と。

 そうして心身を整えると、いよいよ拳を作って堅い感触を叩いた。


「失礼します。グローリーブルーです」


 すると中から「入れ」と声がして、促されるままにカチャリと開く。

 そうして視界に現れた人は思った通りの位置で坐していた。どうしてだろう、その悠然とした姿へとても安堵しそうになる。

 昨夜の暗い衝撃が和らぐような、えも言われぬ感覚。やっとここに来れた、と。

 挨拶をしてから執務机の前に立つ。その際ちらと己の首元に視線が流れた気がして。

フェルシアは気付かないでおいた。どうしてだか彼には特に、これについて言及されると不味い気がして。


「昨日は本当にありがとうございました」


「…いや。体は大丈夫だったか?」


「はい。問題ありません」


「そうか。では、それは何かな」


 それ、と言いますと。

 聞き返しそうになるのをすんでのところで留めた。艶やかな前髪から覗く紺藍が指すものは明白であったから。


「…これでしょうか?」


 右手を黒い襟に添えて見せれば、当然肯定されて。


「ああ。寒いのか?」


「はい、少し」


「それは…とても信じられない話だな」


「……?」


 意外な切り返しに瞬く。


「寒さには強いんだったな?子供時代も散々雪遊びをしていた君だ。それが秋になったからといって他の人間よりも先に厚着をするとは、到底思えないんだが」


「…………」


 確信を持って声に、束の間閉口する。しかもその態度がますます彼の疑念を裏付けてしまった。


 会って早々、どうして自分はこんなにも疑われているのだろう?

 もしかして見えている?と、ハッとして無意識に手を上げそうになり、戻す。

 …危なかった。ここに何かあります、と示してしまうところだった。


「これは、少し事情がありまして。気にしないで頂けると助かります」


 フェルシアは仕方なくそう言った。何故彼がここまで気にするのか分からないが、元よりこの上官には欺瞞で敵いそうにない。


「気にしない、か。…とりあえず、そこへ座ってくれ」


 言われて執務机前のソファへ座った。話をするためだろうが、この流れからして早速落ち着かない。

 するとライナスは一歩一歩近付いてきて。そうして自分の対面に座るのだろうかと思ったら、違った。

 思いがけず彼は右横に腰を降ろした。人一人分の距離を空けて。

 二人の間に遠すぎず近すぎず、表情のハッキリ見える距離が生まれる。


「あの………?」


 意図を掴みかねていると、少し屈んで目線を合わせた彼が口を開く。


「君は、私に全てを任せると言ったな」


「?…はい」


 それは…、確かに昨日の自分が言った言葉だ。撤回するつもりはない。

 荒げるわけでもなく、静かに迫られて瞠目する。


「そのために教えて欲しい。今君がそうしているのは、どういった事情によるのかを」


 戸惑った。真正面から問われてさすがに誤魔化せそうもない。けれどはっきりと言うのは躊躇われるのだ。きっとこの人を不快にさせてしまうと思って。


「…あの、これは。本当に、ちょっとした痕でして…」


 悩みながら言うせいで、珍しくもややつっかえたようなもの言いになる。


「それが見えないようにしているだけです。本当に。すぐに消える思います。あの…大した事はありません」


「痕?…それはいつ、どういう状況で付いたんだ?」


「それは…」


 具体的に尋ねられ、いよいよ言い辛い。

 酔った婚約者候補に首を締められましたなんて、まず一般にあり得ない……はずだ。

 しかもこの結果を招いたのが己の失態であるのも、口に出せばもっと虚しくなるだろう。

 それに…事の顛末を聞いた彼がどんな反応をするのか、何となく想像がついてしまった。


「あの……昨日帰宅した後に、ゾエグ様のお邸を訪れたのですが」


 すでに険しくなった眉間を眺めながら、最も口にしたくない単語の一つを出す。


「そこで偶然アラン様にお会いしまして…その時に」


「待て。…もしかして、私には話しにくい内容かな」


 突然遮られ、え、とフェルシアは顔を上げた。

 見れば、彼はやや蒼くなっているようにも見える。それほどあの家の名を聞くだけで不快だったのだろうか?

 確かに自分も家名だけで嫌な感覚が湧くが…。


「どういう意味でしょうか?」


「いや…。君は…その」


 とても不思議だった。今や逆に彼が言葉に詰まっている。


(……どうしてかしら?)


「あの……?確かに気持ちのいい話ではありませんが…。特に少佐だからということはないと思います」


「本当か?…無理はしないでくれ」


「??」


 その慎重な声音について考える。が、示唆される意味は一向に思い浮かばなくて。

 何を疑われているのか不明なまま、フェルシアは思い切って肝心の部分を告げた。ここまで来れば言うしかないだろうから。


「彼に首に手をかけられまして。あの、わずかな間だけですが…」


 小さく息を呑む気配がして。

 見開いた瞳が信じられない、と訴えるように自分を見つめていた。


「…なんだ、それは」


「止められて、すぐに離されましたので大事には至らず………あの…?」


 ですから、と続けようとしたができなかった。説明を重ねるほどに斜め上にある顔色が深刻になる。


「大丈夫、ですか?」


「………それは、俺が言うべき言葉だよ。…続けてくれ」


 促されるが、思った通りどころかそれを大きく超える反応に慄いてしまった。彼の一人称が変化していることからもその衝撃ぶりが伺える。

 昔受けた嫌がらせと違って体調に変化はないし、そんな顔をされるほどのことだろうか。


「続きは…それ以外は特にないのですが」


「いや……賢い君なら分かるだろう…?今の話は、疑問だらけで…何と言ったらいいのか……」


 深い溜息が響いて。こちらから目を逸らし、瞳を翳らせた彼により沈黙が落ちた。

 どうしよう、やっぱり言うべきではなかったのか…。彼はまだこちらの実態をほとんど知らないし、思ったよりも感覚の違いが大きいかもしれない。


「……いいか?」


 小さな呟きが落ちて、横を見れば際立つ双眸が再びこちらを捉えていた。


「その痕を見ても良いだろうか?…確認のためでもあるから、お願いしたいんだが」


「見て気持ちの良いものではないと思いますが…」


「君が良ければ頼む」


 一つ頷き、恐る恐る襟元を引き下げた。やや顎を上げ見やすいように晒す。

 職業柄大怪我とて見慣れていると思うが、こういったものは…どうなのだろう?


「………………」


 彼の視線が強く首元に注目して。そうして動かなくなった。

 じっと喉元を見つめられるという状況に落ち着かず、今朝自分がこれに気付いた時を思い返す。ああ酷い有様だ、と思ったことを。


(この人の目にはどう映るのだろう)


 日焼けしない肌にくっきりと残った無様の証。とりあえず消えるまでは失敗の戒めとして見守るほかないだろう。


「……………」


「……あの……?」


 しばしの後、今度は黒い頭が左右に動いて。そうして後頚部には発赤がないのを確かめると、こう言った。


「ありがとう。…よく分かったよ」


 それを聞いてようやっと襟元を正し、再び痕を覆う。見上げる表情はとても静かで、その向こうで何が渦巻いているかを知らせない覆いのようだ。


「痛みはないか?」


「殆どありません。触れれば違和感がある程度です」


 その感情は分からないけれど、察することはできる。…今彼が平静に努めていることを。

 いつも静謐で穏やかな人が、それほどまでに驚くことだったらしい。きっと自分の感覚が麻痺しているのだと想像すれば不安になった。

 自分はこれから今までの経緯について全て説明せねばならないからだ。それへ反応して欲しいのか、黙って受け入れて欲しいのか。自分でもよく分らないが、あまり驚かせずに喋れるだろうか。


(確かにこれは初めてだけど…そもそも手を出されたのは初めてではないから、ちゃんと説明できるかしら…)


 それか、あまり細かく言及せず概要だけに留めた方が話が早いかもしれない。

 頭の中で想像が巡り始めた時、隣で低音が呟く。


「…本当によく分かったよ。奴らの君への扱いが」


「少佐……?」


「…いや、気にしないでくれ。このことをゾエグ公は知っているのか?クローネ伯爵は?何か言われるのか」


「ゾエグ様にはすぐ報告が行ったはずです。クローネ様は…、邸の者から聞き知る程度でしょう。特に何も仰らないと思いますが…」


 知ったところで何も思わないはずだ。就学前後はクローネ邸でも家庭教師から叩かれていたので、今更気にも留めまい。


「そうか。……君も、分かっているとは思うが」


 スッと放たれた前置きには、強い響きがあって。


「これは立派な暴力だ。因果関係は不明でも、望むなら犯罪として届け出ることができるし、まず間違いなく受理されるだろう」


「それは…。…承知していますが…」


 言い聞かせるように当然の選択肢を示され俯く。

 慣れたとはいえ客観的に見ればどうなのか知っているつもりではあった。しかしそれらへ毎回反抗する術はなく現状回避は不可能だ。だから全ては些末事だと、日常として放っておくのが一番なのだと。自分はそう思い込むしかなかったから。


「…大丈夫だ、君を責めてはいない。ただ…話を聞いた一番の感想がそれだったんだ。機会があればまず取るべき行動について、常に忘れないで欲しい。こちらも全面的に支援するよ」


 もう一度彼の表情を伺う。表情こそ歪まないが、その瞳には確かに激情が見え隠れしていて。


(怒ってる……?)


 確信はない。でも。

 他人の気持ちには疎いが、今の彼に燻っている感情は分かる気がした。


 まさか。赤の他人である自分が害されたくらいで?


 そこまで考えて、あ……と気付く。彼が己へ「心配した」と言った瞬間を。

 木登りで心配をかけるらしいライナスに、この話をすればどんな思いをさせるか。考えずとも、すぐに分かることだった。

 この間の事だってまだ謝れていないのに、何度も同じような気持ちをさせて申し訳ない。

 昨夜は自分にも一因があったし、平素はああまで暴走されることはない。そのことも言い添えたくてもう一度口を開く……が、すぐに遮られた。


「…あの。彼はいつもこうなのではありません。これは珍しい方で…」


「頼む」


「え……」


「庇うな。君がそう言うと、俺はどうすれば良いのか分からなくなる」


 それは酷く苦しげな吐露だった。


(どうすれば…良い……)


 引き結ばれた唇から零れた掠れるような懇願は、自分の胸を掴んで離さない。そうじゃない、もっと怒ってくれ。そう言われているようで。


「…すまない。だが、君だってちゃんと色々なことを感じているだろう?怖かったとか、痛かったとか…。ここではもっと素直に、自分の思ったままに振舞って良いんだよ。もちろん、言いたくないなら無理強いはしない」


 その穏やかな響きに、真っ直ぐ届く真摯さに満ちた眼差しに。

 あの時押し殺した衝撃と後悔を救われるような心地になって…。


「それは……、私は」


 その時だった。


 コンコン、と規則的な音が響いたのは。


参照:7章(7)

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