8章 (2)
「仲良くできない?」
案の定聞き返されてしまった。それへ、最もらしい…かどうか自信はないが続ける。
「確かに猫は『嫌いではありません』が。最近はどう付き合うべきかがよく分からなくなってしまって…、もうあまり近寄らないようにしているのです」
知らぬ間に何かあってはことですので…と締めくくる。
嘘ではない。しかし淡々とした説明をどう思ったのか、相手は穏やかな表情から一転、口元に手を当て笑いを堪え始めた。
それを見て内心戸惑っていると。
「ふ…そうか。分からない、か」
何故笑うのですか、と聞きたくなるのを我慢してじいっと伺う。すると俯いて少しし、顔を上げた彼は何でもないことのように言った。
「もしそうなら、それで良いんじゃないか」
「あの、それは…?」
疑問がつのる。
「今は分からなくても問題ない、ということだ。君がそこにいて膝を貸してくれたことに、とりあえずルナは満足しているようだから」
それで上手くいっただろう?と言わんばかりの口調に。
(私がここにいたことが…?)
ぱちりと瞬き、ゆったりとくつろぐ肢体を見降ろせば、それへと同意されている気分になった。
「何をするべきか、どうあるべきか考えるのも大事だが。たまには構えずにただ気楽にいるのも大切だよ」
気楽。これまた自分からはほど遠い言葉だ。
ここに座っていた、たったそれだけがこの子に安らぎをもたらしたと…、そう言われていることも。
かつてない話に首を傾げそうになった。ずいぶん簡単に聞こえるが、その心は掴めない。
自分はこの数年成長と共に成果を求められ続けた。その経験とは全くの別物なのだ。
「…………」
意味を捉えあぐね、考えて。すっかり黙ってルナを見つめる少女にライナスは続ける。
「物事に追われ続けて、他人と比べて。そうして常に自分を責めていると辛いだろう?」
言われれば覚えはあった。けれど。
その声には実感が籠っているような気がして、ようやくフェルシアは顔を上げた。
「あの…もしかして。少佐もそういった経験がおありなのですか?」
「ああ。もちろん」
すんなりと返され驚く。予想はしていたが、彼ほどの人物でも苦悩するのかと。
他人の悩みを聞く機会など全くなくとも、この世で後悔しているのが自分だけとは思っていない。それでも遥か高みと思うばかりの声が語り始めると、彼女は聴き入った。
「…そうだな。じゃあ、少し長くなるが聞いてくれ。…五年ほど前のことだ。父がひどく患って…ああ、今はもう元気だよ」
話し出してすぐ、付け加えられた言葉に安堵する。
膝の上にあったルナの長い尾がパタンと揺れ落ちた。
「あの時は一家どころか一族総出で心配した。それは家長だからというのもあったが…、やはり彼が周囲から慕われていることが大きかったな。母や妹が毎日泣いている時期は、私もさすがに不安が大きかった」
淡々と聞こえても、憂いの滲む内容に耳を澄ませる。
顔は知らないけれど、彼を育てた一家だ。きっと親愛に満ちた暖かな家庭なのだろうと想像しながら。
「話し合いを繰り返して、初めて家督相続の話も持ち上がったりもした。それくらい邸中が沈んでいて……でも、嫌だったんだ」
溜息のように小さく落ちる言葉。
誰が、なんて聞くまでもない本心からの吐露。
「皆で諦めて、父を取り巻く環境が変わってしまうと…恐れていた。だから我儘だと言われようが、相続の決議にも時期尚早だと反対し続けたんだ。そうして役目を剥がす行為が、どうしても父の前途を一つ一つ消すような…決定付けてしまうな、嫌な感じがしてならなくて。当時も当たり前だと分かっていながら、あの時はずいぶん固執したな」
意外な告白に目を瞠った。確固たる身分を持ち、心身共に強靭な人が負の感情を告白したことに。
ますます意外に思うと同時に、…彼もまた人間なのだと知る。理性が揺らぎ、いつも強くはいられないことへ密かな共感を覚えた。
また、過去の苦境と直前の話がどう繋がるのだろう?と興味深い。
「それで、周囲の声を抑えるためにも毎日軍務と領主代理として忙しくしていたんだが…、ある朝言われたんだ」
もうその頃の気持ちを乗り越えたのだろう。いつもの穏やかな声が続いていたのだが。
「『頼むから今日はお家にいて。私達と一緒にお茶をしましょう』」
「?」
突然変わった口調にフェルシアが瞬くと、小さな苦笑が覗く。
「…妹の言葉さ。君より三つ歳上でステラと言うんだが。玄関口で彼女に縋って言われた」
「それは…仕事に行こうとして、でしょうか?」
「ああ。だがその時のあの娘を見て、結局出勤はせずに過ごすことにした。……彼女が、泣いていたから」
泣いていた…と。
ふと声音を落とした響きは少し苦しそうで。これは後悔だろうか。
「…成長して滅多に泣かなくなったからとても驚いた。聞けば『お兄様が忙しいのは分かっているけれど、毎日一緒にいられなくて寂しい。ただ横にいてくれるだけでもいいから、今日だけ。お願い』と言われて……、そこでやっと気付いたんだ。自分も不安になるばかりで彼女達を気にしてあげられなかったことを」
「それは……」
仕方がないのでは…、と言いかけて口を噤む。
目の前の事で必死になる経験は誰にだってあるはずだ。ましてや実家の危機ならば尚更のこと。
(ご自分を責めることは、ないわ)
けれど彼が己の感想を求めているのかも、この気持ちが相応しいのかも分からなくて。また黙ったまま回想を見守った。
「俺が言いたいのは、ここからなんだ。その日は父を見舞いながら、一月ぶりに一日中を家で過ごしたんだ。そうして、ゆっくり話している内に二人の笑顔も増えていって…気付けば、久しぶりにいつもの穏やかな空気を取り戻していた。あの時期はお互い暗くなるばかりだったからな…」
一緒に食事をして、敷地を散歩して、庭を眺めながら他愛ない話をして。気張らず、ただ近くで寄り添い合う。
お互いのあるがままを認め合い、その姿に安心する。
そうやってただ彼女達の目の前に己がいるだけで、得もいわれぬ安心を生むことに、あの日のライナスは気付いた。それと同時に、自分もたくさんの言葉や笑顔をもらって心が落ち着いた。
丸一日。務めを休んだとしても、嫡男としての態度を保てず思いを吐露しようが、そんなことは母と妹には関係なくて。
気付けた。邸では何をせずとも、ただ一人の存在として扱われていたのだと。
無意識に、成すことばかりが己を測る価値だと考えてしまっていた。
「いずれ家長になるからと、勉学も鍛錬も相応しい指導を与えられた。それにもう大人なのだから代理として完璧にやらないと、と思うことばかりで…だからかな。あの時まで全く自覚がなかったんだ。そうでなくても必要とされていたということに。その相手が家族だったなんて、見落としも良いところだが」
(何もしなくても、いることを認めてくれる…。そのままで、いい)
心の中で復唱した。難しい話でも、彼の声だとじんわりと胸に沁み込んでくる。
照らし合わせるとすれば、自分にとってもそういった存在は家族だろう。
さわり…と揺れる木々が音を立て、足先の枯葉も静かに踊る。
「そこでやっと素直にお互いの気持ちを話し合って、一家の団結が高まったと言うのかな。その後運よく新しい治療も功を奏して、翌月には父は持ち直していたよ。今じゃ領地で元気に鹿や魔獣を狩ってる」
「…良かったです。ご快癒心からお祝い申し上げます」
その言葉に彼が「ありがとう」と微笑む。
「今のは家族の話とも言えるが、…日常の他人との関係でも同じことが言えると思うんだ」
ちらりとルナへと視線を送られ、自分もそれにつられる。
彼女は相変わらずゴロゴロ…と鳴いていて、自分と温もりを分け合いながらご満悦だ。
「責務や出来ないことばかりに目を向けていると、そうでないことを見落とすかもしれない。例えば…、今君がここにいなければルナは『膝の上で喜ぶことはなかった』し、私も『過去を話して振り返り、改めて自分を戒めること』もなかった。聴いてくれて、本当にありがとう」
「そんなことは…」
これも目から鱗、と言うのだろうか。全くふい打ちの謝辞に慌てた。
「あるよ。君は静かだけど、人の話を良く聴いているから。私は話そうと思えた」
「…………」
焦った。
これは…なんと返せば良いのだろう。
そんなことはありません、とも。
少佐の話し方がお上手だからです、とも。
そんな社交辞令じみた台詞は到底似合わない、差し出された真心に。自分は…。
「―――……私も、ありがとうございます」
フェルシアは小さく、だが確かにそう答えた。咄嗟にそう報いるのが一番だと感じられた。
そこにいてくれてありがとう、と言われたも同然の初めての体験に。戸惑いながらも、そわそわとどこか心が浮き立つ。
そこで彼女はそういえば、と思い返す。
(さっき…私は一人になることが怖くて、どう生きればいいんだろうと思ったけど…)
彼の話してくれた通りならば、この世には何を成さずとも認めてもらえることがあるらしい。
それが本当なら。暗く閉塞した囲いの外、断崖絶壁だと思うばかりの向こう側。
それが……もしも予想する光景と逆だとしたら?
遠く、ずっと見えない底は闇の中か、はたまた光の先なのか。
出会ってからたびたび彼を眩しく感じてしまうのは、己とは真逆の場所にいるからだ。
けれどその人となりを知って、ただ別世界の存在だとはっきり線を引くことはできなくなった。世界は真に一つしかなくて、ライナスは今確かに己の隣に座っている。だから目を見て、話をして、彼について知ることができる。
(……この人を信じることができれば)
信じるとは。自分の知らない相手がいると知っていること。
『私、その人をわかったつもりでいることを、理解しているのね』
脳裏に蘇った、陽だまりのような柔らかな声。
彼のことを…信じた結果を、自分は全て受け止められるのだろうか?
これは陰謀を白日に晒し、正当な裁きを与える好機だ。その代わり姉が犠牲になるかもしれない。捜査の中で己にとっては不利な事実が出てくるかも分からない。
情報を流し終わり、利用価値がなくなれば共犯として捕まるかもしれない。処刑ともなれば命でさえも…全てを失くす。
それらを理解した上で協力することができるのか?
もし望まない結果になっても、それも一つの結果だと心から思えるだろうか?
そしてもし、一連の事態が終わっても自分が一人立っていられたとして。
(それでも、今もらった言葉があれば…)
どこででも、何があっても。生き続けられる気がした。
世界は広い。そんなありふれた言葉が感傷を伴って心に沈む。
そうして、大丈夫かもしれない…と自然と導き出された答えに驚く。
これが自信というものだろうか。それなら今まで己を律してきたの何だったのだろう…。
しばらくお互いに黙り込んでいた。いつしかルナは眠ってしまい、目を閉じ体毛を上下させている。
そうして数拍後。風の音を遮って切り出したのはフェルシアからだった。
「…少佐、一つお伺いしたいことがあるのですが」
ここまでくれば、後は確かめるしかない。
それから少しのやりとりを経て、ルナを起こすと急いで立ち上がった。もうすぐ昼休憩が終わってしまう。
ライナスの後ろで丸太でできた階段を降りながら。ふと、フェルシアは問いかけた。
「さっきは、どうして笑われたのですか?その、私が…ルナにどうすれば良いのか分からない、と言った時の…」
ルナを触らない理由を告げた際の反応について、ずっと気になっていた。
「さっき?…ああ。いや、君はやっぱり頑固だなと思って。すまなかった」
「………?」
頑固。それに……やっぱり?
「前の会話を覚えていたんだろう?以前、君にルナへ触れてもらった時の」
あの日、促されて少しだけ柔らかな毛並みに触れた。それから少しやりとりをして…、結局は猫が嫌いではないとばれたまま退散した。
あ、と気付く。彼はそれを揶揄しているのだ。確かに自分もよく覚えていたので、あのような言い方をした。
「主張を曲げないところは美徳だが。素直になる練習をするなら手伝おうか?」
こちらを振り返る、からかいを含んだ流し目を思わず見返して。
「…私が猫好きだという、その根拠をお示しになられたら検討致します」
ふい、と目を逸らしフェルシアが押し黙る。その顔を、隣で並走するルナがきょとんと見上げた。
…それを見た彼が前を向き、ますます笑みを深めたと知っていても気付かぬふりだ。
きっと今、自分はよく分らない顔をしているから。
(もう、やっぱり………変な人)
前回と同じ感想しか持てないのがもどかしい。あの時とはもっと違う気持ちなのに、どう形容すればいいのか思いつかなかった。
歩く。二人と一匹で、少し離れた本舎までの道を。
意識的に姿勢を正し、落ち着いた様子で彼女はすっかり見慣れた背について行った。
参照:4章(2)




