8章 (4) ※R15
「………負けました。ありがとうございました」
それは心にも響いて、じわじわと実感が広がる。完敗だと。
本当に久しぶりの感覚だった。家族を除き、学院でもこんなに強い相手と戦ったことはない。
実戦であれば自分の命はここで終わっている。
「…いや。こちらこそ、ありがとう。良い手だった」
彼も腕を降ろし、姿勢を正すが息一つ乱れていない。
…そんな様を見せられては、やはりわずかでも詰め寄れた手応えなどないのだが。
「自分が未熟でした。お恥ずかしいところをお見せしました」
「腕は大丈夫か?」
「問題ありません」
本当に気にさせてしまっていたのだろうか。未だ衝撃が残ってはいるものの、怪我はしなかったので支障ない。
「なあ、聞いてもいいかな」
「はい。何なりと」
「最後のあれは、君の家の技術か?」
すぐに思い至る。フェルシアが終わりに繰り出した渾身の一閃のことだろう。
「あ…はい。父から教わりました。どうして分かるのですか?」
「以前…と言っても、十年は前になるな。君の父上に相手をしてもらったことがあった」
その時の剣技を思い出したよ、と続けられ驚愕した。それは。
「父と会ったことがあるのですか」
「あるよ。学院では君の兄君とも…ああ、それこそトーナメント本戦で争った」
初めて聞いた、他人が喋る家族の話。彼女はたった今感じた情けなさも忘れ瞠目した。
「…入学した年に兄様が言っていました。『優勝はできなかった』と」
逆に自分は、領地に帰省した兄ブラッドからライナスの話を聞いたことがあった。
悔しそうに、けれど青空の下で笑って語られた。あっという間の勝負だったと。
「あの時は、悪いが有終の美を飾らせてもらったよ。…彼も、父君も素晴らしい剣士だった」
見上げる己と静かに目を合わせて彼が言う。その瞳と声音は悼みに満ち、優しいものだった。
「…ありがとうございます。父と兄は私の目標です」
今もそうであると、迷わず表現した。
幼き日の自分を作り上げてくれた、かけがえのない存在だ。尊敬の念を忘れたことなどない。
「しっかりと剣を受け継いでいるようだ。素晴らしいな」
「まだまだ体現できているとは思えませんが…。教えを忘れたことはありません」
すでに夕闇が迫りくる中、お互いに向き合い続ける。
こんな話をしているからだろうか。時が移り変わろうとする夕焼けに強い郷愁を覚えた。
(教えを…今持てる全てをぶつけて、全く駄目だった…。やっぱりこの人は)
強い。
自分など足元にも及ばぬほどに。
両手を握り締めれば、まだ少し震えている。
実感した。多少の覚えはあるつもりだったが、短い時間で打ちのめされ、衝撃を受けることさえおこがましい気がする。
「少佐は…人を良く見ていますよね」
どうしてそんなにも強いのですか、と浮かんだ直接的な問いには蓋をした。
彼も生粋の武家生まれだ。家伝の型はもちろん、代々受け継がれてきた素質もあろうが…その芯はたった一人のものだ。
そして、それはこれから直接確かめたい。
「私の動きなどお見通しでした」
「相手を見切れば手が読みやすくなる。…君は苦手と見たが」
さらりと言うけれど。言うが易し、だろう。
「…ご指摘の通りです。その時々の感覚を追う癖を直さねばなりません」
父に打ち込まれながら「本能にばかり走るな!」と指導されたことを思い出す。
こればかりはいくら振る舞いを矯正され、教科書を読み込んでも治るものではなかったらしい。この八年間、変わらなかった本質の堅さに驚く。少しは考えていると思い込んでいた傲慢さにも。
一試合経て、また表面化する課題。
「感覚か……確かに、それに準じた訓練をすれば伸びるだろうな」
「?」
すっかり穏やかな佇まいに戻った彼が続ける。
「常に場面の切り替わる戦局では肌感覚も重要だ。本能、と言うべきか。知識と経験でそれをも磨き、瞬時に的確な感覚を持てるようになれば強い」
君は身体能力に富んでいるから、向いていそうだ。と、滔々と語られるそれにフェルシアは瞬く。
確かに父からは己の感覚を否定されるばかりではなかったし、それが有利に働くこともある。こんな風にアドバイスされたのは初めてだった。
彼の言う通り、いつかは素早く柔軟な剣技を繰り出すことができるだろうか。
(すごい。試してみたい…!)
常人から見れば現実味の薄い話。しかしそれは彼女にとっては天啓にも似た教えで。
両眼がパアッと期待に輝くのを感じた。
「もちろん、感覚だけでなく相手や状況も…後は適した獲物を持つことだな」
言われて黄色い草場に放られたままの剣を見る。あれは軍の正式装備品だ、数代前の。
長さも太さも汎用的なそれは自分には少し扱い辛い。それでいいのか、という手合わせの前と同じ視線を感じる。
「とりあえずは、やってみます」
「入軍して士官となれば好きなものを携帯して良いんだが…」
言われているのは国軍の現行制度についてだ。士官以上は申請許可を条件に個人の剣を持つことが許されている。近衛では外観上の観点から厳禁であるが。
彼が普段刷いている剣だって独自のもので、抜いた所を見てみたいと常々思っていたけれど。
「それは…そうですが」
夢のまた夢のごとき提案に返答を濁す。もし軍属になれば学院出身者は下士官からのスタートなので、全く遠い話でもないけれど。今のところ自分は入軍する予定にない。
(もしかしてまだ、私が軍に来ても良いと思って……?)
今の発言がどれほどの意味をもつのかは分からないけれど。
自分の想像よりも違う未来だと示唆する、信じるような言葉へ。
やはり少し、胸が痛んだ。これは優しさだ。
多忙な中時間を割き、あまつさえ真剣に付き合って助言まで与えて。…最後に希望まで持たせようとしてくれて。
やっぱり彼は彼だと。自分が捉えた一面は正しかったのだと知る。
眩しいほどに優しくて、強い。
今の自分にとっては、それこそがライナスを表わす最上の言葉だ。
彼がいればきっと大丈夫。
今から告げる言葉は間違っていない。そう自分も信じるのだと、願う。
「少佐……いえ、オリヴィエ公爵様」
無意識に両手を握り締める己に、察した瞳が色を変える。
目が合う、そのことが……こんなにも緊張するだなんて知らなかった。
呼吸は浅く、全身が強張り固まってしまいそうだ。それでも思い切って口を動かした。
「―――私、フェルシア・グローリーブルーを貴方様に協力させては頂けませんか?」
いつしか周囲の音は消えていた。
わずかに瞠ってこちらを見つめるそれは、とてもとても深く穏やかな青。
真っ直ぐ見続けていると、「やっぱり凄く好きな色だわ」なんて素直な感想が浮かんだ。
「……いいのか?」
静かな問い。
「はい。ご存じのとおり私はゾエグ家の関係者ですので、何かお力になれるやもしれません」
淀みなく答えれば、また自分の決意を感じる。覆すことはない。
もう他人の命が犠牲になるのは嫌だ。自分達について研究する上で大量の血が流れ、家族を喪い己と同じ思いをしている人達がいるのも見過ごせない。
あの無慈悲な男が求めるものは分からないが、残酷な連鎖を生み出していることは確かだから。それを止めることで、失うものがあっても。
フェルシアは、一つ目を閉じた。
自分が早々と逃げ出していれば結果は違っただろうか。姉を捨て、一人邸を出れば…そもそも、始めにゾエグ公爵に捕まらなければ。
(……ううん、きっとあの男はそれでも同じことをした)
研究には長い年月がかかっておりもはや固執とも呼べる。自分でなくとも、きっと両親や近親が同じ被害に遭ったに違いない。
そのきりのない悪夢を終わらせるために、ライナスへ協力し摘発を助ける。フェルシアはそう決断した。
再び両目を開けば、美しく静謐な瞳にはちゃんと己が映り込み、こちらを認めてくれている。
それに勇気付けられながらも宣言は続く。
「ですが、私が犯罪者でない保証はありませんので、もしそれが明らかになった時にはしかるべき処分を。私はこの件を終わらせ、もう犠牲者を出したくない…ただ、それだけです。オリヴィエ公爵様に全てをお任せしたく思います」
言い終わると、沈黙しその反応を待った。
何を言われるか、己が差し出した心はどう受け止められたのか。
いつの間にかドクドク…と動悸がしていた。全身に、先ほどとは異なる緊張が満ちている。
人と対するのにこんな思いをしたのは初めてだった。邸でも学院でも、いつもは何を言われても気にならない。
偽りない本心を打ち明けることで、どう思われるのか。どう反応されるのか。
怖い。
不安だ。
もっと自信があればと、とっくに自分から削がれてしまったものを求めた。
そうして数秒の…フェルシアが一人落ち着かなくなった頃だった。
「分かった。ありがとう、フェルシア。君の勇気に心から感謝する」
足先から一歩ずつ狭まり、ついに手を伸ばせば届く位置で彼が立ち止まる。
深まる陰影で、強く煌めく光から目が離せない。
「これは私の考えだが、君の立場が明らかになれば罪に問われる可能性は限りなく低い。だから自分の身を守りながら、できる範囲で君には協力して欲しいんだ。後は全てこちらで請け負おう。…気負いすぎるな、と言ったら伝わるかな?」
それは自分が想像したよりも落ち着いていて優しい、しかし確固たる意志を感じさせる声だった。
出会った時から、変わらないその姿勢。時に言葉よりも雄弁な双眸と、ゆっくりと心地よく沁みる声が。
その全てが自分を安堵させることに、深い感慨を覚えながら。
「……私に出来ることは、少ないかもしれません」
「君の情報が無駄になることはない。それに言ったろう?君を助けたい、と」
少し屈んで覗き込まれて。ぐっと近づく距離に、どきりとした。
「もう遅いから話は明日にしようか。…フェルシア、どうか俺に教えて欲しい。君を取り巻く環境や人を。そしてもしそれが意にそぐわないものなら、解決に向けて一緒に考えさせてくれないか?」
彼と距離が近いからだろうか。瞬きも出来ずにその真摯な表情を見続けた。
「……フェルシア?」
ハッとする。彼に魅入りすっかり返事を忘れていた。
けれどもちろんその内容も心配りに溢れた声も、一字一句記憶している。このような言葉をくれる人がいるなんて、と。信じられない気分だったから。
「分かりました」
「よし」
ライナスがふっと安心させるように微笑んで姿勢を戻した。
また空いた距離へ何故だか胸を撫で下ろしていると、今度は右手を差し出される。
「では。これから改めてよろしくな」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
自らも手を伸ばしてしっかりと大きな手に包まれれば、その温もりへと確かな安心を覚えた。
初めて握手した時とは違う暖かな気持ち。こうして感謝していることが、少しでも伝われば良いのに……と念じながらフェルシアは彼の瞳を見つめ続けた。
* * * * * * *
その瞬間背中に強い衝撃が走って、失敗した、と思った。
見上げれば、ギラギラと派手な灯を背にした笑顔がこちらを見ている。噛み付かんばかりに覗かせたその歯が開いて。
「…なあ。お前さあ、不快なんだよ」
嫌悪に塗れ囁く歪んだ金眼の持ち主。
いっそうの笑みとともに、襟元をぎりぎりと締め上げられ肌が引きつるのを感じた。
「申し訳、ありません…」
「何を謝るんだ?…悪いことをしたと、本当に思っているのかな?」
耳元の吐息におぞけ立つ。
いつになく接近したとて、自分達の間に流れるのは情熱や甘美とはほど遠い。どこまでも。
「どうして俺が不快に感じたか分かる?」
一転、密やかに甘く吹き込まれれば、より一層肌が粟立った。
…そんなものは分からない。自分はただ、姉を見舞った帰りに廊下を歩いていたらこの男、アランへ声をかけられていつも通りに返答しただけだ。何が気に食わなかったのかなんて、分からない。
一つ思い当たるとすれば、相手が酔っていることだ。
普段は父親から言い含められているのだろうが、こうして物理的に絡まれたことは過去数度ある。飲酒後らしく、平素の優雅さは剥がれ落ち、振る舞いも乱雑な態度に毎回辟易した。
しかし今はうんざりするだけでなく、右肩を抑えつけられ、壁際に追い詰められている事態に焦る。腕を掴んで嗤ったり、度を越えた嫌味を言うでもない、ただあからさまで純粋な暴力だ。
直前に突き飛ばされ、強打した背中がじんじんと波打つ。痛い、のだろうか。けれど避ければもっと事態は悪くなったはずだ。
とりあえず頭を打つのは避けられたが…。
「…私が、不敬な態度を取ったから、でしょうか」
「半分正解かな。けどハズレだ」
喉元に迫る拳に危機感を覚え、なんとか答えるがあえなく否定される。
いよいよ彼女の眼前に迫った彼は言った。
その白い首に手を添えて。
「俺はなあ、昔からお前が嫌いなんだよ」
そっと軽い仕草で被さった優雅な指先。
更に低く落とした声とは対照的な行為に、ぞっとした。
「な……ぁッ……!」
首を絞められている。
そう気付いた時にはもう、何も吸い込めなくて。
一拍遅れてもがいたが、無駄だった。単純な筋力差で勝てはしない。
ぼやけそうな視界の中、まさかここで自分を手にかけるつもりなのかと。
そうは思えど、すぐに打ち消す。
(公爵から、そんな許可が出たはずがない……!)
ライナスに宣言したことはまだ漏れていないはずだし、婚約へと向かう最中なので未だこの身の価値は証明されていると見て良い。そこへきて、こんな…。
そう考えた時だった。
「あ、アラン様…!?あの…、と、当主様がお呼びですが」
明らかに焦った声がして、途端ふっとその力が緩む。
その離れた隙間へと反射的に自らの指を入れ、振り払う。それでも右肩の拘束はあるので距離は取れず、大きく息を吸い込んでいると、頭上から「チッ」と舌打ちが鳴った。
アランは俯き喘鳴を響かせるフェルシアを見降ろす。
「何を勘違いしてるのか知らないけど、あんまりいい顔をしない方が良いよ。フェルシア?」
すでに貴公子然と戻った声は酷く楽しげだ。
「君が楽しそうにすればする程、僕は滅茶苦茶にしてやりたくなるからさ」
「…………」
荒い息遣いで返事などできるわけもない。
ただ己の失態を説いた言葉に、いつしかしゃがみこんでいた少女は呆然と首の痺れを撫でた。




