8章 (3)
その日の終業後、日暮れの時間帯。
空に夕焼けが広がり、辺りの空気が冷え始めた頃であった。
人気の減り始めた敷地内の一角で。
ふ…、と小さな唇が開いて呼気を流した。
その上の小作りな鼻を過ぎ、白い瞼がゆっくりと持ち上がって、意志の確かな両眼が姿を現す。
左の青は、明るいオレンジ色を孕んで混ざり合い。逆では赤が濃い影の中でも輝きを放って。
秋風に吹かれるままに煌めく白銀、その間に見え隠れする耳で周囲の音を聞きながら。
耳朶を打つ自らの声にも感覚を研ぎ澄ませていた。
「お呼び立てして申し訳ありません」
自分の他は無人にも見える、木々に囲まれた空間へそれは淀みなく響き、ちょうどこの場に来た者のみへと届いた。
「…オリヴィエ少佐」
「フェルシア。すまない、待たせた」
茂みに隠された小道、折り重なる葉影から姿を現したのは見覚えのある人物であった。昼と同じ青の詰襟を纏ったまま、軍靴で茜色の散る地面へと踏み出す。
「いえ。全く気になさらないで下さい」
そう返しながら、少し離れた位置で立ち止まった姿を観察する。
自分と同じく陽に照らされて立つ彼はいつも通り堂々としていた。癖のない黒髪の下に揃った紺藍の眼は強く輝きながらも静謐で、それは澄んだ冬の夜空を思わせる。
激しい吹雪が止み、月のない星空。吐息で白く染まる視界の向こうに見た…とても懐かしい色だ。
フェルシアはもう一度目を閉じた。
(私はもっと知りたい。自分の見たものを…その先を)
そのためにするべきだと思ったこと。正に今が、その時だった。
「…この度はお時間を頂きまして、誠にありがとうございます」
「大丈夫だ。言っただろう?後輩のささやかな望みは叶えてやりたい、と」
深く礼をする己とは対照的に笑みさえ浮かべた彼が言う。
それは先月実習へ引き込んだ際の言い回しとそっくりで、余裕ぶりが伺える。
それへすでに悔しさを覚えてしまった。なぜなら自分は……こんなにも、緊張しているのに。
「では、早速お願いできますか?」
逸る胸を抑え意識的に淡々と喋った。内心を悟られまいとしたのもあるが、それ以前に、ただ感情の乱れを察知されると情けなかったからだ。
「ああ。それで良いのか?」
示されて腰に佩くものに左手を添える。
「はい。これも慣れているので問題ありません」
「分かった」
では、こちらも頼むよ。その台詞を合図に二人は同じ仕草をして…剣を抜いた。
シャラン、と涼やかな音が重なって。
今の響きの差異だけでも分かる。自分と彼の剣への向き合い方は違うのだと。
そしてどちらも刃引きだが、背丈に合わせて彼の方が刃は長い。
「ご指導よろしくお願い致します」
「ああ」
構えのために一歩を踏み出したフェルシアは、改めてライナスと相対した。
自分と手合わせをして欲しい。
…それは、今日の昼日中に持ちかけた。改めて彼と向き合うための言葉だ。
まさか「午後は外出だから、夕方になっても良いか?」と言われ、即日で実現するとは思っていなかったが。
どうしてそうしたいと思ったのか、そうすべきだと思うのか。はっきりとした自覚はない。
けれど、知りたくなった。
彼と剣を交えて、自分がどう感じるのかを。
(信じるということが、知りたいと思うただの一歩なのだとすれば)
まだ心から言い切ることは難しい。
けれど、知りたかった。自分を目にとめて、何度も思いがけない言葉をくれた心の内を。
抑えるばかりの気持ちに気付き、差し伸べてくれる手の意味、その穏やかな笑顔の示す先を。
彼が「助けたい」と言ってくれた真意を。
自分は知りたい。
例えどんな結果となっても、そうすれば何か見出せるのではないかと。今ならそう思えるから。
寒空の下、真っ新な雪の上で。点々と続くルビー色を追いかけ、絶望に膝を折ったままの幼い背が震えている。
それを助け起こし辛さを認めて。次の場所へと導いてやるのもまた…自分の役目なのだろう。傷付いてもまだ歩けると、進めばきっと道があると説いて。
そう思えるようになったのは、彼とその周囲の人々の影響が大きい。
だから、もっと。
内なる思考、精神的な強靭さまでもが戦い方には表れる。
他人である自分へ目だけでなく心までもを向けられる強さ。それをもっと感じて……はっきりとした答えを出したかった。
(教えて欲しい。私に分かることも、分からないことも)
自分はこの強い人について、まだまだ知らないことばかりだ。
例えば実際に剣を振るっているところを見たのはほんの一瞬のみ。一昨年学生を相手にする姿を遠目に見て…それだけでも、充分に達人と称されるのは理解できたが。
対峙する二人の間を、緩やかな風が吹き抜ける。
わずかな雰囲気の変化で相手の意識が切り替わったと分かる。その堂々たる立ち姿だけでも威圧感があり、こちらを怯ませるというのに。
じり…と地を踏みしめ、掲げた刃越しに絡み合う二対の双眸。
早く来いと、誘われている。
始まれば時間が惜しかった。その目線に促されるままに躊躇を捨て、フェルシアは駆け出す。
対戦では先に仕掛けることが多い。人でも魔獣でも、相手の動きを誘って懐に入り込めば容易い。
しかし彼がそうさせてくれる訳もなく、向かった先、目前に迫ったところで容赦なく振り下ろされた撃鉄が刃先を滑る。
「ッ…」
それはまさに身を倒そうとした先を直撃していて。すんで躱すと同時に、素早く切り払って間合いを取られた。
跳ね返されるよりも先に飛び退り衝撃をいなす。
想定よりも早く、鋭い攻勢だった。
一撃が重い。それも当然、ライナスは自分よりもよほど背丈と筋力がある。制服に覆われた肉体は骨格に準じ完成されているのも明らかだった。
しかしそんなことは分かっていて挑むのだ。
二、三歩の勢いをつけて再び切り込む。相手が右足を引いて避けるのに合わせて踏み込めば、…誘い込まれている、と感じ瞬時に逆に飛んだ。
(見られている。動きを)
さっきから誘うような、試すような動きだ。
始めよりも軽い薙ぎ払いを剣先で逸らす。それでもガッと鈍い衝撃がし、その一瞬でさえ歴然とした力の差を感じた。その後も数度、合間を見ては打ち込むが全く歯が立たなかった。このままでは埒が明かない。
時折ふと、思い出したように浴びせられる強打を耐え、的確に噛み合う軌道をずらして。息も付かぬ瞬きの間に足元が払われるが、すんでのところで躱した。
そして自分が退いたことで空いたと見た右肩へとまた駆け出して、…すぐに誘われただけだと知る。
降り下ろさんとした白刃を逆に閃かせ、衝撃をまともに受け止めた。
ガンッ
その激突に肩まで痺れて。
(痛っ…!)
「大丈夫か?」
「…問題ありません」
ぐぐっと圧されながら。
こちらが顔を歪ませても嘯く余裕。思ってもいないでしょうと、さすがに嫌味の一つも言いたくなった。
刃を滑らせていなそうとして。わざと力を緩められ、解けた剣戟にタッと退がりながら。
(この人…、やっぱり強いしとてもやり辛い)
知っている、子供の頃から。
自分が一番勝てないのは正にライナスのような……兄と同じ性質の相手だ。
こちらを観察する余裕があり隙がない。そして勢いには強弱の波があり、ここぞという時に強力な一撃を放ってくるのだ。
兄と一緒で、自分も産まれた時から剣を握っていた…らしいが、憶えている限り兄に勝てたことは一度もない。その理由いわく、反射的な行動の多い己は格好の餌食なんだとか。
そういった面でも自分は成長していなかったのだな…と、しみじみと落ち込んだ。
ハァ…と短く息を吐いてからまた肺を満たす。
早いもので、そろそろ正念場だ。もう息があがってきた。
刃を交わし始めてどれほど経つのか、陽の傾きは大して変わっていない。
フェルシアのように素早く行動する利点としては短期決戦が見込めることだ。しかし長期戦に及ぶならば持久力が問われる。そして彼女は未だその解決に至っていなかった。
やっぱりもっと走り込みや、魔獣と連戦するなどの実戦的な鍛錬を行うべきだったかと、後悔しながら構え直す。
お互いの足元に落ちる枯葉が、立ち位置を変えるたびに絶えず舞った。
そうして、ふと一つの剣戟、彼の刃に跳ね返された瞬間から。流れが変わった。
「…っ、……!」
己が踏もうとした位置を正確に突き、飛び退った方向を張り付くように間近に迫り払う。
それへ打ち込めば、圧倒的な力で跳ね飛ばされそうになった。
(完全に読まれ…)
ブォン、と鳴る打ち降ろしを間一髪で避けながら鳥肌が立った。そこへ間合いを取る暇もなく迫られて。
思い出す。すっかり失念していた一文を。
先ほど兄の戦術について考えたが…、最後には「圧倒的な力量で叩きのめす」のだ。
道理だ。動きも考えも読めたなら、後はそれを利用して最適解を突き付けるだけ。
(どうしよう。…やっぱり私には勝てないの?)
確かに勝てるという確信などなく、かけ離れた実力差を予想してはいたけれど。
ここにきて弱気になるのは嫌だと、雑念をもまとめて迫る閃きを打ち払う。
諦めたくはない。集中して対面を見据える。
このまま混乱すればたちまち姿勢が崩れ、即座に勝敗は決するだろう。スッと胸に昇ってきた闘志に両眼を見開けば、強い意志をたたえ輝く瞳はしっかりと相手を捉え続けた。
一瞬、意識的に両手の力みを抜く。
目前の刃と同時、彼が腕を引く仕草を見せたその時。…ふわりと、フェルシアは剣先を宙に浮かせた。
それはまるで風を辿るような、空に曲線を描く様な軽やかさで。一切の気配を感じさせず、彼女の頭上右側に舞い上がる切っ先が。
「!」
(ここ……!)
目指す一点へ惹かれるように。高く掲げたそれへ、全力を込めて。
一瞬目を瞠った、その強靭な上体へ目がけ迷いなく降り下ろした。
それは気まぐれにただよっていた蝶が、突如鋭利に豹変し地を貫く様にも似て。
今、もしも。対する人が同級生や獣であったら完全に勝利していただろう。…だが。
やはり相手は、自分よりも遥か格上の人物だった。
ガキン!!
今日一番の激震が、フェルシアの両腕に走って。
「ッ………あ…!!」
痛い。そう思って手の内を見ればすぐに分かった。
束の間感覚を失い、痺れる両の掌からは握っていたはずのものが消えていて。見慣れたあの柄を振ることはもうできないのだと知った。
その現実を認めた瞬間に。喉元に突き付けられた、もう一つの潰れた剣先。
鋭くこちらを見据える紺藍に射抜かれ動けなくなる。
そうして反抗の術を失い、精神的な衝撃を受けて。
気付けば口から声が零れていた。




